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東西南北舎

東西南北舎は東西南北人の活動に伴い生成したテクスト群の集積地である。「東西南北人」は福岡の儒者亀井南溟が秘蔵した細川林谷篆刻の銅印。南溟の死後、息子の亀井昭陽から、原古処、原釆蘋、土屋蕭海、長三洲へと伝わり、三洲の長男、長壽吉の手を経て現在は福岡県朝倉市の秋月郷土館に伝承されたもの。私の東西南北人は勝手な僭称であるが、願わくば、東西南北に憚ることのない庵舎とならんことを祈念してその名を流用させて頂いた。

   
カテゴリー「アニメーション」の記事一覧

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「途中」であるということによる存在肯定(ネタバレあり)


 TVアニメーション『正解するカド -KADO : The right answer』が完結した。
 
 8話以降の展開は、当初私が予期した方向には向かわなかった。
 「ワム」「サンサ」に続いて、ヤハクィザシュニナが人類に提示した「ナノミスハイン」は、重力制御、慣性制御、質量制御、そしてそれらを通して、人類を、この宇宙の時空間の在り方にまで手を加えることができる存在とする装置であり、異方存在それ自体がこの宇宙に対して行使することができることとほぼ同等の能力を人類に付与するものだった。いわば、「ナノミスハイン」はこの宇宙における万能機である。
 けれども、物語の完結を観た後からいうのであれば、これは非常に大きな伏線ではあったが、物語は、そこに示された「ワム」「サンサ」「ナノミスハイン」といった「三種の神器」による効果自体をして人類社会の変化を描き出す方向には向かわなかった。
 本作が向かったのは、結局、人類(被造物)と異方存在という高次元存在(創造主)との接触(出会いと別れ)の物語(=メロドラマ)であった。
 異方存在は、自らの情報消費のために、情報発生装置としてこの宇宙を創造したが、いつしかそこに芽生えた人類という生命体が、特異な量の情報を発生し始めるのに気づく。そこでこの宇宙に下方変換する形で顕現したのが、「カド」とヤハクィザシュニナであり、その目的は、特異な情報発生の謎を解き明かすことにあったという訳だ。
 異方存在ヤハクィザシュニナは、この人類との接触/学習を通じて、自らの存在を人類をミメーシスするかのような様態に変換していくが、やがてその謎の解明のために、人類の代表を一人、異方そのものに変換して連れて行くことを目論むようになる。ヤハクィザシュニナは、その代表として真道幸路朗を選択し、その意向を真道に申し出るが、真道はそれを拒絶する。ヤハクィザシュニナは、仕方なく「ナノミスハイン」によって生成されたコピーを連れて行こうとするが、すぐに、そのコピーにはオリジナルにあった特異性が存在しないことを悟る。
 そこに絡んでくるのが、今一人の異方存在、徭沙羅花(つかいさらか)である。徭は、日本国外務省の若き国際交渉官であるが、実は、この宇宙という存在に魅せられた異方存在であり、その宇宙を愛する(愛読)するあまり、自らの存在形態を下方変換してこの宇宙に紛れ込み、宇宙内生命として転生を繰り返し、この宇宙の変転を見続けてきたスイーパーの如き異方存在として描かれている。いうなれば、徭沙羅花はこの宇宙そのもののファンであり、宇宙を愛するヲタクみたいな存在なのである。
 ヤハクィザシュニナが真道の拒絶に遭い、オリジナルの真道を消滅させようとした刹那、徭は自らの封印-異方存在としての様態を解き放ち、ヤハクィザシュニナに抗うのだが、異方の能力を十全に保持しているザシュニナには抵抗しきれず、沙羅花をかばって瀕死の重症を負ってしまった真道とともに自らが開いた隔絶空間に逃げ落ちる。
 徭沙羅花の隔絶空間で傷を癒した真道と徭は、ヤハクィザシュニナの意志を阻止せんがために画策して品輪彼方博士と花森瞬を隔絶空間に引き込み、異方存在をこの宇宙から隔絶したものとして在らしめるフレゴニクスを破る「アンタゴニクス」を発生させるベストとアームカバーを製作させる。そして、それらを装着した真道は、ザシュニナとの間で「双方の望みを叶える」交渉をすると語り、ザシュニナとの最後の対決に臨む。そこまでが11話までのストーリーだ。
 最終話、真道のコピーを引き込んだ後、突如膨張しはじめたカドの内部、ザシュニナと真道は沙羅花が見守る前で最後の交渉を行うが、それは交渉というより、ザシュニナの、オリジナルの真道に対する恋着と、真道のこの宇宙に対する愛着との相克を示す一種の痴話げんかである。そこでザシュニナが執着してみせるのは、コピーになはないオリジナルの特異性、「一であるものに一以上のものを付与する何か」であり、そこでザシュニナは「心」という言葉さえ使ってみせる。しかし、真道はそのように人間臭くなってしまったザシュニナに同意しはしない。真道は、準備した「アンタゴニクス」を用いてザシュニナに一撃を浴びせようとし、ザシュニナは、オリジナルの真道を同意のもとに異方に連れ出すことはできないことを確認し、その殺害を目論んでフレゴニクスの刃で襲い掛かる。
 結果として敗れ去ったのは真道である。「アンタゴニクス」の発明自体が、ザシュニナが品輪博士に示唆したものであり、それを用いて真道が襲い掛かってくることもザシュニナの予測の範囲のことだったのだ。
 そうして真道は敗れ去ったかにみえたその時、隔絶空間である筈のカドの内部に一台の自動車が滑り込んで来る。その中から姿を現したのは一人の女子高生である。
 何者か?と思う暇もなく、その女子高生はヤハクィザシュニナを圧倒する能力を示す。その少女は、真道ユキカ、真道幸路朗と徭沙羅花との間に生まれた娘であり、「ナノミスハイン」を用いて時空間操作行い、花森瞬が隔絶空間(外の時空より速く流れる時空)で育て上げた異方存在と人類とのハーフであり、異方存在より高次元の認識能力を有した生命体である。
 ユキカは瞬時にヤハクィザシュニナを圧倒し、膨張しつつあったカドを、そしてヤハクィザシュニナ自身をこの宇宙から消滅させてしまう。その時、ユキカは、消滅寸前のヤハクィザシュニナに向かって、こう託宣を下す。

ユキカ:私は人類と異方存在との特異点、あなたより高次元の存在なの。でもね、私は終わりではないの。ヤハクィザシュニナ、『進歩』って何かわかる?それは自分を途中と思う事よ。
ザシュニナ:途中...
ユキカ:ええ、人類も異方存在も、私もあなたも、みんな途中...
ザシュニナ:私は、途中か、真道、君と同じだな...

 そして、カドの消滅とともに、「ワム」「サンサ」「ナノミスハイン」の異方三種の神器の効力も消滅してしまう。結局人類社会はそれらの恩恵によって何ら変革を来すことなく、従前の状態に戻ってしまう。ただ、「異方」が存在するという集合的な確信のみを残して。
 これが「正解するカド」という物語が辿り着いた地点である。異方存在以上の高次性を示したユキカも何処へかと消え、その理知により異方への道筋を開いたかに見えた品輪彼方博士も姿を消す。

 ユキカが残した「進歩」の観念、「途中」であると思う事、「途中」であるという事は、そこに在ること、ハイデッガーの用語を用いるのであれば「現存在」を肯定していることにはなるかもしれないが、単純な「進歩」の肯定には結び付けられない、と私は思う。そこには論理の飛躍がある。
 「進歩」という言葉には、前方に進み歩むというベクトルが含意されている。しかし、前方という方向性は、必ずしも明瞭ではない。それは時間の不可逆性には則してはいるだろうが、必ずしもヒトの価値基準を示すものではない。故に、進歩していたつもりが退化していたということは往々にしてあり得るのだ。私たちの前方がどちらにあるのか、ヒトは、より注意深くあらねばならないのではないだろうか。

 それはともかく、私の目論みこそは大きく裏切ってくれはしたものの、本作は、これまでの日本のアニメーション作品にはなかった新たな地平を切り開いてみせてくれた作品であることに疑いはないし、非凡なる傑作であることは間違いない。とても面白かった。本作に携われた全てのスタッフに感謝したい。
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“新たな彼方へ、ここから行けるのだろうか?”~『正解するカド』


 TVアニメーション『正解するカド -KADO : The right answer』が面白い。

 『正解するカド』は東映アニメーション制作のオリジナルアニメーションで、監督は『翠星のガルガンティア』の村田和也、脚本はSF作家の野崎まど、プロデューサーは『楽園追放 -Expelled from Paradise-』の野口光一となっており、現在第7話までが放映されている。
 『正解するカド』が描き出そうとしているのは、本格SFの王道ともいえる、ファースト・コンタクトと、それに伴う人類進化の可能性であり、ここまで放送された部分での掴みは文句なしといったところだ。今のところ、物語の構造は、A.C.クラークの『幼年期の終わり』や『宇宙のランデヴー』と類似した構成となっている。

 2017年夏、羽田空港の上空から、一辺2,000mの巨大立方体が現れる。それは252人の乗った旅客機を飲みこむように羽田空港の滑走路上に接地する。その中から姿を現した、謎の存在・ヤハクィザシュニナと自称する人型の物体は人類との接触を試み始める。
 その媒介となるのが、偶然旅客機に乗り合わせた、日本政府外務省、国連政策課の首席事務官、真道幸路朗だ。真道は外務省にその人ありと知られたタフ・ネゴシエイターであり、ヤハクィザシュニナが提唱する“世界の推進”のために働くことになる。
 ヤハクィザシュニナとは、これまでに提示された情報によると、この宇宙の外、“異方”より来た多次元体であるが、その存在と意図は未だ謎に包まれている。しかし、ヤハクィザシュニナは、まず、異方から無限に電力を取り出すことができる装置、“ワム”を提示し、それを人類に供給することで、人類のエネルギー問題の全面的解決を図る。そして次に、人類に多次元的な存在感覚を可能にする装置、“サンサ”を提示し、人類の精神活動それ自体の変革を促す方向へと動き始める。
 ここまでが第7話までのあらすじである。

 ヤハクィザシュニナが人類に提示してみせるオーバー・テクノロジーの産物は、いわば楽園の果実であり、一見、それにより、個体存在の群体としての人類の欠如が埋められていく未来が志向されているように見えるが、果たしてそれらは人類の希望へと繋がっていくのだろうか。
 クラークの時代から一世代下った今、閉塞感に包まれた社会状況の中、未来に希望を描き出すのは、より困難さを増している。この間、SFは、テクノロジーの追及そのものがもたらす逆生産性やディストピアの数々を描き出してきた挙句、ジャンルとしてのSFそれ自体の衰退を閲してきた訳だが、ここにきて、それを覆すかのような勢いがみられる。本作もその有力なる一翼となるのであろうか。
 私から見ると、本作はいわば、クラーク等が提示してみせた「機械仕掛けの夢」(笠井潔)を正面から更新せんとする試みのように思える。本作は、ひとまず12話までの放映が予定されているようなので、作品総体の評価は完結を待たねば何ともいえないが、真に新たなる夢を紡ぎだせるかどうかについては、ここからの展開こそが正念場であろう。

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アニメーション「蒼き鋼のアルペジオ」と「艦隊これくしょん -艦これ-」


 TVアニメーション「蒼き鋼のアルペジオ-ARS NOVA-」は2013年10月から12月にかけて放映されたもので、現在放映されている劇場版の前半はこのTVシリーズの総集編となっており、後半には、TVシリーズ以降のオリジナルストーリーが展開されている。
 原作はArk Performanceで、2009年11月から少年画報社の「ヤングキングアワーズ」に連載中のコミックだが、例によって私は読んでいない。
 2039年、人類は温暖化に伴う急激な海面上昇により、地上での版図を大きく失い、それに呼応するかのように、霧を纏う謎の軍艦群「霧の艦隊」が世界各地の海洋に出現、見てくれは旧大日本帝国海軍の軍艦の外形そのままの軍艦を集めた「霧の艦隊」だが、搭載した超兵器で人類を攻撃し始めた。これに対して人類は持ちうる戦力を投入し、最終決戦「大海戦」に臨むも、「霧」の圧倒的な武力の前に脆くも敗れ去った、と設定されている。
 TVシリーズの物語は「大海戦」から7年が経過し、すべての海域、運搬経路を「霧の艦隊」によって封鎖され、政治経済は崩壊、人類社会が疲弊の一途をたどっていた日本を舞台に始まる。日本の海洋技術総合学院の士官候補生・千早群像は「霧の艦隊」の潜水艦「イ401」とそのメンタルモデル「イオナ」(童女のような外形をしている)と出会う。政府の制止を振り切り2人?で出奔し、イオナ=イ401の艦長となった千早群像は、数人の海洋技術総合学院の同窓生をクルーとして従え、人類社会の中で唯一「霧の艦隊」に対抗し得る戦力となっていく。
 日本国家から独立した千早群像とイ401のコンビは遊撃軍或いは傭兵のような立場で「霧の艦隊」と対峙することになるが、イ401の能力と群像の操艦により、次々と「霧の艦隊」の軍艦(ヒュウガ、ハルナ、キリシマ、タカオ等)を打ち破り、イオナとの接触によって、それらの敵対していた軍艦のメンタルモデル(いずれも若い女の子の外形をしている)に深刻な自己の存在への疑問を生じさせることで、彼女たちを味方に引き入れていく。
 そのような中、日本政府は、「霧の艦隊」を打ち破ることのできる唯一の兵器である「振動魚雷」を開発、群像とイ401にそれを量産可能な国力を保持していると考えられるアメリカまで輸送するよう依頼してくる。振動魚雷の弾頭を開発したのはデザイン・チャイルドの蒔絵(まるっきりの童女である)だが、群像は彼女を日本政府内部の暗闘からイ401に保護し、アメリカに向かうことになる。
 その行く手を阻もうと「霧の艦隊」のコンゴウとマヤ、そしてイ401の同型艦イ400とイ402が立ちふさがる。イ400とイ402によって、一度は群像が死の淵に立たされるが、その死に愕然とするイオナが自らを構成する全てのナノマテリアルを群像の生命維持に活用することで、群像を救い、ユニオンコアまで還元されてしまうが、そこに駆けつけたタカオがイオナと融合することで、イ401は新たな形態を得て復活する。
 さらにコンゴウはマヤを率いて、イ401を討ち果たそうとするが、復活したイオナの直接的な接触に心を開かれ、イオナと和解することになる。ハワイを経由してアメリカのサン・ディエゴへ向かおうとするイ401の前には、さらに霧のアメリカ太平洋方面艦隊が立ちふさがるが、イオナと和解した異形のコンゴウが放つ超重力砲の一撃で、全て一掃されてしまう。
 TVシリーズが描いていたのは、これらとの対決までであり、アメリカ到着後のストーリーは劇場版で語られることになった。
 劇場版では、イ401とその仲間たちがアメリカに振動魚雷を届け、それは量産されるが、その試し打ちで「霧の艦隊」のフレッチャー級の駆逐艦1隻を葬ったところで、千早群像の指示で蒔絵が仕込んだブラックボックスが働き、生産された全ての振動弾頭が機能を停止してしまう。
 千早群像は、振動弾頭はあくまでも抑止力としてその威力さえ示しておけば良いと考え、「霧の艦隊」との和解の途を探ろうとするが、そこに、「生徒会風紀委員長」を名乗るヒエイが立ちふさがる。そして、霧の艦隊の隠されていた意図が露になり、話は10月公開予定の続編「Cadenza」に引き継がれることになった。 

 一方、TVアニメ「艦隊これくしょん -艦これ-」はまだ始まったばかりである。原作は、角川ゲームスが開発し、DMM.comが配信しているブラウザゲーム。ゲーム内容は、大日本帝国海軍の艦艇を萌えキャラクターに擬人化した「艦娘」をゲーム中で集め、強化しながら敵と戦闘し勝利を目指すというもののようだが、こちらも例によって私はプレイしていない。
 TVアニメは、現時点で4話までの放映といったところで、まだ、ストーリー展開を言挙げするほどの物語は提示されていない。第1話の冒頭、榊原良子の重厚な声色で海軍五省が読み上げられたのにはオッと思わされたが、その後の展開はちょっと引いてしまうような萌えアニメである。ひとまずは艦娘たちが集う鎮守府に着任した新米特型駆逐艦「吹雪」ちゃんの成長物語、といった構えである。
 彼女たちは名前こそ「赤城」「加賀」等(航空母艦)、「長門」「陸奥」「金剛」「比叡」「霧島」「榛名」等(戦艦)、「川内」「神通」等(軽巡洋艦)、「睦月」「夕立」「如月」等(駆逐艦)といった旧帝国海軍の艦艇の名称を負わされているものの、彼女らの戦闘形態は足首にホバークラフトのようなエンジン(煙突?)を巻きつけ、手や背中、或いは大腿に主砲や魚雷発射管を背負い、まるで水上スキーでもやっているような形で水上を疾駆し戦うというもの。また、航空戦力は航空母艦が弓で放つ矢が艦上攻撃機や艦上爆撃機に変異して敵艦に攻撃を仕掛けている。
 「蒼き鋼のアルペジオ」では曲がりなりにも、軍艦の形状を忠実に再現する意志が働いていたが、「艦これ」では砲塔や魚雷発射管、航空甲板のキレッパシ等の形状こそオリジナルの形状を留めているが、主体はあくまでも「艦娘」である。
 これは正直、結構見るのがしんどい。ストーリーの展開は、ある程度太平洋戦争における海戦史を意識しているようだが、果たしてどうなることやら。

 さて、この二作品に共通しているのは、旧帝国海軍の軍艦と萌えをモチーフとした点にあるが、「蒼き鋼のアルペジオ」がその形状に対するフェティシズムを押し通しながらSF的なファースト・コンタクトのテーマを隠喩したストーリーを展開しており、かなり無理矢理な感じは否めないものの、軍艦をモチーフとしてそのストーリーを構成する必然性を感じなくもない。
 これに対して、「艦隊これくしょん -艦これ-」には、今のところ、なぜ軍艦なのか、といった必然性を見出せない。
 これには戦車道というお稽古事の中で、リアルな擬似戦車戦(戦車版サバイバルゲーム)を繰り広げる女の子たちを描いてスマッシュ・ヒットとなった「ガールズ&パンツァー」の柳の下のどじょうを狙う意図があるのかもしれないが、艦娘たちが投じられている世界はお遊びではなく、戦没もありえる世界と設定されており、明らかに「ガールズ&パンツァー」とはストーリーの志向が異なっている。
 現時点で評価できるものではないが、これはかなり痛い作品となりそうな予感がするのは私だけだろうか....

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PSYCHO-PASS③ 第二期TVシリーズ及び劇場版


 システムを追求した第二期TVシリーズVS人間とアクションを追及した劇場版といったところだろうか。
 勿論、TVと映画というフォーマットの違いもあるが、両者における一番の違いは「脚本」だろう。正確にいうと前者には、冲方丁というどちらかといえばSFプロパーと目される「シリーズ構成者」の下に熊谷純という脚本家を配して、第一期TVシリーズとの異化を図ろうとした製作側の意図がうかがえるのに対して、劇場版は第一期TVシリーズから高羽彩を除いた虚淵玄と深見真のコンビに回帰し、第一期TVシリーズの正統的な続編としての物語を紡いでいる。
 劇中の時系列は第一期TVシリーズが2112年4月~2113年4月の1年間、第二期TVシリーズが2114年10月20日~2115年初頭の約3ヶ月、劇場版は2116年の半ば、との設定になっている。
 だが、これらを通してみた印象は、第二期のストーリーの座りの悪さだ。そこでは、大まかにいうと、シビュラ・システムという免罪体質者の集合意識に対して鹿矛囲桐斗(かむいきりと)という集合人格を配置し、その対決を通して、シビュラが集合的PSYCHO-PASSを認識し、それを裁定する権能を獲得する過程が描かれていた訳だが、その帰結は全11話という中途半端な話数の中で生煮えの宙吊り状態とされてしまったような気がする。集合的PSYCHO-PASSの認識はシビュラに何をもたらしたのか?そこでシビュラ・システムは一つ進化の階梯を上昇したのではなかったのか?これらのストーリーはもっと練られて良かったはずだし、それを可能とするスタッフは揃っていたのではなかったのか。しかし、TVシリーズ第二期はあのような形で無理やり収束され、劇場版に引き継がれる。
 劇場版は、第二期の物語は無かったかのように相も変らぬシビュラ・システムと常守朱の関係性を描き出すところから始まる。登場人物や狙撃型ドミネーターといったギミック類は第二期TVシリーズを引き継いではいるが、第二期TVシリーズの物語の根幹は、なんらその爪痕を劇場版に与えていない。これは製作がほぼ同時並行で行われたという点に起因することでもあろうが、異なる脚本陣が物語を分裂させてしまった結果だろう。各シリーズごとの構成統括者はいても、シリーズを超えた統制者はいない。つまり、総監督の本広克行と監督の塩谷直義を責めるべきなのだろうが、この点はむしろマーケティングに走りすぎ、TVシリーズ第二期と劇場版の製作の同時並行という無理を押し進め、脚本陣を分業化してしまった製作サイドを批判しておきたい。
 そして劇場版は、いうなれば常守朱と狡噛慎也の再会を描くメロドラマだ。事件が起こり、異国を訪れ、戦いの中での刹那の再会を果たす。そう、このストーリーは殆ど押井守監督の「イノセンス」と相同のものだ。常守は倒置されたバトーであり、狡噛は倒置された草薙素子という訳だ。勿論、映画というフォーマットに応じて、戦車に戦闘機、戦闘ヘリ、挙句は戦闘ドローン(ロボット)による派手なドンパチは打ち上げてくれるが、その物語に新味はない。
 先日、柄谷行人が講演で「物語はいつも同じだ」といっていたが、この劇場版PSYCHO-PASSは正にその轍を踏んだものとなってしまっている。これをエンターテインメントだから、という言い訳は聞きたくない。


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UC

足かけ4年、原作の連載開始からだと7年以上の歳月を費やしてアニメーション「機動戦士ガンダムUC」が完結した。今日から上映&配信&Blu-ray劇場先行発売が開始されたepisode 7「虹の彼方に」によって、長きに及んだ物語に終止符が打たれた。まずは、ここまでの労をとられたすべてのスタッフに感謝の念を捧げたい。

 周知のように、小説「機動戦士ガンダムUC」は福井晴敏の作品だが、その舞台設定は富野由悠季が総監督及び原作者として手掛けてきた宇宙世紀シリーズを背景とするものであり、直接的には「逆襲のシャア」に続く物語となっている。
 もちろん、今回完結したアニメーションも、基本的にはその枠組みを離れるものではないが、小説版のストーリーとは随所に異なる部分をみせながら、根幹では富野から福井に受け継がれた「根っこ(マリーダがバナージとの戦闘時における全的交感を経てバナージに告げた言葉)」を貫きとおした作品となっている。それを象徴するのが過酷な現実に抗うバナージやミネバ等の若き登場人物たちが口にする、「それでも」という言葉だ。UCという作品はそこに製作者たちの巨大な感情の熱量を押し込んで成り立っている。「人間だけが神を持つ、その内なる可能性の獣。」それがユニコーン・ガンダムという人型に擬せられている。
 人が善意により、良かれと思って始めた行為が、人々の関係のなかで巨大な悪に変換されてしまう現実。人の当為が呼び寄せてしまう、理屈では越えられない何かがどうしようもなく現前してしまう逆説。祈りが呪いへと変質してしまう存在の不条理。「それでも」という言葉は、そこに差し向けられた祈りとして描かれているのだ。
 しかし、祈りでは変わらないのがこの世の現実であり、UCが描き出す宇宙世紀の歴史は、まさにそのような歴史の重みを引き受けざるを得ないものとして描かれている。それは私たちの現実の歴史を寓意したものだが、その結節点となっているのがフル・フロンタル大佐-赤い彗星の再来と目されているネオ・ジオン総帥として描かれている男だ。
 今日公開された「虹の彼方に」ではこのフル・フロンタルの描かれ方が小説版とは決定的に異なっている。小説の著者でアニメーションでもストーリー担当(脚本は、むとうやすゆき)となっている福井晴敏は、この結末で良かったのかと相当悩んだそうだが、幾度か見返してこれで良し、と得心するに至ったと述懐していた(バンダイチャンネルのメッセージ配信)。小説ではその呪いは終局に至るまで否定されるべき虚無として描かれていたが、アニメーションではそれは救済されるべきシャア・アズナブルの意志として描かれている。

 ついにシャアは昇天したのだ。

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東西南北人(中島久夫)
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