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東西南北舎

東西南北舎は東西南北人の活動に伴い生成したテクスト群の集積地である。「東西南北人」は福岡の儒者亀井南溟が秘蔵した細川林谷篆刻の銅印。南溟の死後、息子の亀井昭陽から、原古処、原釆蘋、土屋蕭海、長三洲へと伝わり、三洲の長男、長壽吉の手を経て現在は福岡県朝倉市の秋月郷土館に伝承されたもの。私の東西南北人は勝手な僭称であるが、願わくば、東西南北に憚ることのない庵舎とならんことを祈念してその名を流用させて頂いた。

   

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アイオーン 高野史緒著(早川書房2002年10月31日)

トゥールーズ→パルミラ→コンスタンティノポリス→ログレス(イングランド)→ローマ→中央アジアの草原地帯→アヴィニヨン。

 時は13世紀前半、南仏のトゥールズの若き医師ファビアンが放浪の科学者アルフォンスとの出会いから、自らの信仰に疑問が生じ、この世の理を探る長い旅路へと踏み出す。だが、上に列挙したのは、ファビアンの旅路の経路ではない。本作が舞台とした地名を順繰りに挙げていったものである。

 そこには、歴史上の教皇やマルコ・ポーロ、あるいは伝説のアーサー王や徐福といった名前まで飛び出してくる。仕掛けはそれだけではない。この世界の西ローマ帝国は、電子工学や核物理学、果ては遺伝子工学の粋を極めた科学文明を享受していたが、ゲンマン民族との核戦争によって滅んでしまったという設定である。だから13世紀においても宙には大天使たる人工衛星が飛び交っている。

 つまり、実際の歴史からしてみれば大嘘以外の何ものでもない世界設定であり、登場人物や地名等も、多くを歴史上のものや伝説上のものを素材としつつ、非常に危ういバランスで継接ぎされたコラージュの如き趣なのであるが、それらを巧みに混淆し、流麗かつ審美的な文章で繋ぎ合わせて本作は成立している。

 そして、著者のあとがきによると、本作の最初の構想は「もしカタリ派が正統信仰だったら」という思いつきにあったという。どういうことか?実のところ、カタリ派の教義は不明な点が多いのだが、本作の世界ではこの世の成り立ちとして、以下に示すような教義がローマ教会において正統と認識されているのである。

++唯一にして至善なる神は世界を創られた。それは肉に依らず、物質に依らない、形而上の世界、天界である。が、ある時、神の腹心たるルキフェルの反乱があった。ルキフェルは天界から失墜する時、天使の三分の一を誘惑し道連れにした。ルキフェルすなわち悪魔は、その住み処たる穢れた悪の世界、物質に依る世界を創造した。それがこの、我々が住むところの現世である。悪魔は天上から惑わし奪い去った天使たちの魂(アニマ)を、アダムとエヴァによって増殖する、物質で出来た肉体(コルプス)に封じたのである。それがこの我々なのである。(16頁)

 つまり、ファビアンが疑うのはこのようなカタリ派の教義と信仰であり、そこにはわれわれが創世記として認識しているバイブルは伝承していないのである。そして、本作の物語-ファビアンの遍歴はここから始まる。

 結論をいうと、いろいろ突っ込みどころはあるが、全編通した世界構築は巧みであり、卓越した文章の力と相まって、一個の作品として類い稀な感興を生み出すことに成功していると思う。


 トゥールーズ、サン・セルナン寺院 1997年10月25日 東西南北人撮影

 シリア、パルミラ 1997年12月2日 東西南北人撮影

 イスタンブール、アヤソフィア大聖堂 1997年12月23日 東西南北人撮影
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魔法少女まどか☆マギカ

-僕と契約して魔法少女になってほしいんだ。 byキュウべい

 本作は、魔法少女ものという意匠をまとって今に甦った、新たなファウストである。
 まったく、恐るべき魔法少女アニメである。
 前評判の高さはある程度見知っていたが、これ程とは期待していなかった。遅ればせながら全12話を連続視聴したのだが、シナリオの構成も映像の水準も見事であり、文句のつけようがない。
 ここには現実の残酷さと闇の深さ、それゆえの希望の美しさが余すところなく描かれている。主人公はファウストのように「時よとまれ、お前は美しい」と嘯くわけではないが、物語構成の終局において、正にファウスト的な展開を遂げてみせる。
 本作はいわば童話なのだが、真の童話が、常に現実の残酷さをその中心に据えていることを考えれば、これは戦闘美少女変身もののアニメーションというジャンルが辿り着くべくして到達し得たひとつの頂きとして、当然の帰結なのかもしれない。

 制作はシャフト、監督は新房昭之である。ゼロ年代後半から旺盛な創作活動を展開しているユニットだが、この組み合わせでは初のオリジナル作品という触れ込みでもある。
 西尾維新原作の「化物語」も見事な映像化だったが、まさかオリジナルでこれ程の作品を創り上げてしまうとは、新房監督、おそるべしである。

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一般意志2.0 ルソー、フロイト、グーグル 東浩紀著(講談社2011年11月22日)

 ここ最近、フクシマの被災地を回っている。
 これまで、飯館村、相馬市、伊達市、いわき市、郡山市と回ってきた。
 そんな合間に、関曠野の「フクシマ以後 エネルギー・通貨・主権」や加藤典洋の「3.11―死に神に突き飛ばされる」等を読んできた。
 それぞれに興味深い議論が展開されており、特に加藤が書き下ろしている「祈念と国策」は力作で、説得される部分も多いのだが、そこから新しいヴィジョンが見えてくるような議論ではない。
 そういう意味では、この東の議論は、新しい夢を具現しており、なかなかに得がたい達成を示していると思う。
 本書は、1997年の「サイバースペースはなぜそう呼ばれるか」から、「動物化するポストモダン」、「情報自由論」と重ねられてきた東浩紀の情報社会論のひとつの到達点であり、未来への希望が込められたエッセイ(試み)である。
 一般意志とは、ルソーが社会契約論で提起している主権を担う意志を概念化したもので、諸個人の特殊(個別)意志の総和である全体意志とは明確に区別されるものであり、常に正しく、公の利益を目指すものと規定されている。
 これは抽象的な議論であるが、東はこれに続くルソーの次の規定に着目する。

++しかし、これらの〔全体意志を構成する〕特殊意志から、相殺しあうプラスとマイナスを取り除くと、差異の和が残るが、それが一般意志なのである。(43頁、ルソー「社会契約論」第二編第三章、岩波文庫では47頁)

 東は、このルソーの規定について「重要なのは、たとえその表現が感覚的なものにすぎなかったとしても、ルソーが一般意志を数理的に算出可能なものだと信じていたという、その事実である。」と示唆し、このルソーの一般意志を次のように規定してみせる。

++一般意志は数学的存在である。それは人間の秩序ではなくモノの秩序に属する。それは無数の自由な個人が集まり、たがいに監視し、たがいに暴力を振るいあう不安定なコミュニケーションの外側に存在する。だからそれは、民主主義という言葉で人々が思い浮かべるような、「有権者が議論を深めて作り出す合意」といったイメージからは遠く離れている。(80頁)

 東は、ここを基点に、本書でひとつの夢を語っている。その夢の基底こそが一般意志2.0として名指されるものであり、ひとまず東はそれを総記録社会化しつつある「情報環境に刻まれた行為と欲望の履歴を意味する」(100頁)ものとして語っている。それはまた、「動物化するポストモダン」で展開されたデータベースの延長線上にあるものであり、無意識を可視化する装置でもある。
 東が夢として語ってみせるのは、そのような一般意志2.0をを基底に据え、活用することにより、政治や統治、社会や国家の在り方をラディカルに変えてしまう可能性である。
 本書はそのための方法叙説とでもいうべきものとなっている。 ただし、本書は今回の震災直前に連載を終え、その後若干の加筆は行われているものの、基本的には連載時の構成を留めた形で出版されている。著者が全面改稿し得なかったのは、本書が震災前という時空に呼応した夢を語っているからで、今はもっと別の語るべき日本論がある、という弁明が序文に記されている。
 確かに東は、自身が主催する「思想地図β」の第2号では、震災の特集を組み、ある種の日本回帰といった転回を示している。
 その是非について判断することは今は差し控えたいが、本書の出版により、東はここで提示した夢に対して大いなる責任を担うことになるはずである。



 福島県相馬市 2011年11月25日 東西南北人撮影

 福島県相馬市 2011年11月25日 東西南北人撮影

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記憶汚染 林譲治著(早川書房2003年10月31日)

 2003年の作品だが、今読むと、妙に予見的なところのあるSF。
 本作は、テロにより北陸の原発でメルトダウンが発生した十数年後という舞台設定。
 そのテロによる影響から、1人1台のウェアラブルコンピュータ(ワーコン)の保持と、リングシステムという地球を取り巻く環状通信衛生というインフラの整備により、厳格な個人認証制度というアーキテクチャが構築され、それによって統制された近未来の日本。
 東浩紀が情報自由論で示した環境管理型権力をネガティブに具象化したような設定だが、おそらくここに描かれているような社会構成は、今のインターネット環境とスマートフォンでも、やろうと思えば構築できてしまうのではないだろうか。例えば、スマートフォンの携帯が義務化され、フェイスブックへの参加が義務化された社会を想定すれば、ここに描かれている社会との距離はさほど遠くはない。
 それは兎も角、この小説の面白さは、ここに個人のアイデンティティと記憶の問題を絡めて、歴史の虚構性をめぐる陰謀劇を描き出している点にある。あまり書くとネタバレになってしまうので、興味のある方は一読されたい。
 しかし、この作者といい、師匠筋に当たる谷甲州といい、シミュレーション小説はあまり感心しないのだが、まっとうなSFの方は結構面白い。

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吸血鬼と精神分析 笠井潔著(光文社 2011年10月18日)

 「バイ・バイ・エンジェル」「サマー・アポカリプス」「薔薇の女」「哲学者の密室」「オィディプス症候群」に続く矢吹駆シリーズ第6作目。つまり「青銅の悲劇」はその帯に銘打たれていたように、「日本篇」ということで別枠扱いということになる。
 全編合わせて八百頁の大冊。本作のストーリーは「オイディプス症候群」の直後から始まる。語り手は、ミノタウロス島の窮地を脱して帰国したものの、その事件のPTSDに苦しむナディア・モガール。そこに、脱血屍体を生成する連続殺人事件が生起する。事象の混濁(混線)により、苦戦する現象学探偵、矢吹駆。
 そして、このシリーズでお馴染みの探偵と現代思想家との思弁的対決。今回は「フロイト回帰派」の総帥と位置づけられる精神分析家ジャック・シャブロルと、そこからアブジェクション論をもって離反しようとしている弟子のジュリア・ヴェルヌイユが展開する精神分析理論がその対象となっている。この2人が実在の誰をモデルにしているかは一目瞭然であろう。
 つまり、本作の方法とコンセプトは、サマー・アポカリプスで確立されたスタイルをそのまま踏襲したものである。
 さて、その評価であるが、もちろん本作も力作には違いないのだが、私は「哲学者の密室」を最後に、本シリーズは現実との緊張関係を失い、哲学的会話を過剰に散りばめただけの本格ミステリーに成り下がってしまっている、ととっている。
 この、現実との緊張関係の喪失という点については、時代状況の変化によるところが大きく、そのことは著者も重々承知の上なのだと思うが、そうなってしまうと、やはり本作の劇中における探偵とジャックやジュリアとの思弁的対決は、行き場を失った剰余に成りさがらざるを得ない。その点では、まだしも日本篇の「青銅の悲劇」の方が可能性を感じさせる部分があったように思われる。
 そして、ラカンやクリステヴァの思想的意義を問うのであれば、このようなやり方は決して効率のいいやり方ではないし、誤解も招きやすい。まあ、評論として出版するよりは読者数は確実に多くなるであろうから、その点が唯一の利点とはいえるだろうが。
 しかし、笠井潔は、本シリーズを完結させるつもりなら、次作にはもう少し方法的な工夫が必要ではないかと思うが、いかがであろうか。

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