PSYCHO-PASSのTVシリーズが一応の完結をみた。
だが、「正義(システム)の連鎖は、終わらない―― SIByL still continues.....」のテロップは続編を予感させるものとなっている。常守朱も狡噛慎也も死んではおらず、シビュラシステムを根幹とした社会システムも何ら変わらない状態に置かれたまま、ストーリーは途切れた。
システムは終わらない、否、終われないからこそのシステムなのだ。葛藤と軋轢を孕んだままの現状維持、つまりはそういうことだ。
私が、本作の世界設定をある程度把握した段階で思い浮かんだSF作品は、スタッフが意識したP.K.ディックの諸作より、それに先行するスタニスワフ・レムの「星からの帰還」の方だった。手もとに本が見当たらないので、20年以上前に読んだ記憶に頼るしかないが、その筋は概ね以下のようなものだったと思う。
宇宙旅行から帰還した宇宙飛行士たちは、相対性理論の「ウラシマ効果」により、彼らが出発した時から100年以上の時を経た地球に帰り着いたのだが、そこは、彼らの知人がいないのみならず、彼らが知っていた人間とは異様に異なる人々しかいない。その違いは、外見的なものではなく心的な在りようの方にあり、現在の地球人たちは彼らの知る人の行動様式や規範から大きくズレた存在として彼らの前に立ち現れる。実は、彼らの旅行中に人類は、闘争本能を陶冶する手法(薬品によるものだったと思う)を開発・導入しており、それによりかつてない平和な社会体制を実現していたのだ。帰還した宇宙飛行士たちは、彼らとの交渉を深めるほど、自らの異質性による深い疎外感を味わい絶望する。彼らに残された生き方は再び宇宙へと旅立つことだけだった。
戦争や犯罪、それらはおよそ一般的に「悪」として生起するしかない事象だが、それを克服しようとして、人の闘争本能や競争意識そのものを根絶やしにする。だが、それを追求すると、社会的にはどうしようもない衰退過程に入ってしまう。同様の思考実験は、確か福永武彦の短編小説(これも手元に本がなく、タイトルも失念してしまったが)にもあったと思う。
本作のシビュラシステムは、このような一昔前のレムや福永が挑んだテーマに異なる位相からアプローチしたものと思えたのだ。本作をご覧になった方には周知のように、シビュラは、免罪体質者(犯罪的行為に及んでもPSYCHO-PASSが変動しない特異な形質をもった人々)の脳をかき集めた集合知による社会統治システムとして描写されているが、その実態は、PSYCHO-PASS判定によって犯罪係数が一定水準以上の者を潜在犯として社会的に隔離する、一種の環境管理型権力(東浩紀)という訳だ。
シビュラの秘密を知り、シビュラシステムから、新たな免罪体質者:槙島聖護の身柄確保を依頼された常守朱は、シビュラの傲慢、不遜、身勝手さ、いい加減さに憤るが、現状の社会秩序を維持するためにはその存在をひとまずは容認することしかできない。
槙島聖護という免罪体質者は、いわばテロリズムによってシビュラに支えられた社会を覆すことを目論んだ革命家なのだが、彼は理論によってそれを成そうとするのではなく、自らの情緒や感性的な存在を基盤として、それを成そうとする。結果、ほぼ同類の狡噛慎也との私闘に敗れ、死を迎える。
なかなか興味深いストーリーではあったが、シビュラの正体が割れたあとの展開については、作品継続の保全に向かったとしか思えないもので、本来なら、槙島の行動はシビュラシステムの破壊、もしくはその正体の暴露へと向かわなければならないはずだ。バイオテロへと向かった槙島聖護は、その時点でキャラクターとしては既に死んでいる。
まあ、これがビジネスということか。
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