文庫化を機に、遅ればせながら読了。
ひとことで評するなら、よくできた2000年代の文化状況論であるが、状況論が限りなく不可能化してしまったこの状況を、よくもまあ無理矢理ながらも状況論として一本筋の通ったものにしているところはなかなかの力業である。
ただし、ここで「想像力」として論じられているのは「物語」の想像力(構想力)であるが、それらは全てプロット(筋)の集積物としての物語に還元されて論じられている。したがって、論評される想像力の実践主体は、いずれのコンテンツについても物語作者としての(シナリオ)ライターである。つまり、本書の想像力論とは、大塚英志、宮台真司、大澤真幸、東浩紀等を経由した吉本隆明の「イメージ論」に連接可能な議論である。
TVドラマ、アニメ、映画、美少女ゲーム、各種「文学」と、凡そコンテンツ足りうるものは全て論評の対象にされている観があるが、構図は単純である。
本書でも、かつて、大澤真幸が虚構の時代の果てとして立言した、神戸の震災とオウム真理教事件と新世紀エヴァンゲリオン(TVシリーズ)が放映された95年が、時代のターニングポイントとして捉えられ、そこを画期として、セカイ系(レイプ・ファンタジー)、サヴァイヴ系(決断主義者のバトルロワイヤル)に分類可能なコンテンツ群が簇生し、様々な物語が自動運動を繰り広げているというのが、荒っぽくいうなら本書の結構である。
その一方、本書があからさまな仮想敵としているのは東浩紀の「動物化するポストモダン」であり、「ゲーム的リアリズムの誕生」であるが、そこで選択されている戦略が、東が忌避する、データベース消費構造へのセクシャリティの導入という斎藤環的な身振りである。しかし、この所作は思わぬものを引き寄せている。
その問題はここで取り上げられている「想像力」において「肥大する母性のデストピア」として問題設定され、さらに浅羽通明の影響下にある山形浩生や稲葉振一郎を素材とした新教養主義における成熟の可能性が問われるに至っている。これはほとんど江藤淳の問題構成ではないか。
最後に、文庫版では3.11以後のインタビューが掲載されており、来年にはこの「母性のデストピア」をタイトルとする著作の刊行を予定していることが告げられている。江藤淳からの距離については、その新刊に目を通してから判断してみたい。
PR
COMMENT