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東西南北舎

東西南北舎は東西南北人の活動に伴い生成したテクスト群の集積地である。「東西南北人」は福岡の儒者亀井南溟が秘蔵した細川林谷篆刻の銅印。南溟の死後、息子の亀井昭陽から、原古処、原釆蘋、土屋蕭海、長三洲へと伝わり、三洲の長男、長壽吉の手を経て現在は福岡県朝倉市の秋月郷土館に伝承されたもの。私の東西南北人は勝手な僭称であるが、願わくば、東西南北に憚ることのない庵舎とならんことを祈念してその名を流用させて頂いた。

   
カテゴリー「歴史・史論」の記事一覧

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志士と官僚―明治を「創業」した人びと 佐々木 克著(講談社 2000年1月)

 原著は1984年にミネルヴァ書房から出版されたもの。
 本書は、幕末の志士たちが維新の創業にいかに関わっていったかを、志士から官僚への転身を生き残りのためのほとんど唯一のキャリアパスとして構築していった維新政権と、それに抗い、敗れていった多くの志士たちとの対比において描き出した歴史研究である。
 本書は、「第一章 新首都で新政を」「第二章 維新官僚とその政治」「第三章 明治の志士とその行動」「第四章 政治と私の空間」「第五章 志士の発想と官僚の論理」の五章で構成されている。
 第一章は、明治天皇の東幸として成された東京遷都が、何故「東京奠都」と表現されたかをという点を掘り下げることによって、王政復古の実質が新政の創業という趣意を抱懐していたことを示している。奠都という表現は、新たに都を定めるという意味を持っており、維新政権の実権を担っていた下級士族が、「神武創業」という構想を現実化するために、その内実は遷都でしかない行為を奠都と言いくるめたものということができる、というものである。
 第二章は、廃藩置県に至るまでの草創期の維新政権の官僚を「維新官僚」と位置づけ、そのモデルケースとして広沢真臣を取り上げ、長州藩士広沢がいかに維新官僚へと転身していったかを、その意識の変遷において描き出す事例研究となっている。そこでは、広沢が維新官僚=朝臣として自己を転位するに際し、中間項として存在していた藩臣意識が取り払われ、朝廷=維新政府=公という意識を形成することで、近代的な公私の意識が成立していく過程が素描されており、著者はそういう言葉を使用していないが、そこでは原初的な国民国家の布置の中に公私関係が再配置されていく様子が窺われて興味深い。
 そして、第三章こそが本書の本論というべき部分であり、著者は、維新官僚と対抗関係に陥らざるを得ない、明治における志士的群像の総体を浮き彫りにすることによって、それらの明治の志士が、幕末の志士であった明治の官僚と相容れず敗れていくことを、一つの必然として提示しているように受け取られる。
 著者は、志士の語源を「論語」と「孟子」における「志士仁人」に求めているが、「論語」で志士仁人は、「生を求めて仁を害することなし、身を殺して以て仁を成すこと有り」と述べられている。つまり、仁を成すためには死をも恐れず行動する者こそが志士である、と規定されているのであり、幕末の志士たちは、そのように自己を規定していくところに回天の志を立てていく。彼らの回天の志とは、夷狄に対する独立不羈(攘夷)の新国家建設の志であり、彼ら自身の生存の形式もその目的を遂げるためには死をも厭わぬ覚悟を立てることで成立していた。そのような志士たちの連合は、著者が示すように「個の結合」に拠るものであり、それが葉隠れ的な士道の倫理と重ねられていく。だが、それらの志士たちが辿りついた明治国家という新国家は急速に官僚組織を形成し、彼らが成し遂げた筈の志を悉く裏切っていくことになる。
 明治初年に頻発したテロリズムややがて西南戦争へと帰結する数々の士族叛乱は、いわばそれら「明治の志士」たちの敗亡の歴史といえるものであるが、著者はそれらの系譜を、反逆の系譜と挫折の系譜に分けて点綴している。この区分については、維新政権に対する反発の積極性と消極性という区別が一つの判断基準とされているが、同時にそれは民衆一般との関係性の差異としてこと上げされている。けれども、この点に関する著者の論述は不十分といわざるを得ない。この点については、やはり丸山真男の「忠誠と反逆」や橋川文三の「忠誠意識の変容」等の再検討が必要だと考えられる。
 第四章は、一転して、維新の三傑と呼ばれる大久保利通、木戸孝允、西郷隆盛の女性関係や居住空間を通して、彼らがどのような公私の区分の許に起居していたかが論じられている。著者の規定では、木戸と西郷は、終生志士的な生存形式の中に生きた者であり、この三名の中では一人大久保のみが官僚的公私の区分を体現し得た者として描かれている。
 さて、最終章は本書の結論となる部分なのだが、結局著者は志士と官僚を単純な二項対立の構造でしか描出し得ていない。官僚を治者とし、志士は志に殉じて敗れ去る者として並行的な関係で捉えることで終始している。しかし、そこには本来弁証法的関係に擬せられるような、よりダイナミックな構造が見てとれると思うのだが、いかがであろうか。
 そこで気になるのは、本書においてはほとんど福沢諭吉が無視されている事である。福沢は志士とも官僚ともいえぬ人物ではあるが、同時代においてその両者を冷徹なまなざしで射抜いてきた認識者であり、この点については当時として抜きん出た認識に達していたと言わざるを得ない人物である。私がこの点に関して丸山や橋川の検討に立ち返る必要があると思う所以である。
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維新政権 松尾正人著(吉川弘文館1995年8月)

 廃藩置県の研究者として著名な松尾正人の明治初年における政権史である。
 丁卯冬、即ち慶応3年の王政復古クーデターから、明治4年7月、廃藩置県の断行までの期間、政権を執った政府を本書は維新政権と規定している。そして本書では、その維新政権を明治元年から明治4年にかけて、単年毎に論述している。
 この間の政府において行われた主な事跡としては、明治元年は五箇条誓文の発布と天皇の東行(事実上の東京遷都)、明治2年が二官六省の創設と版籍奉還の断行、明治3年が民蔵分離、明治4年が廃藩置県ということになるが、この間の主役はやはり三条実美と岩倉具視及び木戸孝允と大久保利通ということになる。
 この廃藩置県の断行が明治4年の7月14日で、その4ヶ月後の11月12日(いずれも旧暦)に岩倉遣欧使節団が約1年半の長途へと出立する。この岩倉使節団には、この「維新政権」の立役者4名中3名が参加しており、居残りは三条実美のみとなっている。
 このことは、岩倉ミッションが如何に大掛かりなものであったのかを示すとともに、使節団参加メンバーと留守政権とを政治的に分かつことになる訳だが、その部分については本書の主要な論述対象とはなっていない。
 けれども本書は、明治6年の政変と「征韓論」については、毛利敏彦以前の通説を踏襲する見解をとっている。
本書の基本的な部分は、丹念な文献精査の積み重ねによって書かれており、一つ一つの事跡に関する論評は、私のような素人が反駁する余地のないものといえるが、トータルな読後感は、そりゃ違うんじゃないの、という感が強く残った。
 これが歴史の恐ろしさというべきか、明治6年の政変の捉え方ひとつで、全般的な認識が大きく異なってくるのである。

 それから、本書には長三洲が二箇所において登場する。一つは「新聞雑誌」の発刊者として、今ひとつは「新封建論」の著者静妙子としてである。

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西郷隆盛と“東アジアの共生” 高大勝著(社会評論社 2010年8月)

 明治6年の政変で、西郷隆盛や江藤新平が征韓論を唱えて下野したとされる歴史の通説については、毛利敏彦の仕事を端緒として、ほぼ覆されつつあるが、今の歴史の教科書にはどのように書かれているのであろうか。相変わらず、勝者(大久保利通・伊藤博文)側の観点にたった記述がなされているのだろうか。もし、そうであるならば、それはすぐにでも書き改めるべきであろう。
 本書の著者は自ら記しているように、在日コリアンの2世である。そのような著者が明治維新の功労者の中でも一際謎の多い西郷を論じて、「征韓論者」という西郷の虚像を覆し、幻想の東アジア連合という、あり得たかもしれない歴史的可能性の検証を試みたのが本書である。
 本書において、明治6年政変時の歴史的な考証については、概ね毛利敏彦が展開する議論の枠内にあるといえるが、本書の独自性は、西郷の出自と生い立ちにおいて朝鮮との親和性が生じる必然性を焙り出した点にあり、明治6年の時点で西郷が朝鮮使節として派遣されていたら、その後の東アジア史はまったく異なったものとなっていたのではないかという想像を誘う。
 (東アジアはともかく、明治6年の政変が西郷や江藤の側の勝利に帰していたら、その後の日本はまったく違った進路を歩んでいたのではないかという想像はすでに私の妄執のひとつとなっている。)
 西郷が生まれ育ったのは、鹿児島の下加冶屋町であるが、下加冶屋町は甲突川を挟んで高麗(これ)町と接している。この高麗町は、その名が示すように鹿児島における朝鮮系渡来人の集団居住地であり、本書が焦点を当てているのは、このような西郷の出自や、薩摩藩自体の朝鮮との交流史である。
 そもそも島津氏自体が秦氏の血を引く一族であるという議論はともかく(現在の島津宗家はこれを否定しているそうである)、秀吉の朝鮮出兵に駆り出された島津義弘は現地の陶工を拉致し、鹿児島に連れてくる。これが現在の薩摩焼の開祖となる人々であり、彼らは高麗町への転居を拒み、苗代川(現在の日置郡東市来町美山)に居を構える。
 薩摩藩はこれらの陶工の功績を評価・保護し、「朝鮮筋目の者」として藩の中で独自の地位を与えるようになる。
 本書によると、西郷は斉彬の参勤交代のお供として、幾度か苗代川を訪れ、当地の陶工と交流しているという。そのような交流の中で、朝鮮人の儒教思想と礼に厚い生き方に共感していたのではないか、というのが本書の論点のひとつである。
 また、今ひとつが、大久保と竹馬の友というのは、虚構の産物ではないかという説である。大久保が生まれたのは、先に示した高麗町であり、確かに西郷の生家とそう遠くはないようだが、同じ町内ではない。大久保の生い立ちには、謎が多く、幼少時に加治屋町に移り住んだと伝わっているが、それが何時かは定かでない。本書は、14歳までは高麗町で育ったという説をとっている。
 結局、大久保は岩倉ミッションへの参加で、ミッション前に有していた明治政府内部での立場を失っており、その失地回復のために、伊藤を奔らせ、岩倉を動かし、強引なクーデターをやらかした訳である。梟雄という言葉があるが、大久保は正に明治維新における梟雄である。常に自己保身と裏切りの影が見え隠れしている。そして、それを良しとする風潮が今の政治家や官僚に全て繋がっている。
 それはともかく、本書は内容の割りに筆致は冷静であり、よく調べて書いている。
 ただし、西郷論として読むと、西郷がもっていた暗さの部分を掬いきれていない感が残る。かつて、渡辺京二は西郷を「異界の人」「死者の国からの革命家」として論じていたが、本書の描き出す西郷には、そのような影の部分、(思想としての西郷の根幹)が抜け落ちていると感じられた。

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江藤新平伝―奇跡の国家プランナーの栄光と悲劇 星川栄一著(新風舎 2003年11月)

 著者の来歴が不明である。
 随分以前に購入した本だったのだが、ずーっと読まずに放っておいた本である。
 著者あとがきによると、毛利敏彦の「江藤新平」と鈴木鶴子の「江藤新平と明治維新」を底本として江藤の業績を読みやすくまとめたもののようである。
 確かに読みやすく、所謂俗説の「征韓論を主張して敗れ、下野し、不平士族を率いて佐賀の乱を起こして処刑された人」としか認識していない人がこれを読めば一驚する本だと思う。
 著者は純正の江藤ファン(かくいう私もその一人のつもりだが)のようで、官僚としての江藤が如何に優秀で、時代の遥か先を行ったスーパーテクノクラートであったについてを記述している部分は少々筆が走りすぎの感を否めないが、伊藤博文の策謀により明治六年の政変を迎え、大久保利通に陥れられ佐賀の乱の首謀者に祭り上げられ、ついには不当な暗黒裁判により殺されるくだりは、なかなか読ませる文章になっている。
 江藤新平を知らない人は、是非読んでみてほしい。

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山県有朋と明治国家 井上寿一著(日本放送出版協会 2010年12月21日)

 奇兵隊の暴れん坊、山県狂介が、いかに明治国家の形成に寄与し、その中枢に居続け、以後の国家経営において重要な役割を果たし続けてきたのかを再評価すべきである、という主張の書である。
 山県が明治政府で成した最初の大仕事は明治6年の徴兵制の確立であり、それ故に悪名が高いのだが、これは大村益次郎が生き延びていれば、大村の功績となった事象であろう。
 そして明治6年の政変以後の士族の叛乱期を生き延びる中で、旧帝国陸軍の制度整備に務めそれを掌握すると、明治16年には内務卿に就任する。内務卿時代は帝都の都市計画や地方自治制度の確立(所謂「富国強兵」の富国)に務めるとともに、2度の欧米外遊に出かけている。
 この間、木戸が逝き、西郷、大久保の両巨頭が共に倒れる中、山県は伊藤との確執を繰り広げるなかで明治政府の枢要を担う存在になっていく。
 本書が強調しているのは、山県の情勢判断の的確さであり、その外交戦略の堅実さである。日清日露の両戦役を通じて、山県の名が喧伝されることは稀だが、明治国家の外交戦略はほとんど山県の戦略を具現化していったものということができると本書は主張している。
 山県の外交戦略とは、対列国協調外交の重視であり、特に対米協調を重視している。山県には、当時の日本がいかに危ういパワーバランスの上に立脚しているのかがよく見えていたのであり、山県の政略は常にその危機意識によって発動されていたのだと。

 驚くべきは山県の没年であるが、山県は1922年(大正11年)まで生存し、死の直前まで政治の実権を手放していない。大正期において山県の相棒的存在となるのが原敬だが、山県はその原よりも長生きしている。その治世(とういうのは語弊かもしれないが)は優に半世紀を超えているのである。

 本書は、山県の評価をめぐる松本清張と林房雄の論争から説き起こされているが、そこには山県を象徴とする日本近代史像の分裂が現れているのであり、山県の在りようを再評価することで、その分裂を解くことができるとしている。

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