原著は1984年にミネルヴァ書房から出版されたもの。
本書は、幕末の志士たちが維新の創業にいかに関わっていったかを、志士から官僚への転身を生き残りのためのほとんど唯一のキャリアパスとして構築していった維新政権と、それに抗い、敗れていった多くの志士たちとの対比において描き出した歴史研究である。
本書は、「第一章 新首都で新政を」「第二章 維新官僚とその政治」「第三章 明治の志士とその行動」「第四章 政治と私の空間」「第五章 志士の発想と官僚の論理」の五章で構成されている。
第一章は、明治天皇の東幸として成された東京遷都が、何故「東京奠都」と表現されたかをという点を掘り下げることによって、王政復古の実質が新政の創業という趣意を抱懐していたことを示している。奠都という表現は、新たに都を定めるという意味を持っており、維新政権の実権を担っていた下級士族が、「神武創業」という構想を現実化するために、その内実は遷都でしかない行為を奠都と言いくるめたものということができる、というものである。
第二章は、廃藩置県に至るまでの草創期の維新政権の官僚を「維新官僚」と位置づけ、そのモデルケースとして広沢真臣を取り上げ、長州藩士広沢がいかに維新官僚へと転身していったかを、その意識の変遷において描き出す事例研究となっている。そこでは、広沢が維新官僚=朝臣として自己を転位するに際し、中間項として存在していた藩臣意識が取り払われ、朝廷=維新政府=公という意識を形成することで、近代的な公私の意識が成立していく過程が素描されており、著者はそういう言葉を使用していないが、そこでは原初的な国民国家の布置の中に公私関係が再配置されていく様子が窺われて興味深い。
そして、第三章こそが本書の本論というべき部分であり、著者は、維新官僚と対抗関係に陥らざるを得ない、明治における志士的群像の総体を浮き彫りにすることによって、それらの明治の志士が、幕末の志士であった明治の官僚と相容れず敗れていくことを、一つの必然として提示しているように受け取られる。
著者は、志士の語源を「論語」と「孟子」における「志士仁人」に求めているが、「論語」で志士仁人は、「生を求めて仁を害することなし、身を殺して以て仁を成すこと有り」と述べられている。つまり、仁を成すためには死をも恐れず行動する者こそが志士である、と規定されているのであり、幕末の志士たちは、そのように自己を規定していくところに回天の志を立てていく。彼らの回天の志とは、夷狄に対する独立不羈(攘夷)の新国家建設の志であり、彼ら自身の生存の形式もその目的を遂げるためには死をも厭わぬ覚悟を立てることで成立していた。そのような志士たちの連合は、著者が示すように「個の結合」に拠るものであり、それが葉隠れ的な士道の倫理と重ねられていく。だが、それらの志士たちが辿りついた明治国家という新国家は急速に官僚組織を形成し、彼らが成し遂げた筈の志を悉く裏切っていくことになる。
明治初年に頻発したテロリズムややがて西南戦争へと帰結する数々の士族叛乱は、いわばそれら「明治の志士」たちの敗亡の歴史といえるものであるが、著者はそれらの系譜を、反逆の系譜と挫折の系譜に分けて点綴している。この区分については、維新政権に対する反発の積極性と消極性という区別が一つの判断基準とされているが、同時にそれは民衆一般との関係性の差異としてこと上げされている。けれども、この点に関する著者の論述は不十分といわざるを得ない。この点については、やはり丸山真男の「忠誠と反逆」や橋川文三の「忠誠意識の変容」等の再検討が必要だと考えられる。
第四章は、一転して、維新の三傑と呼ばれる大久保利通、木戸孝允、西郷隆盛の女性関係や居住空間を通して、彼らがどのような公私の区分の許に起居していたかが論じられている。著者の規定では、木戸と西郷は、終生志士的な生存形式の中に生きた者であり、この三名の中では一人大久保のみが官僚的公私の区分を体現し得た者として描かれている。
さて、最終章は本書の結論となる部分なのだが、結局著者は志士と官僚を単純な二項対立の構造でしか描出し得ていない。官僚を治者とし、志士は志に殉じて敗れ去る者として並行的な関係で捉えることで終始している。しかし、そこには本来弁証法的関係に擬せられるような、よりダイナミックな構造が見てとれると思うのだが、いかがであろうか。
そこで気になるのは、本書においてはほとんど福沢諭吉が無視されている事である。福沢は志士とも官僚ともいえぬ人物ではあるが、同時代においてその両者を冷徹なまなざしで射抜いてきた認識者であり、この点については当時として抜きん出た認識に達していたと言わざるを得ない人物である。私がこの点に関して丸山や橋川の検討に立ち返る必要があると思う所以である。
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