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東西南北舎

東西南北舎は東西南北人の活動に伴い生成したテクスト群の集積地である。「東西南北人」は福岡の儒者亀井南溟が秘蔵した細川林谷篆刻の銅印。南溟の死後、息子の亀井昭陽から、原古処、原釆蘋、土屋蕭海、長三洲へと伝わり、三洲の長男、長壽吉の手を経て現在は福岡県朝倉市の秋月郷土館に伝承されたもの。私の東西南北人は勝手な僭称であるが、願わくば、東西南北に憚ることのない庵舎とならんことを祈念してその名を流用させて頂いた。

   

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スチュアート・ヒューズ「意識と社会」 ②

 (承前)

 第六章の主役は著者お気に入りのクローチェである。しかし、クローチェ、そしてヴェーバーを語るためにはドイツにおける観念論の系譜を遡る必要がある。
 カントによって切り開かれたドイツ観念論は、ヘーゲルによって一つのサイクルを閉じたが、その過程で祀り上げられていった「精神(Geist)」はドイツの哲学的伝統を他のヨーロッパ諸国の哲学的規範から画然と分かつことになる。ドイツはその「精神」を自負としたが、20世紀初頭のドイツは歴史と社会に対する深遠な理解とは裏腹に社会的安定を見出せなかったのみならず、物理的な暴力へと傾斜していく。
 著者によると「歴史および社会の研究において、ヘーゲルの支配は劇的ではあったが、短期間のものでしか」(127頁下段)なく、それはマルクス主義の中で命脈を保っていたに過ぎない。19世紀後半から20世紀初頭にかけてのドイツの歴史学はレオポルト・フォン・ランケの支配的な影響下にあり、ランケの思考のカテゴリーはヘーゲルのそれより、ずっとロマン主義者のそれに酷似していたようだ。このランケの影響下で「現象世界と精神世界、自然科学の世界と人間活動の世界の間に、根本的な裂け目がある」(128頁上段)と著者が要約する観念論的社会思想が、ドイツにおいて人文科学と社会科学を分かつ機縁を形成することとなる。
 新カント派と呼ばれるヴィンデルバントとリッケルト、そしてゲオルク・ジンメルは、このような潮流の中にあって、カントのカテゴリー論に立脚して実証主義批判を試みた人文主義者であったといえよう。リッケルトは、観念論的伝統にたつ歴史思考を明確化する。すなわち「文化科学者」は「自分の主観的決定によって社会的現実ある一つの側面を検討・理解することを」(131頁上段)選択するのであり、その選択は当然のことながら研究者自身の価値体系を基盤としている。これは今日の歴史認識の問題を論じる際にも忘れてはならない有用な認識であるが、リッケルトはそれ故に「価値という観念」を強調し過ぎたため、歴史事実の客観性・妥当性を検証不能なものへと貶めてしまう。
 彼らに少しばかり先んじて、ヴィルヘルム・ディルタイは、カントが「純粋」理性および「実践」理性について行使した批判を歴史の分野について成し遂げようと試みる。ディルタイは『精神科学序説』刊行後30年の間、絶えずその構想を練り直し様々な論文や書物を発表するが、結局それを完成した姿で表すことができなかったというのが、著者の見解である。著者はディルタイのような複雑な思想家の全貌をこのような研究で完全に分析することは不可能だとしながらも、彼の中心的な課題は「歴史記述の科学的価値の問題」であったと規定している。著者は、ディルタイの新しさは「実証主義自身の武器で実証主義と戦おうとしたという事実にある」(133頁下段)のであり、「かれの目的は、一般にみられる自然界と人間活動の世界との混同を払拭することにあった」(134頁上段)としている。

++ディルタイはまた、文化科学と自然科学との基本的な区別を、文化研究の領域における記述に三つの部類を区分することによってさらに精密なものとした。第一の部類は現実そのものを取り扱うもの、すなわち歴史の領域であった。第二は、現実からの抽象概念によって成立するもの-社会科学というべきものであった。最後に第三は、価値判断と「規則(ルール)」を表明する陳述、すなわち「文化科学の実際の構成要素」をなすものである。(134頁下段)

 著者は、このディルタイの第二類の探求の延長線上に、その後のデュルケームやウェーバーの社会学を位置づけていく訳である。
 一方、第一類にかかる歴史認識の問題について、ディルタイは確定的な結論を出していないようだが、その端々にクローチェを先取りしたような主張が散見されると著者は見ている。
 クローチェは近代イタリアにおける最大の知的巨人であり、その「思想のひろがりは百科事典的であった」(138頁上段)が、イタリア以外の世界でクローチェは、「歴史家、批判的歴史哲学者として影響を及ぼした」(138頁下段)のであり、本書では専らこの面を中心としたクローチェの思想が分析されている。
 クローチェ初期の歴史認識に対する見解は「歴史書は概念を練り上げるものではなくて、個々の出来事をその具体性において再現するものである。その理由によって、われわれは歴史に科学としての性格を否認する。だから、歴史が科学でないとすれば、芸術でなければならぬと結論するのは・・・・・・容易なことである」(141頁上段)というものである。
 しかし、クローチェは彼の体系的著作である『美学』『論理学』を書き進める中で、その理論的立場を根本的に変えていく。クローチェ円熟期の歴史理論においては「ヴィコとマルクスとヘーゲルの体系的研究の成果」が見事に融合されていると著者は見ている。

++この歴史理論の第二の-決定的な-定式化において、クローチェは、歴史はたんに芸術の一形態であるよりもっと概念的なものであるというにとどまらず、真実には人知の総括をなすものだとの見解を表明したのである。その概念的要素は哲学を通じて導入されるのであり、哲学は人間がおのれの歴史について下す判断の総体なのであった。このようにしてクローチェは、ヘーゲルが行ったように歴史に哲学を押しつけるのではなく-歴史の方法論として歴史のうちに哲学を包摂してしまうことになった。(144頁上段)

++自然科学も社会科学もただ外的に知覚されるデータのみを扱っている、とクローチェは言う。これに対して歴史学は「内的」に了解しようと努力するものである。この主張のうちに、クローチェはドイツ観念論の遺産をじゅうぶんに汲み込んでいる。だが、クローチェはこの観念論的思考をさらに尖鋭に押進め、「真の歴史はすべて同時代史である」と論ずるにいたった。この逆説的な主張-それはかれの格言的命題のうちもっとも有名なものとなったが-によって、クローチェは歴史認識の本質が過去の大問題の想像力による把握にあるということを示そうとしたのである。(144頁下段)

 だが、このようなクローチェの歴史理論は必ずしも首尾一貫して合理的なものではなかったようである。クローチェは、1910年終身身分の上院議員の就任し、政治の舞台に進出することになる。著者によれば、クローチェの行動と理論、歴史叙述と哲学的労作とは分かちがたく絡み合っている。この後、クローチェは二度の世界大戦を生き延び、1943年ファシズムの崩壊とともに、イタリアの指導的知識人としてたち現れることになるが、この間に彼が著した『イタリア史』『ヨーロッパ史』『ナポリ王国史』等の歴史叙述は彼の歴史理論を逸脱し、「理性」や「自由」といった抽象観念がヘーゲルのように哲学的に概念化されることなく一種の指導的観念として流用されることになる。
 著者は、このような後期のクローチェの歴史思想は、二つの大きな問題を残すことになると論述している。その一つが、抽象的カテゴリーが、歴史叙述にどの程度妥当するのか明白な基準を提示できなかったこと。今一つが、直観または想像力によって到達された諸発見を理性に転化するのに歴史的思考がどのような役割を果たせるのかを明確に出来なかったことである。結論的に著者は、クローチェの思考は相対主義的で、悲劇の感覚を欠いたものと論断しており、この点でドイツの同時代人、トレルチェやマイネッケにおくれをとっている、と述べている。

 (続)
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