本書は太平洋戦争戦時下の京都学派と帝国海軍の協力関係を「大島メモ」なる新史料に基づいて紹介したもの。
戦時下の京都学派といえば、真っ先に念頭に浮かぶのが「近代の超克」と銘打たれた文學界誌上における有名な座談会であるが、その「近代の超克」を裏打ちする形で、西田幾多郎及び田辺元を介して、その門下に連なる第二世代京都学派の哲学者たち(高山岩男、高坂正顕、西谷啓治、宮崎市定、鈴木成高、日高第四郎、木村素衛)を主要常連メンバーとする海軍秘密会合が開催されていたことを証拠立てる一次史料が本書で紹介している「大島メモ」である。この秘密会議は1942年(昭和17年)2月を初回として、以後昭和20年7月まで継続開催されているようで、時折田辺元や柳田謙十郎も顔を出している。ただし、「大島メモ」に残された会合の記録は昭和18年の第18回で途切れている。
この会議の構想は戦前まで遡る。時の海軍大佐、高木惣吉が、陸軍の戦争意志の抑止を図るべく海軍調査課に「ブレーン・トラスト」を設置することを考え、西田幾多郎を通して京都学派への協力を要請した。その結果動き出したのがこの秘密会議なのだが、時すでに遅く、軍は米英との開戦を決意するに至る。この軍の意向を高木の口から耳にした西田幾多郎は「君たちは国の運命をどうするつもりか!今までさえ国民をどんな目に会わせたと思う。日本の、日本のこの文化の程度で、戦いもできると考えているのか!」(39頁)と激怒したという。
だが、誰も動き出した船を止めることはできない。この秘密会議の目的は、戦争阻止から日本に優位な和平を如何に勝ち取るかに移っていく。また、緒戦の捷報は、彼らにも米英との戦争に勝利するという幻想を懐胎せしめたのか、初期の会合では、高山岩男の「世界史の哲学」による戦争理念の構築や田辺元の種の理論に基づく共栄圏の構想が検討の俎上に上がっている。戦局が未だ日本に優位に推移していた昭和17年(6月にはミッドウェイ海戦で大きな敗北を喫しているが)、京都学派の哲学者たちは、戦勝後、世界思想を領導する自らの哲学を幻想し得たのか。「近代の超克」という座談会が行われたのも正にこの頃のことである。
しかし、昭和18年の「大島メモ」には既に敗戦の予感がほの見える。
本書は、この太平洋戦争に乗り出してしまった京都学派を、戦艦の操舵室から追い出されてしまった乗組員に喩えている。彼らは操舵室の外から舵取りする方法を必死に求めるが、所詮それは無理な相談である。あとは水が低きに流れるように戦局は下降線の一途を辿っていく。
大島メモの筆者は主として大島康正という哲学者である。彼は当時京都大学文学部の副手という立場にあり、メンバーへの連絡や会合の内容を記録して海軍に報告するという事務方の役割を一手に引き受けていた。その学問的立場は、田辺元の愛弟子でありながら、その哲学を継承発展させるように、戦後「時代区分の成立根拠」と「実存倫理の歴史的境位 神人と人神」という哲学的主著を書き上げている。しかし、大島は、それを機に哲学的思索の展開から撤退してしまう。
本書は、この大島の哲学を、戦後、「近代の超克」をたった一人で担おうとした二週目ランナーの孤独な作業とみなし、ヘーゲルの精神現象学とフッサール現象学を両睨みに見据えつつ「限界状況に立たされた実存の現象学」として構想されたものと位置づけている。その当否はここでは判断できないが、そのスタンスは笠井潔の「テロルの現象学」におけるそれを彷彿とさせるものであることは留言しておきたい。
PR
COMMENT
No Title