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東西南北舎

東西南北舎は東西南北人の活動に伴い生成したテクスト群の集積地である。「東西南北人」は福岡の儒者亀井南溟が秘蔵した細川林谷篆刻の銅印。南溟の死後、息子の亀井昭陽から、原古処、原釆蘋、土屋蕭海、長三洲へと伝わり、三洲の長男、長壽吉の手を経て現在は福岡県朝倉市の秋月郷土館に伝承されたもの。私の東西南北人は勝手な僭称であるが、願わくば、東西南北に憚ることのない庵舎とならんことを祈念してその名を流用させて頂いた。

   

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石牟礼道子「苦海浄土」覚書

 「苦海浄土」は水俣病患者と同伴し続けた石牟礼道子による水俣病患者たち、そして作者自身の魂の物語である。
 昭和30年代のはじめに発覚した水俣病は、不知火海に排出された、チッソ(新日窒)の水俣工場の工場廃液に含まれた有機水銀を原因物質とした中毒症状であり、罹患した者は恐るべき中毒症状に苦しめられ、死に至った者も少なくない。
 だが、チッソは、当初これを自社の責任と認めず、昭和34年11月2日、不知火海沿岸漁民は蜂起するが、結果として会社側は不知火海沿岸36漁協に漁業補償一時金3500万円(ただし、うち1000万円は蜂起の際の乱入被害として相殺されている)と立ち上がり融資6500万円の出資を行い、水俣病患者互助会59世帯には、死者に対する弔慰金32万円、患者成人年間10万円、未成年者3万円を発病時にさかのぼって支払い「過去の水俣工場の排水が水俣病に関係があったことがわかってもいっさいの追加補償要求はしない」という条項を入れた悪名高い「見舞金契約」を取り交わすことで事を収束させようとしている。
 水俣病患者の苦しみはここに始まるのだが、その後、患者らは家族の罹患や死、そして自らの病苦のみならず、チッソの恩恵を受けている水俣市の地域住民からの差別まで受けることになる。

 本作が描いているのは、この昭和30年代の始めから昭和48年の熊本地裁の患者側勝訴の判決を受けた「補償協定書」調印に至る間の事跡ということになるが、本作はいわゆるノンフィクションのルポルタージュではないので、その間の事跡が順序立てて記述されているわけではない。
 本作の記述、特に第一部のそれは、大雑把に分けると3つの文体から構成されている。
 1つ目は、地の文とでもいうべき、作者の意識レベルにおいて記述された私小説的な記述の文体である。この第一の文体は作者を観察主体に据えた事実の記述であり、いわゆる描写の文体である。
 2つ目は、引用である。ただし、その引用の範囲は非常に多岐に及んでいる。水俣病の病像を描き出す医師のカルテや所見、水俣の地勢を描き出す古川古松軒の「西遊雑記」、頼山陽の漢詩、徳富蘇峰作詞の「水俣第一小学校校歌」、昭和34年の漁民蜂起を報道する熊本日々新聞や朝日新聞の記事、議会や委員会の議事録、患者等を中傷する投書、チッソからの回答文、裁判の判決文、患者等の闘争過程において認められた抗議文やアジビラ等々。
 そして3つ目は、患者等の一人称で記述された語りの文体である。そして、その語りは、全て水俣方言で書かれている。これは、形式的には会話や聞き書きの体裁が外挿されているが、実質的には作者の水俣病患者への憑依を通した一人称の語りとして紡ぎだされた文体となっている。作者は、第一部の文庫版のあとがきで「白状すればこの作品は、誰よりも自分自身に語り聞かせる、浄瑠璃のごときもの、である。」と記しているが、実際それは患者等の生の声そのものを自らの内部に再生するように紡ぎだされているように読める。
それは例えば、次のような語りとして記述されている。

++うちは、こげん体になってしもうてから、いっそうじいちゃん(夫のこと)がもぞか(いとしい)とばい。見舞いにいただくもんなみんな、じいちゃんにやると。うちは口も震ゆるけん、こぼれて食べられんもん。そっでじいちゃんにあげると。じいちゃんに世話になるもね。うちゃ、今のじいちゃんの後入れに嫁に来たとばい。天草から。(苦海浄土 第一部苦海浄土第三章ゆき女きき書「石牟礼道子全集 第二巻 109頁」)

++そら海の上はよかもね。
 海の上におればわがひとりの天下じゃもね。
 魚釣っとるときゃ、自分が殿さまじゃもね。銭出しても行こうごとあろ。
 舟に乗りさえすれば、夢みておっても魚はかかってくるとでござすばい。ただ冬の寒か間だけはそういうわけにもゆかんとでござすが。
 魚は舟の上で食うとがいちばん、うもうござす。(苦海浄土 第一部苦海浄土 第四章天の魚「石牟礼道子全集 第二巻 160頁」)

 そこで語られているのは、必ずしも水俣病の痛苦や恨みごとだけではない。彼らが漁師として、あるいは、単に不知火海周辺に起居する人として、いかに豊かな生死を謳歌していたのかが窺える語りとなっている。だが、それらは水俣病という拷苦を受けることで喪われ、受苦(パッション)の色に染まりゆく。そして、やがてそれは鬼という形象へと転化していくのである。

 苦海浄土 第二部神々の村、第三部天の魚は、長い年月に渡って苦しみぬいた患者たちが、能の道行きの如く、大阪で行われたチッソ株主総会、東京丸の内のチッソ東京本社でのチッソの責任追及という戦いの叙述へと移っていく。
 この転位を理解するには、1969年(昭和44年)という、折しも全共闘の学生運動が絶頂に達しつつあったその年に行われた幾つかの事跡を念頭に置いておく必要があろう。石牟礼道子全集第三巻に掲載されている年譜によると次のような事が生起している。

1月28日:石牟礼道子「苦海浄土-わが水俣病」(本作の第一部)刊行。
4月5日:患者互助会、補償問題をめぐり、チッソの勧めによる厚生省一任派と、訴訟派に分裂。
4月20日:渡辺京二の呼びかけにより水俣病を告発する会(熊本)発足。以後、(同組織が全国)各地に誕生。
6月14日:水俣病患者家庭互助会訴訟派、チッソに損害賠償を求めて熊本地裁に提訴(いわゆる水俣病裁判)。同日、川本輝夫の呼びかけにより未認定患者ら「認定促進の会」を結成。

 つまり第二部、第三部の現在時制の語りにおいては、語り手である作者も水俣病闘争の当事者として行為の渦中に在り、水俣病患者(訴訟派)の怨念返しの道行に同道しているのである。したがって、そこでは、患者自身による、より直接的な強度を持った恨み節が作中に響き渡ることになる。例えば、患者、浜元フミヨの言葉として。

++「わたしゃ、恥も業もいっちょもなかぞ。よかですか、川村さん。
 おらぁな、会社ゆきとは違うとぞ。自分家(げ)で使うとる会社ゆきと同じような人間がもの言いよると思うなぞ。
 千円で働けといえば千円で、二千円で働けといえば二千円で働く人間とはわけがちがうぞ。人に使われとる人間とはちがうとぞ、漁師は。
 おる家の海、おる家の田畠に水銀たれ流しておいて、誠意をつくしますちゅう言葉だけで足ると思うとるか。言葉だけで。いうな! 言葉だけば! 」(苦海浄土 第二部神々の村 第六章実る子「石牟礼道子全集 第二巻 579頁」)

 そして第三部、舞台は東京丸の内のチッソ本社に移り、これらの語りは次第に地の文と溶け合い、響き合うようになっていく。おそらく、石牟礼道子のエッセイの文体はここから獲得されている。

++もと漁師であるがゆえに、未来永劫漁師であるひとたち。
 水俣病もいろいろに病み方があり、それを病みとおすにも漁師である以外はない彼ら。
 そもそも、〈チッソ東京本社座りこみ決行〉などと名づけても、このひとびとたちにとっては、茫々たる漂流記の中の一節ではありますまいか。
 どこに向かって漂流するのか。
 もとの不知火海の、わが家の庭先に帰りつくために、みえない舟が出る。
 帆布より、舵より、機関より先に故障した人間たちが、みえない舟をあやつって東京にくる。
 劫火のあとのようなスモッグの霧が、のどの奥に焼きつき降り積もる首都。
 逃げられない所へ、逃げられないところへと、ひとびとのなだれ込んできた所。死相を浮かべた首都へ向けて、この舟もまた漂い来たりました。
 (中略)
 とある日、ひとりの漁師の子は、デスマスクめいたチッソ社長の顔と、食事抜きの十三時間という対話を試みます。いや、社長との対話というより、彼が死力をつくして試みていたものは、もはや日本近代には復活しえない最下層民の末子としての、自らの来歴のあかしのごときものでした。
 「なして、社長は、患者の家に廻って来んか。なして病人ばみにきてくれんか」
 「いや、みなさんの家に伺いましても、医者ではありませんから、私どもにはわかりませんのです。病状の重い方も軽い方もいらっしゃいましょうから、認定なさいました熊本県にまず、ランクをつけて頂きませんと、伺えませんのです」
 (やっぱりな、貧乏人の家にゃ、来んじゃろう、来られんじゃろう。おどま非人(かんじん)、あんひとたちゃ、よか衆(し)ちゅうわけじゃ)
 彼は青ざめる社長を問いつめているうちに、ふいに、がんぜない哀切さの中にじぶんが落ちこんでゆくのをおぼえます。
 彼は一瞬、生きつづけて仰臥している社長の首をかき抱こうとしました。
巨きな、ぽっかりとした目をあけっぱなし、おびえている社長の鼻孔の上に、はらはらと彼の熱い涙が落ちこぼれました。
 「ああ、
俺(おる)が・・・・・・鬼か・・・・・・」
(苦海浄土 第三部天の魚 第一章死都の雪「石牟礼道子全集 第三巻 39~41頁」)

 水俣方言に「されく(漂浪く)」という言葉があるそうだが、その言葉は、第二部及び第三部の主調低音として鳴り響いている。患者たちは、そして作者も大阪へ、そして東京へと流れ着き、されいていく。土着の人生を強制的に解除された水俣の漁師たちの、それは必然だったのかもしれない。地元に、日本近代の地方に、そのようなされく民を受け入れる土壌は残されていなかった。
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