中華SFの雄、劉慈欣の『三体』三部作の翻訳が完結した。
最近、結構SFづいていて、『三体』三部作も楽しく読ませてもらった。
三部作を通しての展開は見事なものであり、紛れもない傑作だとは思うのだが、私の求めるSFからすると、物語として整い過ぎているようにも感じられた。
読書の楽しみとしては、物語として整っている(いい具合に読者を裏切ってくれることを含めて)ことは大切な事なのだが、私がSFに求めているのは、そのような物語性をも破壊してしまうような衝撃なのかもしれない。これは悪く言えば、単なるナイモノネダリなのかもしれないが、かつてA.C.クラーク、P.K.ディック、S.レム、小松左京といった作家が描いた作品のいくつかはそこを超えて、あたかも眩暈を覚えるようなクラクラするヴィジョンを提示しえていたのではないか、とも思うのだ。
本書の監訳者の大森望氏は、本書の❝センス・オブ・ワンダー❞を高らかに評価しているが、私にはそれほどの驚きは感じられなかった。これは私が鈍くなってしまったのか、それとも歳をとってしまったということなのか?
また、『三体』については、作者の登場人物への愛?故か、登場人物を生かし過ぎているようにも感じられた。典型的なのが、第Ⅲ部における程心(チェン・シン)である。『三体』の第Ⅲ部「死神永生」は壮大な時空を経巡る物語であり、その主人公はいわば一種の観照者であり、それ故程心のような人物が主人公に据えられたのかもしれないが、この壮大な時空をめぐる物語が彼女のフィルターを通して語られると、何だか朦朧派の水墨画を眺めているかのように曖昧模糊としたものに思われるのだ。にも関わらず、程心はやはり本書の主人公であり、彼女の(何もしないという)選択により物語が動いていく。
これは不埒な物言いかもしれないが、例えば、野崎まどであれば、このような主人公(そうすると「主人公」とは呼べないのかもしれないが)は、容赦なくその序盤で退場させられてしまうだろう。つまり、そうなれば、物語の展開もまるっきり異なったものになってしまうということだが......
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