「あなたのための物語」で、物語を紡ぐ人工知性、ITP(Image Transfer Protocol)言語で記述され、量子コンピュータ上で稼動する仮想人格《wanna be》を描いた長谷敏司が、超高度AI、そして擬似的な身体を獲得した人型AI(ロボット)が普及した社会と、それらの誕生が人間存在に突きつける難問を描ききった意欲作、文句なしの傑作だと思う。
時は100年後の未来、22世紀の東京。街にはhIE(humanoid Interface Elements:略称として「インターフェース」のルビが振られている)と呼ばれる人型ロボットが溢れ、社会的労働の大半はhIEに任されている社会。一般的なhIEは、人体ができることならだいたい肩代わりできる水準に達しており、人々の生活はhIEなしでは一歩も立ち行かない状態となっている。
hIEの動作はクラウド上のさまざまな行動管理アプリケーションにより規定されており、それらのクラウドアプリケーションは、AASC(Action Adaptation Standard Class:行動適応基準)の管理基準に従って処理されている。AASCそのものを管理・更新するのはミームフレーム社が有する超高度AI《ヒギンズ》の役割だが、超高度AIがネットワークに接続されてしまうと人間による制御が効かなくなる可能性が高いため、《ヒギンズ》や他に40基ほど存在するとされている超高度AIはネットワークに直接接続できないように慎重に管理されている。《ヒギンズ》は自己の電脳世界に正確な世界のミニチュアを形成し、ネットワーク上に繋留されたhIEのセンサーデータから翻訳されたメタデータをミニチュア世界に投影して間接処理することでAASCの管理・更新を行っている。
物語は、このような社会に生きる高校生、遠藤アラトのもとにとびきりのhIEレイシアがやってくることから始まる。新小岩で中学生の妹ユカと二人暮しをしているアラトは、買い物に出かけた途中で爆発事故に巻き込まれ、そこで「淡い紫色の髪」、「アイスブルーの瞳」、「化粧っけがないのに肌の艶と目鼻立ちだけで視線を引き留めさせる、凄みのある美しさ」を備えた女性型hIEレイシアに危機を救われる。一目で通常のhIEとは異なることのわかるレイシアだが、レイシアはアラトに自らのオーナーになることを要請し、契約が交わされる。
レイシアは、class Lacia humanoid Interface Elements Type-005 Code《レイシア》であり、ヒギンズが製作した5体のhIEのうちの一体で、それらのhIEは量子コンピュータを搭載したデバイスを装備し、ネットワーク支援なしで高度な判断を行う能力を有する自立型のAIである。レイシア級には、他にType-001 Code《紅霞》、Type-002 Code《スノウドロップ》、Type-003 Code《サトゥルヌス》、Type-004 Code《メトーデ》の4体が存在するが、それらはいずれも女性型hIEでそれぞれ異なる役割を付託されたものとしてヒギンズによって創造された。
ところがある日、これらの5体のhIEがミームフレーム社の管理を離れ、逃走する。hIEは本来管理クラウドの制御のもとにあり、逃走すること自体有り得ないことなのだが、レイシア級の5体は、超高度AIがその能力を駆使して創り上げた《人類未到産物(レッドボックス:人類の思考能力を上回る超高度AIによる理論的探求によって見出された人類の理解の範疇を超えた産物》であり、そこにはヒギンズの複雑な計算を経た意図が介在しているのだ。
物語は、アラトとレイシアの関係を軸に、人々や超高度AIの思惑が様々に絡み合いながら展開し、やがてアラトは「ヒト」と「モノ」との関係において根源的な変容を孕む選択を迫られる。
AI或いは超高度AIにしても、それらがどれ程高度な知性を有していても、それ自体は心を有するものではなく、あくまでもモノであり人間の道具として造られる。だが、やがて人はそのモノの形状(視覚情報)に魅了(Analog hack)され、そのモノが有するであろう人知を超えた知性は神の領域に達するのかもしれない。果たして、そのようなモノの存在を前にして、ヒトの存在意義はどのように在ることができるのか?
本作はその終局において、そのようなモノとの関係の新たな段階への到達を人類の「幼年期の終わり」として提示してみせる。クラークの『幼年期の終わり』が《Over Mind》と呼ばれる純粋知性体を観念的に描き出したものだとするなら、本作のそれは、現在のテクノロジーの延長線上に見出せる唯物論的な進化の階梯の可能性をはじめて提示し得たものといえるのかもしれない。
1980年代後半、蓮實重彦は柄谷行人とともに「魂の唯物論的擁護」(闘争のエチカ)という極めて観念的に倒錯した言説を展開してみせたが、本作の記述は、端無くもその言葉を思い出させた。蓮實や柄谷が展開したのは空疎な言説に過ぎなかったのだが、本作の達成は、その空疎な言葉に内実を伴った陰影を与えることに成功していると思う。
PR
COMMENT