京都アニメーション制作の「中二病でも恋がしたい!」が完結した。
総監督は涼宮ハルヒシリーズや、Key原作のAir、カノン、クラナド等で実績のある石原立也。
京アニでは初の試みとなる、原作を離れたアニメオリジナルのキャラクター等が登場する作品だそうだが、私は例によって原作は読んでいない。なお、本作の原作ライトノベルは、京都アニメーションがプロデュースしているKAエスマ文庫なるシリーズで刊行されているようだ。
さて、舞台は、例によって高校だが、ハルヒシリーズがSF寄り、氷菓がミステリー寄りだったようには明確な傾向性は持たされていない。
本作は、有り体にいうと、嘗て自らをダーク・フレイム・マスターと「設定」した中二病だったことを恥じている富樫勇太と、父の死という現実を受け止められず、自らを邪王真眼の持ち主と「設定」し、不可視境界線の彼方にあり得べき現実(失われた父親)を探し求めている小鳥遊六花とが織り成すドタバタラブコメディである。物語構成の点では、「中二病」という意匠を持ち込まずとも語りが成立するファミリー・ロマンスなのだが、そこにあえて中二病の挫折と再肯定というメタストーリーを重ね合わせたところがミソだろう。
物語の終盤、勇太の説得により、六花は、一時は中二病を捨て「まとも」に生きようと試みるが、そうすることによってどうしようもない閉塞感に陥ってしまう。最終話、間違い?に気づいた勇太は、立花を迎えに行き、まるで「ロミオとジュリエット」とのバルコニーシーンのように構成された場面(彼らの友人達によって設えられた)で、六花に向かってこう叫ぶ。
>つまらないリアルへ戻るのか、それとも、俺と一緒にリアルを変えたいとは思わないのか
うーん、こりゃ石川啄木か?と思ってしまうような台詞だが、ここにきて「中二病」という意匠も消費しつくされたな、という感が強い。
勇太の腕のなかに飛び込んでいった六花は、勇太が幻視させた不可視境界線の彼方(実際は夜の水平線の先に揺らめく不知火、イカ釣り船の灯り?但し、立花はその現実を十分に承知している描写はなされている)の父に別れを告げて幕となるのだが、そこでとってつけたようなナレーションで、中二病は思春期の自意識過剰の産物ではあるが、人として避けては通れぬものであり、人は一生中二病だとのご託宣が告げられる。
「中二病」という言葉は、伊集院光のラジオでの発言が嚆矢とされているようだが、こういう作品が作られてしまうと、この言葉の寿命もここまでかな、という気がする。
そういえば先ほど、石川啄木の名を出したが、これらの精神的ルーツは高杉晋作あたりになるのかもしれませんな。
>おもしろきこともなき世をおもしろく
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