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東西南北舎

東西南北舎は東西南北人の活動に伴い生成したテクスト群の集積地である。「東西南北人」は福岡の儒者亀井南溟が秘蔵した細川林谷篆刻の銅印。南溟の死後、息子の亀井昭陽から、原古処、原釆蘋、土屋蕭海、長三洲へと伝わり、三洲の長男、長壽吉の手を経て現在は福岡県朝倉市の秋月郷土館に伝承されたもの。私の東西南北人は勝手な僭称であるが、願わくば、東西南北に憚ることのない庵舎とならんことを祈念してその名を流用させて頂いた。

   

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地方自治体による産業廃棄物に係る税(産業廃棄物税)の導入にともなう産業界への影響等調査

中国経済産業局
平成17年度産業公害防止対策費調査
地方自治体による産業廃棄物に係る税(産業廃棄物税)の導入にともなう産業界への影響等調査 報告書
平成18年3月

(株)流通システム研究センター 主任研究員として制作に関与したレポートです。

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きのこの栽培方法

特許庁 標準技術集
きのこの栽培方法

(株)流通システム研究センター 主任研究員として制作に関与したレポートです。


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永遠の維新者 葦津珍彦著(葦津事務所2005年6月)

 本書の著者、葦津珍彦(あしづうずひこ)については幾許かの解説が必要だと思う。かくいう私も近所の図書館で本書を手にとってみるまで、この人の存在は一切知らなかった。彼の経歴について詳しく知りたい方は以下のウィキペディアを参照して頂きたいが、誤解を恐れずにいうなら、彼、葦津珍彦は正統派右翼ナショナリストの思想家であり、本書はそんな彼がものした行動する政治思想家としての西郷隆盛論を主軸に構成された明治維新の政治史である。

ウィキペディア 葦津珍彦

 本書の原著は1975年(昭和50年)に出版されたものであり、更に実際に収載されている論文が執筆されたのは1960年代から1975年にかけてのことである。しかしながら当時としては当たり得る可能な史料の全てを精査し、しっかりとした論理で鮮やかな西郷像を描きあげている。当然のことながら、本書の執筆時点では毛利敏彦の「明治六年政変の研究」(1976年)は発表されておらず、さらには現行の「西郷隆盛全集」(1976年)も刊行されていなかった。したがって、本書において通説の《征韓論者西郷》の姿は完全に払拭されきってはいないが、その叙述は実質的にはそれを否定し得る一歩手前の地点まで肉薄している。
 本書は、Ⅰ維新の理想 未完の変革、Ⅱ孤戦と連合 内戦の政治力学、Ⅲ明治の精神 明治国家の形成とナショナリズム の三部から構成されている。
 このうちⅠ維新の理想 未完の変革の前半が「永遠の維新者 西郷隆盛と西南役」と題され、明治六年政変によって下野してから西南戦争に至る過程を論じているもので1975年に発表されたもの。Ⅰの後半は「明治新政権に対する抵抗の思想と潮流」と題して、維新の原動力となった復古攘夷思想が維新政権との対立との中でどのような思想流派を族生し、それらが西南戦争という魔女の大釜の中に流れ込んでいったかを論じている。
 Ⅱ孤戦と連合 内戦の政治力学は、一転して幕末の政治史を論じたもので、幕末における禁門の変(蛤御門の変)の意義と、その実質的イデオローグとなった久留米の神官真木和泉守について書かれた「禁門の変前後」と、薩長連合の成立史における西郷と木戸(桂小五郎)の確執を論じた「薩長連合の政治史」よりなる。
 Ⅲ明治の精神 明治国家の形成とナショナリズムは、明治国家の成立において、天皇制ナショナリズムが果たした役割の大きさを論じたものである。
 
 さて、論点は幾つもあるが、ここでは「永遠の維新者 西郷隆盛と西南役」で描かれた西郷像のみを簡単に紹介しておこう。
 西郷は、朝鮮使節派遣問題で太政官正院の廟議で岩倉や大久保と衝突した翌日、明治六年十月十五日、「朝鮮御交際の儀」と題する直筆の始末書を太政大臣宛に提出している。西郷はその始末書で韓国側に近来乱暴の風があるからといって兵力を派遣すべしとの議論があるが、それは国際儀礼上まったくよくない。まずは、交際を厚くすべく儀礼に則った使節を派遣すべきであり、先日の閣議でその使節は私に決まったのだから、是非私を派遣するよう取り計らって頂きたい、というものである。そこでは「征韓」という言葉は一切用いられていないどころか、一切の武力派遣を厳に慎むべきであるという主張がなされている。実際、西郷は下野の後、明治八年九月に生じた江華島事件を恥ずべき所業と断じている。
 しかし、この直後太政大臣三条実美が急病に倒れ、伊藤博文、大久保利通の策動による「一の秘策」に基づき、岩倉具視が太政大臣代理に就任し、天皇への閣議決定上奏に際して、代理人の岩倉が自分は閣議の決定に不賛成である旨を添えて上奏し、閣議決定の内容を天皇の勅命として覆してしまうという実質的なクーデターが行われる。これを受け、西郷以下、板垣、副島、江藤の4参議が辞任することになり、西郷は卒前と鹿児島に帰郷してしまう。
 西郷は鹿児島でいわゆる「私学校」を設立し、鹿児島士族の教育を行いながら天機を待つことになるが、その秋はついに来ない。西郷が待望した「天機」とは、東京在の有司専制政府破綻の危機であり、理義明徴な名分のもとに行動可能な機会を得ることである。西郷はこの時鹿児島に在りながら陸軍大将の任を解かれてはいない。西郷からみて有司専制政府は、放っておいても早晩瓦解の危機に直面すると思われた。
 だが、その有司専制政府にとって何よりも不気味なのは鹿児島で沈黙を続ける陸軍大将西郷隆盛である。明治六年の政変直後、大久保の挑発により佐賀の乱が起こり、一敗地にまみれた江藤新平は密かに鹿児島の西郷を訪ねるが、西郷は動かない。その後も秋月の乱、萩の乱、神風連の乱と士族叛乱が頻発するが、やはり西郷は動かない。そのような中、内大臣大久保利通の内命を受けた大警視川路利良(著者はこの2人の関係をスターリンとジェルジンスキーの関係になぞらえている)は、恐らくは大久保の意図に反して独断で西郷殺害の内意を与えた多数の間諜を鹿児島に放つ。その挑発に乗せられた私学校党の面々は川路の意図通りに暴発してしまう。
 西郷は、この暴発に怒り、暴発した私学校生徒らを叱りつけるが、その暴発の裏に政府要路の犯罪行為(西郷殺害をも含む)があることを知り、決起止むなしとして、鹿児島県庁に以下の届けを出して東京に向けた上京を宣言する。

++拙者共こと、先般御暇の上、非役にて帰県致し居り候ところ、今般政府え尋問の筋これあり、明○○当地発程致し候間、御含みの為この段届け出候。もっとも旧兵隊の者共随行し、多数出立致し候間、人民動揺致さざるよう、一層の御保護御依頼に及び候也。(102頁)

 そしてこの上京を阻止する形で政府軍との衝突が起こり、西南戦争が始まることになる。著者が注目するのは、この県庁への届出以外、西郷が一切の声明を出さず沈黙して事に処している点である。西郷はこの事に処して、決然たる声明文なぞ書きもしなければ、誰にも書かせもしなかった。その西郷の沈黙こそが重要なのだと説いている。なぜか、著者はその理由を二つ挙げている。

++政治政策の優劣を論じるのは自由であるが、その政策論争の自由と武力行使の自由ということは、まったく別であり、きびしい区別を要する。その区別につて、西郷には明白な思想がある。かれは、朝鮮にたいしても、相手が交わりを拒み戦いをもって臨むとの態度を明示しないかぎり武力の行使はできない、と主張した。いわんや国内においても、ただの政見政策の対立があるからとて武力の行使はできない、と西郷は信じている。(中略)そこに政府の高官が天下の公法をふみにじって挑戦してきた。公議公論の自由を奪い、私学校を分裂させ、しかも指導者を暗殺せよと命じたのである。これはもはや政策の相違優劣なのではなくして刑法犯罪である。(108~109頁)

 そして今一つが、皇権と有司専制政府との区別を明確にするためである。この時西郷は現行の有司専制は放伐されるべきと考えているが、それによって天皇制自体を放伐するに至ってはならないと考えていたため、天皇親政の名のもとに実施された有司専制政府の政策一々を言挙げすることをせず、事を「刑法犯罪問責」の一点に絞ったのである、というものである。
 西郷に同情的な福沢諭吉や徳富蘇峰、或いは「西南記伝」の著者等、後年の史家の悉くが、この声明なき決起に不満の意を呈しているが、そこにはそれらの文人には及びもつかない政治家西郷隆盛の深慮があるのだ、というのが著者の主張である。

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志士と官僚―明治を「創業」した人びと 佐々木 克著(講談社 2000年1月)

 原著は1984年にミネルヴァ書房から出版されたもの。
 本書は、幕末の志士たちが維新の創業にいかに関わっていったかを、志士から官僚への転身を生き残りのためのほとんど唯一のキャリアパスとして構築していった維新政権と、それに抗い、敗れていった多くの志士たちとの対比において描き出した歴史研究である。
 本書は、「第一章 新首都で新政を」「第二章 維新官僚とその政治」「第三章 明治の志士とその行動」「第四章 政治と私の空間」「第五章 志士の発想と官僚の論理」の五章で構成されている。
 第一章は、明治天皇の東幸として成された東京遷都が、何故「東京奠都」と表現されたかをという点を掘り下げることによって、王政復古の実質が新政の創業という趣意を抱懐していたことを示している。奠都という表現は、新たに都を定めるという意味を持っており、維新政権の実権を担っていた下級士族が、「神武創業」という構想を現実化するために、その内実は遷都でしかない行為を奠都と言いくるめたものということができる、というものである。
 第二章は、廃藩置県に至るまでの草創期の維新政権の官僚を「維新官僚」と位置づけ、そのモデルケースとして広沢真臣を取り上げ、長州藩士広沢がいかに維新官僚へと転身していったかを、その意識の変遷において描き出す事例研究となっている。そこでは、広沢が維新官僚=朝臣として自己を転位するに際し、中間項として存在していた藩臣意識が取り払われ、朝廷=維新政府=公という意識を形成することで、近代的な公私の意識が成立していく過程が素描されており、著者はそういう言葉を使用していないが、そこでは原初的な国民国家の布置の中に公私関係が再配置されていく様子が窺われて興味深い。
 そして、第三章こそが本書の本論というべき部分であり、著者は、維新官僚と対抗関係に陥らざるを得ない、明治における志士的群像の総体を浮き彫りにすることによって、それらの明治の志士が、幕末の志士であった明治の官僚と相容れず敗れていくことを、一つの必然として提示しているように受け取られる。
 著者は、志士の語源を「論語」と「孟子」における「志士仁人」に求めているが、「論語」で志士仁人は、「生を求めて仁を害することなし、身を殺して以て仁を成すこと有り」と述べられている。つまり、仁を成すためには死をも恐れず行動する者こそが志士である、と規定されているのであり、幕末の志士たちは、そのように自己を規定していくところに回天の志を立てていく。彼らの回天の志とは、夷狄に対する独立不羈(攘夷)の新国家建設の志であり、彼ら自身の生存の形式もその目的を遂げるためには死をも厭わぬ覚悟を立てることで成立していた。そのような志士たちの連合は、著者が示すように「個の結合」に拠るものであり、それが葉隠れ的な士道の倫理と重ねられていく。だが、それらの志士たちが辿りついた明治国家という新国家は急速に官僚組織を形成し、彼らが成し遂げた筈の志を悉く裏切っていくことになる。
 明治初年に頻発したテロリズムややがて西南戦争へと帰結する数々の士族叛乱は、いわばそれら「明治の志士」たちの敗亡の歴史といえるものであるが、著者はそれらの系譜を、反逆の系譜と挫折の系譜に分けて点綴している。この区分については、維新政権に対する反発の積極性と消極性という区別が一つの判断基準とされているが、同時にそれは民衆一般との関係性の差異としてこと上げされている。けれども、この点に関する著者の論述は不十分といわざるを得ない。この点については、やはり丸山真男の「忠誠と反逆」や橋川文三の「忠誠意識の変容」等の再検討が必要だと考えられる。
 第四章は、一転して、維新の三傑と呼ばれる大久保利通、木戸孝允、西郷隆盛の女性関係や居住空間を通して、彼らがどのような公私の区分の許に起居していたかが論じられている。著者の規定では、木戸と西郷は、終生志士的な生存形式の中に生きた者であり、この三名の中では一人大久保のみが官僚的公私の区分を体現し得た者として描かれている。
 さて、最終章は本書の結論となる部分なのだが、結局著者は志士と官僚を単純な二項対立の構造でしか描出し得ていない。官僚を治者とし、志士は志に殉じて敗れ去る者として並行的な関係で捉えることで終始している。しかし、そこには本来弁証法的関係に擬せられるような、よりダイナミックな構造が見てとれると思うのだが、いかがであろうか。
 そこで気になるのは、本書においてはほとんど福沢諭吉が無視されている事である。福沢は志士とも官僚ともいえぬ人物ではあるが、同時代においてその両者を冷徹なまなざしで射抜いてきた認識者であり、この点については当時として抜きん出た認識に達していたと言わざるを得ない人物である。私がこの点に関して丸山や橋川の検討に立ち返る必要があると思う所以である。

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PSYCHO-PASS ①

 フジテレビ、ノイタミナ枠で放送中のアニメーション、PSYCHO-PASSが佳境に入ってきた。
 総監督は「踊る大捜査線」の本広克行、監督は塩谷直義、ストーリー原案及び脚本は「魔法少女まどか☆マギカ」や「Fate Zero」の虚淵玄、そしてアニメーション制作はプロダクションIG。
 物語の舞台は、西暦2112年の東京、人間の心理状態や性格的傾向を計測し、数値化できるようになった世界。そこではあらゆる心理傾向が、シビュラシステムと呼ばれる包括的生涯福祉支援システムによって計測管理され、人々はそのシステムのサービスに全面的に依存する生存様式を採用している。
 シビュラシステムのメカニズムは、「サイマティックスキャンによって計測した生体力場から市民の精神状態を科学的に分析し、得られるデータをPSYCHO-PASSとして数値化、そこから導かれた深層心理や職業適性を提供する」と説明されており、人々は有害なストレスから解放された「理想的な人生」を送るため、その数値を指標として生きている。そして、そこでは犯罪に関する蓋然性についても「犯罪係数」というパラメーターとして数値化されており、たとえ罪を犯していない者でも、その値が規定値を超えれば「潜在犯」として裁かれることになる。
 本作は、そのような世界において犯罪捜査に携わる厚生省公安局所属の刑事達の物語であるが、その捜査体制は、監視官と執行官という二つの階級に分けられた人々によって構成されている。実質的な捜査を行う刑事が執行官だが、彼らは高い犯罪係数を持つ潜在犯であり、常に厳しい監視下に置かれている。それに対して監視官は、執行官の上司として捜査活動の全責任を負う刑事。彼らはその資質として犯罪係数の低さによって裏付けられた善良かつ健全な精神と模範的な社会性、更に優れた知性と判断力を兼ね備えている者とされているが、犯罪者や執行官の歪んだ精神にさらされる環境ゆえに犯罪係数を高める危険性がある。
 彼ら監視官と執行官は、ドミネーターと呼ばれる、シビュラシステムの眼というべき携帯型心理診断鎮圧執行システムを武器として犯罪捜査に当たるのだが、ドミネーターは、シビュラシステムに優先的リンクをしており、対象に照準を向けることで瞬時に犯罪係数を計測する機能を持つ。握っている者にだけ聞こえる指向性音声で状況や計測値を案内し、対象の犯罪係数が規定値に満たない場合は発砲できず、犯罪係数が規定値を越えていればセーフティが自動的に解除され、対象の状況にふさわしい段階に合わせて狙撃効果を選択・変更・変形するシステムが実装されている。

 物語は、新米監視官として厚生省公安局に赴任してきた常守朱(つねもりあかね)の視点を通して、先輩監視官の宜野座伸元(ぎのざのぶちか)、一癖も二癖もある執行官たち、狡噛慎也(こうがみしんや)、征陸智己(まさおかともみ)、縢秀星(かがりしゅうせい)、六合塚弥生(くにづかやよい)の面々を中心に描かれる群像劇であるが、制作サイドがP.K.ディック原作のブレードランナーを意識したという、ディストピアとしてのバックグラウンド世界の構築が中々に秀逸である。
 そして、敵対者として、シビュラシステムを超越した例外的犯罪者、槙島聖護(まきしましょうご)が登場する。彼は数々の凶悪犯罪者の影で悪を使嗾する者として暗躍するのだが、彼のPSYCHO-PASSの犯罪係数は常に規定値以下の反応しか示さず、ドミネーターの計測によっては犯罪者として裁くことができない。
 従って、彼はシビュラシステムにとっては完全にユニークな特異点、常に白き者なのだ。
 現在、12話まで放映され、漸く槙島聖護の特異性が明らかになったところだが、ここからどう展開していくのか、なかなか興味深い話になってきた。

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東西南北人(中島久夫)
性別:
男性
自己紹介:
なお、本ブログに関するお問い合わせ等につきましては、以下のメール・アドレスまでお寄せください。
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