システムを追求した第二期TVシリーズVS人間とアクションを追及した劇場版といったところだろうか。
勿論、TVと映画というフォーマットの違いもあるが、両者における一番の違いは「脚本」だろう。正確にいうと前者には、冲方丁というどちらかといえばSFプロパーと目される「シリーズ構成者」の下に熊谷純という脚本家を配して、第一期TVシリーズとの異化を図ろうとした製作側の意図がうかがえるのに対して、劇場版は第一期TVシリーズから高羽彩を除いた虚淵玄と深見真のコンビに回帰し、第一期TVシリーズの正統的な続編としての物語を紡いでいる。
劇中の時系列は第一期TVシリーズが2112年4月~2113年4月の1年間、第二期TVシリーズが2114年10月20日~2115年初頭の約3ヶ月、劇場版は2116年の半ば、との設定になっている。
だが、これらを通してみた印象は、第二期のストーリーの座りの悪さだ。そこでは、大まかにいうと、シビュラ・システムという免罪体質者の集合意識に対して鹿矛囲桐斗(かむいきりと)という集合人格を配置し、その対決を通して、シビュラが集合的PSYCHO-PASSを認識し、それを裁定する権能を獲得する過程が描かれていた訳だが、その帰結は全11話という中途半端な話数の中で生煮えの宙吊り状態とされてしまったような気がする。集合的PSYCHO-PASSの認識はシビュラに何をもたらしたのか?そこでシビュラ・システムは一つ進化の階梯を上昇したのではなかったのか?これらのストーリーはもっと練られて良かったはずだし、それを可能とするスタッフは揃っていたのではなかったのか。しかし、TVシリーズ第二期はあのような形で無理やり収束され、劇場版に引き継がれる。
劇場版は、第二期の物語は無かったかのように相も変らぬシビュラ・システムと常守朱の関係性を描き出すところから始まる。登場人物や狙撃型ドミネーターといったギミック類は第二期TVシリーズを引き継いではいるが、第二期TVシリーズの物語の根幹は、なんらその爪痕を劇場版に与えていない。これは製作がほぼ同時並行で行われたという点に起因することでもあろうが、異なる脚本陣が物語を分裂させてしまった結果だろう。各シリーズごとの構成統括者はいても、シリーズを超えた統制者はいない。つまり、総監督の本広克行と監督の塩谷直義を責めるべきなのだろうが、この点はむしろマーケティングに走りすぎ、TVシリーズ第二期と劇場版の製作の同時並行という無理を押し進め、脚本陣を分業化してしまった製作サイドを批判しておきたい。
そして劇場版は、いうなれば常守朱と狡噛慎也の再会を描くメロドラマだ。事件が起こり、異国を訪れ、戦いの中での刹那の再会を果たす。そう、このストーリーは殆ど押井守監督の「イノセンス」と相同のものだ。常守は倒置されたバトーであり、狡噛は倒置された草薙素子という訳だ。勿論、映画というフォーマットに応じて、戦車に戦闘機、戦闘ヘリ、挙句は戦闘ドローン(ロボット)による派手なドンパチは打ち上げてくれるが、その物語に新味はない。
先日、柄谷行人が講演で「物語はいつも同じだ」といっていたが、この劇場版PSYCHO-PASSは正にその轍を踏んだものとなってしまっている。これをエンターテインメントだから、という言い訳は聞きたくない。
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