奇兵隊の暴れん坊、山県狂介が、いかに明治国家の形成に寄与し、その中枢に居続け、以後の国家経営において重要な役割を果たし続けてきたのかを再評価すべきである、という主張の書である。
山県が明治政府で成した最初の大仕事は明治6年の徴兵制の確立であり、それ故に悪名が高いのだが、これは大村益次郎が生き延びていれば、大村の功績となった事象であろう。
そして明治6年の政変以後の士族の叛乱期を生き延びる中で、旧帝国陸軍の制度整備に務めそれを掌握すると、明治16年には内務卿に就任する。内務卿時代は帝都の都市計画や地方自治制度の確立(所謂「富国強兵」の富国)に務めるとともに、2度の欧米外遊に出かけている。
この間、木戸が逝き、西郷、大久保の両巨頭が共に倒れる中、山県は伊藤との確執を繰り広げるなかで明治政府の枢要を担う存在になっていく。
本書が強調しているのは、山県の情勢判断の的確さであり、その外交戦略の堅実さである。日清日露の両戦役を通じて、山県の名が喧伝されることは稀だが、明治国家の外交戦略はほとんど山県の戦略を具現化していったものということができると本書は主張している。
山県の外交戦略とは、対列国協調外交の重視であり、特に対米協調を重視している。山県には、当時の日本がいかに危ういパワーバランスの上に立脚しているのかがよく見えていたのであり、山県の政略は常にその危機意識によって発動されていたのだと。
驚くべきは山県の没年であるが、山県は1922年(大正11年)まで生存し、死の直前まで政治の実権を手放していない。大正期において山県の相棒的存在となるのが原敬だが、山県はその原よりも長生きしている。その治世(とういうのは語弊かもしれないが)は優に半世紀を超えているのである。
本書は、山県の評価をめぐる松本清張と林房雄の論争から説き起こされているが、そこには山県を象徴とする日本近代史像の分裂が現れているのであり、山県の在りようを再評価することで、その分裂を解くことができるとしている。
PR
COMMENT