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東西南北舎

東西南北舎は東西南北人の活動に伴い生成したテクスト群の集積地である。「東西南北人」は福岡の儒者亀井南溟が秘蔵した細川林谷篆刻の銅印。南溟の死後、息子の亀井昭陽から、原古処、原釆蘋、土屋蕭海、長三洲へと伝わり、三洲の長男、長壽吉の手を経て現在は福岡県朝倉市の秋月郷土館に伝承されたもの。私の東西南北人は勝手な僭称であるが、願わくば、東西南北に憚ることのない庵舎とならんことを祈念してその名を流用させて頂いた。

   
カテゴリー「哲学・思想・文学」の記事一覧

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中村光夫『贋の偶像』―長田秋濤をめぐって Ⅲ


 『贋の偶像』における新井教授の探求は、秋濤の文学的な転機となった明治36年(1904年)に生じた、幾つかの事件をめぐり、その実生活へも探求の矛先が向けられていく。秋濤自身は自らの生活を記録したものは何も書き残していないようだが、明治30年代の前半については、硯友社やその周辺の文学者がかなりの記録を残しているようで、尾崎紅葉の『日記』や、江見水蔭の『自己中心明治文壇史』、徳田秋声の回想記『思ひ出るまゝ』や秋濤をモデルとした短編小説『別室』等が参照されて秋濤の生活史が点綴されている。
 この秋濤の生活史に関する探求は、新井教授のノートの中で「紅葉館とお絹」(237-266頁)と題された部分と、「紅葉の死」(266-278頁)と題された2つのくだりにまとめられている。ただし、この二つの秋濤の生活素描は、秋濤の没落のきっかけとなった明治36年の危機的状況に焦点をあてて記述されている。その明治36年は先述したように、秋濤の代表的な仕事とされている小説版『椿姫』の翻訳が刊行された年でもあるのだが、同時に「お絹との恋愛」「尾崎紅葉の死」「露探の嫌疑」という3つの事件が生じたことで、のっぴきならない境遇に陥ってしまった年でもあるというのだ。

 まず「紅葉館とお絹」で語られているのは秋濤の恋愛沙汰である。帰朝直後の明治26年(1893年)10月に秋濤は、時の岐阜県令である小崎利準の娘、仲子と結婚(入籍)している。この仲子は、なかなかの才女だったようで、自身も小説や絵を描いたりしていたらしい。そんな夫婦の仲は、当初相応に睦まじかったようだが、秋濤の文壇や梨園、政界や財界との関係は引きも切らず、夜毎の宴席、遊蕩は絶えることがなかったようである。新井教授は、秋濤の遊蕩について「彼は酒席なしでは、一日も暮らせぬほどであつたが、酒好きではなかつた。」(248頁)と記し、「もののけぢめや、限界を認めぬ男であつた。客と芸妓、客と女将が互いの立場を忘れるところまで行かなければ満足のできぬ性質であつた。薄情が職業である彼女らの真情にふれることを遊蕩の理想としてゐた。」(250頁)と規定している。
 そのような一種の放蕩哲学を身につけてしまった男が、やがて生涯を通じての恋愛事件を起こす。舞台は紅葉館という特殊な料亭であり、相手はその「紅葉館のお絹」として名高い「館妓」というべき女中である。ただし、このお絹という女中の立ち位置については、幾分かの注釈が必要なのだが、面倒くさいので類比的に語ると、お絹は当時のトップアイドルというべき評判の美人で、秋濤はそれをかなり強引にモノにしてしまったようである。新井教授の手記は、「お絹と秋濤との恋愛は、ちゃうど平幕の力士が横綱を倒したやうなもの」(258頁)と記している。そして、秋濤はお絹を、紅葉館から誘い出して自分の家に隠し、妻妾同居の生活を始めることになる。新井教授は、この行為によって秋濤は幾人かの友人を失うとともに、後に社会的に葬られる結果を招く露探事件の素因となる社会的反感を抱え込むことになった、とみている。
 その後、お絹は秋濤の手配で明治38年(1906年)に川上音二郎の一座に加わり、女優として活動することになるが、その翌年の夏、一座とともに大阪で興行中に胃を病んで倒れ、京都の親戚の家で療養中に肺結核を併発して死んでしまう。享年25歳だった。
 新井教授の手記は、この顛末を以下のように総括している。

++ 彼女が二十五歳で世を去つた理由の一半は秋濤にあらう。彼の恋は真剣であり、無邪気であつたに違ひないが、結果としては、子供がとらへた蝶を意味なく玩ぶやうな残酷さを周囲の者に感じさせる。
 彼自身が己惚れた通り、この恋愛は彼の生涯を通じて、成功した唯一の行為であつた。
 彼にはこれだけの能しかない、といふのは少し酷かも知れないが、さう云はれても仕方がない点で、これはやはり彼の大恋愛であつたといつてよいであらう。(『贋の偶像』265頁)
 
 新井教授が次に描き出すのは、秋濤の文学的同士として位置づけられる紅葉の死についてである。ただし、紅葉が硯友社で健筆を振るっている時分の二人の関係はそれほど親密なものではなかったようである。新井教授の手記は、その間の関係を次のように記している。

++ 紅葉にとつて、秋濤は遊びの仲間であると同時に、外国文学の知識を吸収すべき大切な先生であつた。その性癖が癇にさはつても、我慢しなければならぬ相手であつた。
 しかしかういふ隔てや遠慮は紅葉の側だけのもので、秋濤の方は、ずつと無邪気であり、無分別であつた。彼にとつて人との交際は相手を我慢するよりさせることであつた。(『贋の偶像』268頁)

 ところが、明治35年(1903年)の夏、紅葉は病を得て、明治22年(1890年)以来在籍した読売新聞社を馘首されるが、幸いに時を置かず、二六新報社に移ることになる。紅葉のような流行作家でも、病中の収入が途絶えるのは致命的なのが当時の社会状況の実態だが、この紅葉の二六新報社への入社は、秋濤の秋山定輔(二六新報社長)への口利きによるのではないか、と推測されている。
 また、紅葉の晩年における経済的な支えとなったものに『鐘楼守』の翻訳事業がある。これは、ヴィクトル・ユゴーNotre-Dame de Parisの翻訳で、秋濤の弟子の伊藤重治郎が下訳したものに紅葉が手を入れる予定で始められた仕事だったが、結局紅葉の遺著となったものである。また、実際に紅葉の手が入っているのは最初の部分のみで、紅葉の病が重くなった後は徳田秋声がその代役となっているようである。
 この仕事は、病床にある紅葉の経済的必要を満たすためのものと見られがちだが、当初は紅葉と秋濤に共通の文学的な夢が託されていたものであるとして、その完成なった『鐘楼守』に秋濤が付した序文等にその経緯が推察されている。

++ 明治三十五年の夏、紅葉は箱根塔の沢の宿に秋濤を訪ね、「詩酒献酬の間」に「現今文界の形勢索漠として甚だ称するに足るべきもの莫し、今泰西文豪著す所の一大雄篇を翻訳して之を社会に紹介せんとす。」といつた。秋濤は「其の甚だ我意を得たるものあるを悦び、倶に力を此事に致さんと約」したといふ。(『贋の偶像』272頁)

 このように、秋濤は晩年の紅葉を物心両面から献身的に支える役割を果たすことになる。また、この間、先にも示した秋濤の文学上の業績として代表作となる小説版『椿姫』の翻訳が行われている。が、明治36年の10月には紅葉が死んでしまう。そして『椿姫』が早稲大学出版部から刊行されたのは、この年の11月のことになる。
 新井教授はこのような経緯を踏まえ、この時紅葉死なずんば、の歴史のIFを提示している。

++ 紅葉の死は、彼と文壇との接触を断ち切つた。友人の死によつて挫折するやうな文学的野心など始めから大したことはないのかも知れないが、粘り気にとぼしい秋濤の性格として、紅葉の亡いあと、自然主義の勃興をむかへた文壇が、ひどく異質な、住みにくいものに思へたのは事実であつた。
 紅葉が生きてゐたとしても、自然主義はおこつたであらうし、その支配下の文壇で二人とも窮地に陥つたかも知れぬ。しかしそこから、かへつて彼等は新しい境地を開拓したかも知れなかつた。(『贋の偶像』266-267頁)

 つまり、この記述には、紅葉の死は、文学者秋濤にとって決定的な痛手であっただけでなく、紅葉の死に伴う硯友社文学の凋落は、その後の日本文学の展開にとって重要な何かを失わしめたのではないかという、批評家:中村光夫の文学史上の仮説が付託されている。例えば、『明治文学史』において、作家、尾崎紅葉の位置は次のように論じられている。

++ 紅葉の文学の本質は、逍遙と同じように、化政期の江戸文学に養われたものですが、逍遙より十歳ちかく年下なため、外国文学にたいしても、また国文の古典にたいしても柔軟な適応性をもち、よく新時代に即した作風を育てあげることができました。
 「小説神髄」の主張をもっともよく利用し、これを過不足なく実現したのは、紅葉たちの硯友社であったので、彼等はまず「神髄」の非功利性の主張を、みずからの戯作者気質の弁護に役立て、この新時代に存在権をみとめられた「美術」の内容を時代にふさわしいものにすることに努めました。新しい文明の根底をなす常識や風俗に抵触しないことがその第一の条件であったので、そのために、紅葉は外面は西鶴やときには源氏物語の文体を模して、艶麗な絵模様を描きながら、その内部の構成は、人物の性格にいたるまであくまで合理的で明治人が理解し、納得できるものとし、また描写なども上品でくどくないことを旨としました。(中略)
 硯友社の文学は、それ自身ひとつの過渡的な文学であったといえますが、この過渡期の文学は、その後の新時代の失ったものを旧時代からうけついで持っていた点で現代から再評価されてよいので、そのひとつに文体があります。紅葉は美妙と異なって言文一致の方向に進まず、「色懺悔」から「金色夜叉」まで、(口語文をも含めた)さまざまの文体の実験をくり返したのですが、彼にとって文体が大きな意味を持ったのは、小説の世界を想像力でつくりあげようとする意図と無関係ではないので、これは口語文による写生リアリズムだけを近代と考える自然主義の思想で批判すべきことではありません。(『明治文学史』108-109頁)

 だが、現実には、紅葉は若くして亡くなり(享年37歳)、硯友社は凋落し、やがて自然主義文学が勃興する。そこから先はもう『風俗小説論』の論旨にそのまま繋がっていくような話だ。『風俗小説論』では、花袋の『蒲団』に先行する作品として島崎藤村の『破戒』と、今では全く忘れられてしまった小栗風葉の『青春』とが論じられているが、「『青春』はいわばその完成と同時に古びて、作者とともに時代からおきさられ、『破戒』の意図の新しさは、作者自身によっても捨て去られたのです」(『風俗小説論』新潮文庫、9頁)と位置づけられている。いわば風葉の『青春』の位置は、『贋の偶像』が示す演劇界における秋濤の位置に近いのだが、中村光夫に『贋の偶像』を書かしめた秋濤による文学的な内圧は、風葉の『青春』によるそれより幾分強かったことを窺わせる。
 『風俗小説論』では、『青春』における後の風俗小説との類縁性が指摘され、それが当時の読者に熱狂的に受け入れられながら、何故あっという間に忘れ去られていったのか、その理由が、秋濤と同様に近代人としての自覚に欠けた風葉が、小手先でその種本であるツルゲーネフの『ルージン』(風葉が読んだのはおそらく二葉亭四迷訳の『ルーヂン』)をなでまわすことに終始し、自己批評を通じた「人間典型を創造する近代小説の発想法」に立ち至ることができなかった点に求められている。つまり、風葉が『ルージン』から受けた圧力と、秋濤がフランス演劇から受けた圧力は、ひとまず同型のものということができようが、中村光夫には、秋濤のそれの方が3年余の滞仏経験を経たものであったこともあり、いま少し深刻だったのではないか、と受け取られたのではなかろうか。だが、ここでこれ以上『風俗小説論』の論旨に分け入ることは差し控えよう。

 明治36年の秋濤の躓きには、今ひとつ露探事件というのがある。これはその年の8月、日本電報通信社(現在の電通の前身)の権藤震二(久留米藩出身の農本主義思想家権藤成卿の弟、東京日日新聞、ついで二六新報の新聞記者となり、やがて日本電報通信社を設立した。黒龍会の創立メンバーの一人でもある。)が、「電報通信」紙上で、秋濤をロシアのスパイ(露探)と断定したのに対して、秋濤が誹毀事件として告訴したのだが、審理の結果、被告の権藤は無罪の判決を受けた。その結果、権藤が秋濤に加えた「露探」という非難が公認された結果をもたらす。
 『贋の偶像』では、この事件の顛末については、佐川の手記における探索テーマとなっているが、この事件の裏には、伊藤博文の失脚を狙った桂太郎の策謀があり、それに両者のパトロンである三井三菱両財閥の対立も絡み、時の首相である桂の意を受けた警視総監大浦兼武が権藤を指揮していたのではないか、という秋濤会編の「秋濤伝」の仮説に言及している。そして、その推測は概ね正しいようだが、皮肉なことに桂の狙いは秋濤のような小物ではなく、秋山定輔で、秋濤はそれに巻き添えをくったに過ぎないのだが、この事件の打撃は、秋山ではなく、秋濤により大きく作用し、結局秋濤はその痛手から一生恢復することができなかった。しかし、佐川は、秋濤はこの時期を転機に、次第に政治や実業の方面に生き甲斐を見出していったのではないかと考えている。
 なお、このような「露探」の問題を日露戦争時代におけるメディアの問題として探ったものとして、奥武則の「「露探」の時代 : 日露戦争期のメディアと国民意識」(法政大学社会学部学会、社会志林、2004年12月)がある。そして、この奥武則の論文では、秋濤の露探疑惑は、日本で「露探」ということばが用いられた最初の例であることが論評されている。
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中村光夫『贋の偶像』―長田秋濤をめぐって Ⅱ


 さて、前項では、『贋の偶像』における新井教授のノートとして記された部分に随伴しながら、秋濤が日本に帰朝するまでの事績を概観してきたが、その新井教授のノートを読まされた弟子の佐川が、それはあまりに文学的な観方に偏しているとして、これに対して単なる「洋行がえりの伊達者」としての政治的・社会的秋濤像を対置してみせる。

++ 秋濤はなぜ文学者でなければならないのか。近代文学、近代劇に通じていなかったのを残念がられねばならないのか。彼が帰朝のすぐあとで演劇改革を企てたのは事実にしても、彼という存在をそれだけの男に限定してしまう必要はなかろう。
 彼は演劇改良の「熱心家」を自任しているが、明治二十八年に最初の創作戯曲「菊水」を刊行して間もなく、初代台湾総督樺山資紀に随って台湾接収に行ったり、翌二十九年には伊藤博文の推薦で帝国ホテルの支配人になったこともある。
 さらに明治三十年にはビクトリア女王即位六十年祭に参列する伊藤博文に随って、アメリカ、カナダ経由で英国にわたり、大陸の諸都市を歴訪して一年近く日本を留守にしている。(中略)
 彼はわずか一二年の劇界との接触で、革新の事業に失望して、政治に方向転換を企てたのであろうか。
 それほど彼は意気地なしなのか。先生の解釈は、共感を土台にしているように見えるが、実は相手をむりやりに自分の好みに合わせて裁断しようとする感傷的な、息苦しい、偏頗な性質のものだ。(『贋の偶像』135-136頁)

 このような新井教授と佐川の意見の対立は、この後『贋の偶像』で、秋濤の文士的側面と国士的側面として、ある程度並走する形で追求されていく。前者における焦点は尾崎紅葉との関係に置かれ、後者の焦点は伊藤博文との関係に置かれている。
 
 だが、その対立関係に入る前に、まずは秋濤の文学的業績がいかなるものであったのかを瞥見しておく必要があろう。
 なお、秋濤関係の研究論文には、少し古いものになるが、弘前大学の伊狩章に「長田秋濤研究」弘前大学人文社会、10、956、90‐111頁があり、これはネットで閲覧可能である。また、これ以外に、、川西良三・藤木喜一郎「仏文学者長田秋濤評伝(第一部)(第二部)」(『独仏文学研究』(関西学院大学文学部独文学科研究室)2号(1959 年)31-41 頁、3号(1960 年)61-75 頁)、布施明子「長田秋濤評伝」(学苑、光葉会、(通巻239)1960.01)、秋山勇造「長田秋濤--生涯と業績」(人文研究(132)、65-90頁、 1998-03、神奈川大学人文学会)があるようだが、これらはネット上での閲覧はできない。しかし、伊狩氏の「長田秋濤研究」をみるだけでも、『贋の偶像』における秋濤の文学的業績の紹介は必ずしも十分なものとはなっていないことがわかる。
 しかし、ここではまず『贋の偶像』における新井教授のノートの記述に従いながら秋濤の文学的生涯を辿ってみよう。作中の新井教授のノートには、途中、幾つかサブタイトルが付された箇所があるが、それを目次ふうに示すと以下のようになる。

 ①白百合 163~182頁
 ②退屈な世界 182~195頁
 ③三恐悦 196~210頁

 番号は便宜上付けたものだが、①は秋濤が創刊した同人誌のタイトルであり、②はエドゥアール・パイユロン(Édouard Pailleron)の戯曲のタイトル(Le Monde où l'on s'ennuie)、③はそれを秋濤が翻案して執筆した戯曲のタイトルである。
 ①の同人誌「白百合」は、明治29年(1897年)に創刊され、同人には黒田清輝久米桂一郎といった洋画家2名が名を連ねてもいる。
 ただし、白百合の発刊に至る前に秋濤の文学的業績には多少の前史がある。
 まず、翻訳の仕事では、留学前の明治20年(1888年)に 『脚本ハ仏国世界ハ日本:当世二人女婿 』(鳳文館)がある。これは仏人ドクトル・シュープレー「佛国文範」中の戯曲と紹介されているが、どうやらシェークスピアの『リア王』に基づくもののようで、秋濤原訳、依田学海戯編と銘打たれている。
 次に『菊水』という、劇作家としての秋濤の処女作がある。『菊水』は秋濤がまだパリに滞在している明治26-27年頃に書かれたもののようで、明治27年10月から報知新聞に連載された。その筋は、楠木正成の小姓である竹童丸が語る、湊川合戦における正成の死、その竹童丸と許婚の腰元露草の殉死、足利尊氏がもたらした正成の首級と正行母子との対面を描いた二幕の短い戯曲だが、これが上演もされないまま不評を蒙り失敗に終わっている。
 失敗の原因は無論『菊水』の出来そのものにもあるが、23歳の若者の処女作にしては必ずしも愚作という訳ではなく、新井教授は「むろん傑作ではないにしろ、正行の母を軸として、楠公父子の事跡を描いた脚本として、格別の波瀾もない代りにつくりすぎた厭味もなく、舞台の構成や会話のやりとりに、作者の劇作家としての才がたしかにうかがへるのは「花まつみね(=坪内逍遥)」もみとめてゐる。」(148頁)と記している。問題は発表の時期にあり、これを発表する前に、秋濤は演劇改良家として名を売ってそれなりに有名になり、しかもそのポジションにおいて俳優や劇評家等の梨園に関わる人々の悪口をさんざん書き連ねていた。ここでは、そのようなタイミングで『菊水』のような旧作を発表してしまった秋濤の迂闊さが指摘されている。当時、彼が俳優の中で芸術家として認めていたのは、『菊水』の校閲を依頼した団十郎(九代目)ひとりだったようだが、それとても秋濤からみると父の代から家に出入りする芸人の一人に過ぎなかったのであり、この時代、その社会的地位はまだまだ低く、父親が国家の官吏である秋濤の家柄とは相当の懸隔があったことが窺われる。
 『菊水』の今ひとつの失敗の原因は、秋濤には最大の味方と思われていた坪内逍遙から蒙った悪評である。もともと逍遙には、依田学海と共に旧劇の全否定や劇評家攻撃を繰り広げる秋濤に同調しない部分があったが、先に示した早稲田文学の「演劇改革談」が評判を呼びすぎ、出席者4名が「演劇改良同盟軍」などと呼ばれるようになると、逍遙は事々にそれらの言説に反駁するようになる。そしてこの頃、逍遙は自らの演劇論の実践として、『桐一葉』の発表を進めていた(早稲田文学に連載)。そこに現れたフランス帰りの秋濤の作品が『菊水』だったのだが、新井教授はこの酷評の理由を「産婦の神経であらゆるものを自作中心に考へるやうになつたとしても自然であろう」(162頁)と推定している。
 その他、伊狩章「長田秋濤研究」等によると、以下の業績がみられる。

 ●「佛國演劇現况」(早稲田文学60号、明治27年)
 ●「佛國喜劇」(早稲田文学61号、明治27年)
 ●「佛國演劇談(オペラ座)」(早稲田文学62号、明治27年)

 以上の三作は先に触れた、新井教授が紹介しているフランス演劇の紹介記事である。その他の「白百合」以前の著作としては、以下が紹介されている。

 ● ミッシェル・ルヺン「日本人と仏文学との関係」の翻訳
  (早稲田文学63号、明治27年)
 ●「仏都巴里」~西欧案内記(太陽、明治28年5月)
 ●「花吹雪」~端歌(文芸倶楽部、明治28年5月)
 ●「文學上の臺灣」(太陽、明治28年9月)
 ●「日本演劇の弊風」(早稲田文学、明治29年)
 ●「仏蘭西音楽」(めざまし草、明治29年8月)

 さて、台湾から戻った秋濤は、帝国ホテルの支配人となるが、その支配人をしている間に同人誌「白百合」を発刊する。白百合とはブルボン王朝の紋章であり、「維新以来革命のイメージと結びついた政治的側面から捕へられてきたフランス文化の保守的芸術的側面を紹介することを意図して発刊されたもので、その点から見れば画期的な意味を持つてゐた。」(175頁)が、それは二号しか続かなかった。内容的には結構充実したものだったようで、秋濤自身は、この創刊号にデュマ・フィスの『椿姫』(La Dame aux camelias)の戯曲版、冒頭部分の翻訳を発表している。後に秋濤は小説版を全訳し、明治36年5月に早稲田大学出版部から刊行されているが、今ではその仕事が彼の代表作とされている。なお、この「椿姫」という邦題も秋濤の手になるもののようである(秋濤の小説版『椿姫』の翻訳については、静岡大学の今野喜和人氏に「長田秋濤訳『椿姫』における恋愛表現をめぐって」翻訳の文化/文化の翻訳. 6別冊, p. 11-20という研究がある)。
 新井教授のノートでは「かりに二三年この雑誌が続いてゐたら、フランスの古典劇は、自然主義文学より、先に我国につたへられ、明治の作家たちが「大陸文学」にたいして持つたイメージは別物になつたかも知れない。」(181頁)と、それが打ち上げ花火のように発刊されながら、瞬く間に廃刊されたことを惜しんでいるが、そう記された直後に、次のような秋濤に対する憤懣がぶちまけられている。

++ いまさらこんなことを言ふのは滑稽かも知れないが、実際、調べれば調べるほど、彼には愛想がつきてくる。自分が何をしたいのか、何をすべきなのか、考へようともせず、意思と粘りがどこにもない。これでは、文学者であることが、そのまま改革者たることを意味した明治時代に文学などやれるわけはない。しかも当人は熱心な「改良家」を自任してゐる。
 しかし文学の世界がむかしもいまも少数の成功者と多数の失敗者から成り立つてゐる以上、秋濤を自分にまつたく無縁な存在と言ひきれる人はよほど幸福な例外であらう。
 彼は、文学者として大成できなかつた代りに、意思に筋ばつた作家たちには見られぬ軟かな心の持主であり、作品をのこす代りに、思ひに邪のない行動で最後まで人々をひきつけた。
 近代人のひとりとして、彼も自分にたいする誤解からはじめる。改革者として出発してから、運命に失敗者として選ばれるまで、彼はいくつか、事志とたがふ場面に遭遇する。
 そのなかで「白百合」の廃刊は、他人がもたらす不運によるところがもつとも少ない事件であつた。彼自身の心がけの悪さも、むろん運命の一部だらう。しかし僕のやうな凡人は、彼の人となりを愛するからこそ、それを責めずにはゐられない。(『贋の偶像』181-182頁)

 ②の「退屈な世界」は前記したようにパイユロンの戯曲で、1881年(明治14年)にコメディ・フランセーズで初演され、1892年(明治25年)に再演されている。秋濤は、この再演を観たようで、その印象を「仏国演劇現況」で「喜劇」の典型として紹介しているようだ。
 しかし、『贋の偶像』の「退屈な世界」の項は批評文形式ではなく、新井教授と柳かね子の秋濤をめぐるお喋りが記されており、その会話をきっかけにやがて二人は愛人関係へと縺れていく。
 パイユロンの『退屈な世界』は、新井教授により「モリエール以来の、サロンの似而非才女たちの衒学趣味への諷刺と、マリヴォ風の恋愛と誤解の葛藤とをなひまぜたもので、いはばフランス喜劇の伝統的な水脈を二つ併合した作品」(197頁)と紹介されている。秋濤は、これを素材として翻案劇『三恐悦』を仕立てあげた訳だが、その執筆は台湾から戻り、博文と共に出かけるまでの間になされたのではないかと推測されている。
 なお、伊狩章「長田秋濤研究」によると、秋濤は『三恐悦』発表の前に、自作の戯曲『恋の像』(大日本、明治31年1月)を発表しているようだが、これは幸田露伴の「風流仏」をそのまま脚色したような作品だそうである。
 明治31年(1900年)7月、川上音二郎との間に『三恐悦』上演の話が持ち上がるが、その時、秋濤の原稿は出来上がっていたようだ。新井教授は『三恐悦』の出来を、フランス喜劇の面貌をかなりよく伝えてはいるが、秋濤が狙いとした当時の日本の政界を諷刺するという点では現実性に乏しい作となっており、その点に本作の弱点があるとしながらも、人物の性格と配置はほぼ原作を踏襲することにより個々の性格は明確に描き分けられ、適切な演出を得ることができれば、その短所を補うこともできた筈だと論評している。
 8月15日、『三恐悦』は歌舞伎座で川上一座による上演の運びとなるが、この上演も、結果は無残な失敗に終わる。この時、川上の一座は混乱の渦中にあり、上演に至るまでに、配役は決まらず、碌な稽古もできず、衣装や舞台装置すら整わない始末である。これには川上一座の混乱とともに、当時の新派劇において脚本は筋立てを示す程度で、台詞は専ら俳優の即興に頼る口立芝居が多かったという事情もあるようだが、ともかく秋濤の奔走により何とか幕は上がるものの、「「俳優は一人として言語を暗ぜず各自勝手次第の事を云ふ」といふ有様であり、その上、戯曲自体も、出演俳優に総花をあたへるために広岡柳香によつて「作者たる余をして茫然たらしむる程冗長に」加筆されてゐるため「対話の局を結ぶこと甚だ長く終に大向ふの沸騰を来たし非常の妨害を蒙りて余儀なく中止する」といふ破局を招来した。」(『贋の偶像』207頁)
 開演中に観客が騒ぎ立てたために途中で幕を降ろしてしまうという前代未聞の椿事を出来するに至った訳である。この初日の醜態を受けて、歌舞伎座の重役たちは徹夜で会議を行い、一旦は中止を決める。ところが同じ夜、秋濤は楽屋で俳優たちと対策を協議し、これも徹夜で台本の修正を行う。おそらく柳香の加筆した部分を削除し、原型に近いものとしたようだが、この報を受け、秋濤は中止に同意しようとする。ところが俳優たちはこの決定に応ぜず、続演を主張。結果として再撤回となり16日、17日の2日間は混乱もなく上演され、喝采も博したようだ。しかし、歌舞伎座側は18日に重役会議で決めたことだとして、再度の中止を求めてくる。秋濤はこれを伝えた使者を難詰するが、事態は覆らず、ついに二度目の中止に至るのである。新井教授はこの稿を次のように結んでいる。
 
++ 「三恐悦」の上演とその中止は、それ自身がひとつの喜劇であつた。しかし喜劇を舞台にかけるつもりで、自からグロテスクな笑劇を演じてしまつたのは、彼自身の内面からみればやはりひとつの悲劇であらう。
 「白百合」の廃刊と反対に、この失敗は彼自身の責任が軽いもののひとつであらう。しかしそれは彼が内心もつとも大切に育くんできた情熱を殺してしまつた。(『贋の偶像』210頁)

 もう一つ、この頃の秋濤の仕事として、フランソワ・コッペ(François Coppée)の戯曲、Pour la couronne, drame en cinq actes, en vers, 1895 の翻訳がある。これは『王冠』と題されて、明治31年に東京日日新聞に連載され、翌年春陽堂から単行本として刊行されている。全訳ではなく抄訳のようだが、翻案ではなく翻訳として出版され、依田学海の校訂を得ている。『王冠』はオスマン・トルコの侵略を受けつつあるバルカン国(東ローマ帝国=ヴィザンツか?)を舞台に、父子の対立と国家への忠誠を機軸とした古典劇ふうの筋立てが展開される悲劇だが、その新聞連載はまさに『三恐悦』の上演をまたぐ時期であり、コッペの原作と比較対象した佐川によると、そこに『三恐悦』上演中止のショックが表れているという。

++ 「『王冠』はむろん、この『王冠のために』の抄訳ですけど、はじめの二幕はわりに原作に忠実なんです。筆の勢いで台詞をつけたしたような部分はあっても、削ったところはほとんどなくて、どうするんだろうと思うくらいですけど、三幕から、急に筋を運ぶだけで、思い切った削除をしています。単行本の頁数で云うと、第二幕までが百二頁かかっていて、第三幕から第五幕までが六十一頁しかないんです。原作は後半の方が前半より長いから、あとの方はまえの半分以下に刈りこんでしまったことになります。なんでこんなことをしたのか、わからなかったのですが、今度先生の論文で、一寸思いついて調べて見ると、第三幕が八月十七日から載っています。その原稿を三四日前に入れたとすると、ちょうど『三恐悦』中止と時期が一致するんです。」(『贋の偶像』213頁)

 このように、『三恐悦』の上演中止は、文学者秋濤の演劇への情熱を決定的に削ぎ落とす契機となってしまったようである。
 ただし、この『三恐悦』失敗以後も、秋濤は文学から撤退したわけではない。期間を明治35年(1903年)までに限っても、伊狩章「長田秋濤研究」には『贋の偶像』に殆ど記載のない以下の仕事が紹介されている。

 ●グレウヰル女史の小説「浮れ蝶」の翻訳(文芸倶楽部、明治32年2月)
 ●『恋之那破烈翁』の翻訳出版(春陽堂、明治32年7月)
 ●ポー「モルグ街の殺人」=「猩々怪」の翻訳
  (文芸倶楽部、明治32年10月)
 ●Eugène Scribeの悲劇『怨』の翻訳(読売新聞、明治32年11-12月)
  原作は Adrienne Lecouvreur, drame, 1849、刊行は隆文館、明治39年7月
 ●「大逆」の翻訳(東京日日新聞、明治33年5月)
 ●「血髑髏」の翻訳:講演速記(新小説、明治33年5月)
 ●「百万年後の地球」(太陽、明治33年6月)
 ●「嫉妬」の翻訳(新小説、明治33年9月)
  原作はFrançois Coppée の Contes en prose, 1882 中の一編か?
 ●「愛の花束」の翻訳(文芸倶楽部、明治33年9月)
  原作はやはり François Coppée の Contes en prose, 1882 中の一編か?
 ●「匕首」の翻訳(読売新聞、明治33年9-11月)
  原作は Jean Richepin の Le Chemineau, 1897
 ●『祖国』の翻訳(刊行は隆文館、明治39年8月)
  原作は Victorien Sardou の Patrie !, drame en cinq actes, 1869

 また、国会図書館のデータから、この前後の仕事として以下の仕事が拾える。

 ●ヴィクトル・メーギヤン『西伯利亜蒙古旅行 : 巴黎至北京』の翻訳
  (春陽堂、明治33年6月)
 ●『世界一不思議』の翻訳(春陽堂、明治33年6月)
 ●『金剛石の原野』の翻訳(春陽堂、明治33年6月)
 ●『北氷洋』の翻訳(春陽堂、明治33年7月)
 ●『サハラ大沙漠』の翻訳(春陽堂、明治33年8月)
 ●『ヒマラヤ山探検』の翻訳(春陽堂、明治33年8月)
 ●『西部亜弗利加探険』の翻訳(春陽堂、明治33年9月)

 以上は、十二大奇書の翻訳事業の企画として、春陽堂から刊行されたもののようである。当初の目録には、他に『メガミ湖探検』『極北岬』『墨西哥旅行』『印度紀行』『パナマ紀行』が見られるが、それらは出版されることなく終ったようである。他にこの時期の翻訳、著作では以下が確認できる。
 
 ●「那翁の最期 」(少年世界、6(5),(7)、明治33年)
 ●『寒牡丹』の翻訳、尾崎紅葉との共訳(春陽堂、明治34年2月)
 ●ボッカチオ『デカメロン』=『西洋花こよみ』の翻訳
  (文禄堂、明治35年7月)
 ●『新赤毛布 : 洋行奇談』(文禄堂、明治35年5月)

 上記に示した秋濤の仕事については、「匕首」を例外として、殆ど『贋の偶像』で触れられていない。しかも、以上は日露戦争開戦(明治36年:1904年2月)前の時期に限ったものである。仕事の質はともかく、『三恐悦』の手痛い失敗を経てもなお、この頃までの秋濤は非常に多くの仕事をこなしていることがわかる。
 だが、明くる明治36年は、秋濤にとって大きな転機となった年である。次回は再び『贋の偶像』に即しながら、その顛末を見ていこう。

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中村光夫『贋の偶像』―長田秋濤をめぐって Ⅰ

長田秋濤は完全に忘れられている。
 
 このように書き出される『贋の偶像』(筑摩書房、1967年6月)は第20回野間文芸賞を受賞した中村光夫の小説だが、長田秋濤は、明治時代に活動した実在のフランス文学者、劇作家、翻訳家である。ただし晩年には、伊藤博文との繋がりを利用して、政治的な南進論を提唱し、シンガポールを根拠地としてジョホール国でゴム園を経営したりもしている。なお、中村光夫には『明治文学史』(筑摩書房、1963年8月)の著作もあるが、その中には長田秋濤の名はみられない。

 『贋の偶像』は、この長田秋濤を研究する「新井教授のノート(旧かなづかいの文体で書かれている)」と、その弟子の「大学院生佐川の手記(新かなづかいの文体で書かれている)」が、ほぼ交互に並べられた体裁をとって展開されている。小説の形式を借りた一種の長田秋濤論になっているのだが(この点については小谷野敦がアマゾンの書評で、評論として書かなかったことを腐しているが、寧ろ、そのおかげで『贋の偶像』は、壮年期(56歳)の中村光夫の「です・ます体」以外の評論文-あくまでも小説の作中人物が認めた手記としてだが-が読める珍品となっている)、長田秋濤はまさに忘れ去られた人物であり、しかも、文学的に見た場合、失敗者として位置づけるしかないような存在のようである。実際、新井教授のノートが描き出す秋濤像は、失敗した文学者(文芸者)という像に拘泥したものとなっており、その形姿の叙述を通して描き出されているのは、中村光夫が『風俗小説論』(1950年)以下の批評で展開している、日本の自然主義文学批判、私小説批判の補遺というべきものになっている。秋濤の文学的活動期の中心は、日本文学における自然主義の勃興(即ち田山花袋の『蒲団』が刊行された明治40年(1907年))の直前の時期であり、尾崎紅葉に代表されるような江戸期の戯作と西洋文学を範とする未分化なロマンティシズムが主流文学の地位を占めていた時代にあたるが、秋濤の文学的生涯は、半ば紅葉と心中する形で、この日本的自然主義の勃興を前にその波濤の中に埋もれていく。

 小説『贋の偶像』の現在時制における主要な登場人物は、新井教授、大学院生佐川と、新井教授の妻、新井教授の大学の同僚で国語学者の大谷博士、そして長田秋濤の姪として登場する柳かね子の5人であり、小説のプロットは、新井教授を結節点として、これら5人の登場人物間における妻・夫・愛人、研究者・その弟子・その同僚、そして秋濤を論じる2人の研究者と秋濤の姪といった幾つかの三角関係が交錯する形で提示され、愛と文学の不毛性と不可能性がライトモチーフとなって描かれているが、その効果は限定的なものに留まっている。
 そういった意味では、やはり本書の眼目は、断片的に提示されている長田秋濤という人物の姿だろう。そして、そこには今一人の登場人物として生前の秋濤を知る生き証人が配されている。それが「かつての秋濤追悼のために結成された秋濤会の世話人であり、いまも秋濤の弟子と名乗る安川老人」(『贋の偶像』8頁)である。ちなみに、この安川老人のモデルは、小田光雄氏のブログ「古本夜話」によると、安谷寛一というアナーキズム系のフランス語翻訳者、出版人のようである。

 新井教授や、その弟子である佐川の手記という形で論及される長田秋濤の人物像については先に少し触れたが、その生涯は、本書でみる限り、存外に興味深いものとなっている。本書において秋濤は、まず、フランスからの新帰朝者で、明治文壇の寵児と目された人物として華々しく登場する。

 だが、秋濤の来歴を語るには、まず秋濤の父、長田銈太郎に触れておく必要があるだろう。長田銈太郎の生涯については、大学院生佐川の「長田銈太郎に関する覚書」として、銈太郎の墓碑銘の発見をきっかけとした佐川の調査によって明らかにされた事項として紹介されている。それによると、長田銈太郎は嘉永二年(1849年)徳川家の直参旗本の家に生まれ、幼にして江戸の開成所にフランス語を学び、慶応元年(1865年)頃、フランスと接近する幕府の若き通弁となったようである。しかし、早晩幕府は瓦解し、明治初年の銈太郎は静岡に引退するが、やがて、その才を新政府に認められた銈太郎は、明治4年(1871年:廃藩置県や岩倉使節団出発の年であり、普仏戦争とパリ・コミューンの年でもある)、兵部省からアメリカに派遣されることになる。なお、秋濤(忠一)はこの明治4年に生まれている。
 さらに銈太郎は、翌年には外務三等書記官としてパリの日本公使館に勤務することになる。銈太郎はその後明治7年に帰朝、明治9年には二等書記官としてロシアに赴任、11年には帰国し、宮内書記官兼太政官格大書記官として明治天皇の側近となる。やがて、明治19年には山県有朋の計らいで内務省参事官に転進、明治22年(1889年)には愛知県知事の内命を受けていたが、赴任を前に事故で急死してまう、享年41歳だった。
 なお中村光夫には、成島柳北の日記として仮構された『パリ・明治五年』という短編小説があるが(『短編集 虚実』に所収、新潮社、昭和45年(1970年)5月、初出は昭和43-44年頃の新潮社の雑誌『波』)、これに若き日の長田銈太郎が柳北の眼を通す形で登場している。『柳橋新誌』の著者として知られる柳北は旧幕府の大身だが、瓦壊後は故あって平民籍となり、東本願寺法主の大谷光瑩現如の欧州視察随行員として明治5年(1872年)からその翌年にかけて欧米を廻っていて、このときの紀行文が『航西日乗』(『明治文化全集 16巻』吉野作造編、日本評論社、1927-1930年に所収)としてまとめられている。中村の『パリ・明治五年』は、これを下敷きにパリ滞在時の柳北の動静を、現代文の日記形式として、その内面を大胆に綴ったものである。

 秋濤は、この父の遺志と本人の希望により、法学・政治学専攻の留学生として、最初英国のケンブリッジを訪れることになる。しかし、法律や政治には全く関心が持てなかったようで、ケンブリッジではすぐに喧嘩沙汰を引き起こして自主退学、日本の後見人(平山成信大森鍾一)を動かし、外務省から官費の法律留学生の地位を得ると、パリのソルボンヌ大学に籍をおく。
 そのようにしてパリに居を構えた秋濤は、彼の生涯を決定するフランスの演劇と出会うことになる。新井教授のノートにおいて、秋濤のパリ滞在は1889-90年から1893-4年と推定されているが、当時のフランスの演劇界の状況は次のように論じられている。

++ 一八九〇年から数年間のフランス演劇は、帝政時代の俗化と沈滞、それにつづく普仏戦争の痛手からやうやく立ち直つて、充実した頽廃の時期をむかへつつあつた。
 世紀末の行詰りと、転換の必要は、他の文化の諸部門と同様に感じられてゐたが、その現状のままでも、演劇の魅力は、しつかり大衆を捕へてゐた。
 第二帝政時代を支配したオージエ、デュマの社会劇、問題劇、ラビッシュ、メイヤック、アレヴィの軽喜劇などは依然上演されてゐたが、帝政末期の皮相な演劇娯楽化の風潮は、新しい共和国の誕生とともに払拭され、抒情的な演劇がさかんに上演される反面、楽屋の風儀も、帝政時代にくらべれば粛清され、演劇は敗戦の荒廃から立ち直らうとする社会の真面目な関心の対象たる地位をとりかへしてゐた。
 演劇において、芸術が市民生活の一部に融けこむといふ奇蹟が、ブルジョワ社会の爛熟によつて可能になつた時代であつた。一般的に云つて、芸術性と社会性との調和が、フランス演劇の(ひいてはフランス文学全体の)特色であるとすれば、一八九〇年代は、フランス演劇が、もつともフランス的であり得た時期のひとつであつた。(中略)
 ただこの時期に生産された演劇が、十七世紀の古典劇、あるひは十九世紀初頭のロマンチック時代にくらべて遜色がないかといふと、残念ながら、さうは行かないやうである。ちやうど、十九世紀末のヨーロッパの建築界を風靡した擬古典的様式が、結局、古代やルネッサンス建築の模造品の域をでなかつたやうに、ベック、キュレル、リュシパン、パイユロン等の劇は、智的な構成と、時勢に適切な内容によつて、ラテン民族の才華の発露を全ヨーロッパに迎へられたが、真の天才の作品とちがつて、時の流れに抗する力はもたなかつた。彼らの劇は劇場における看衆を支配する力を持つが、個々の看衆の心を動かす力を持たず、韻文で書かれた場合にも、劇と文学をつなぐ本質的な詩を欠いて居り、いはば型を踏襲してつくられた模作劇であつた。しかし、一国の、またはある時代の演劇の流れの大部分は、かういふ作品で形成されるのが通例であらう。(『贋の偶像』100-102頁)

 このようなパリの演劇の洗礼を浴び、凡そ3年間の滞在を経て帰国した秋濤は、明治27年(1894年、日清戦争開戦の年に当たる)に、坪内逍遙が創刊した早稲田文学にフランス演劇の紹介文を発表する。秋濤23歳のこの仕事は、新井教授のノートにおいて「これは同誌の第六十号から六十二号まで、連続三回にわたつて掲載された、質量ともに堂々たる紹介文で、これだけのフランス演劇にかんするまとまつた知識をあたへてくれる文章は、その後明治時代を通じてみられなかつたのではなかろうか。」(『贋の偶像』21頁)と評価され、秋濤のフランス文学研究の意義は、次のように論述されている。

++ 彼のフランス文学研究とはつまり演劇の研究であつたが、ここで大切なのは、彼がコメディ・フランセーズの「内幕」にどれほど通じてゐたかではなく、彼がフランス演劇の文学性、あるひは演劇のフランス文学において占める地位を、はつきり把握してゐたことである。演劇が文学的内容を持つとは、結局それが知識階級の生活と溶けあつてゐることであり、ベルグソンの「笑」におけるモリエールのやうに、哲学者が思索の材料に演劇をそのまま使へることである。フランス人は思索の態度が演劇的であるせゐか、演劇は哲学的であり、文学のなかに演劇がしめる比重は、他のヨーロッパ諸国に比しても大きい。
 秋濤が若い肌で感じてきたのは、このフランス演劇の社会性及び思想性であつた。心の一部で馬鹿馬鹿しいと思はずに舞台に感動できる演劇、さうしたものに初めて接して彼は熱狂した。(『贋の偶像』24-25頁)

 秋濤はこのフランス演劇紹介記事によって逍遙に認められる形となり、早稲田文学第六十二号に掲載される「演劇改革談」と題された、坪内逍遙、依田学海山田美妙との座談会に参加することになる。そして、この座談会は世評をよび、秋濤は学海の後継たる演劇改革論者として注目を集める。このような秋濤を捉えていた熱情が「一八九〇年代のパリの土壌に咲いた演劇を、明治二十年代の東京に移さうとした」(『贋の偶像』100頁)ことであるが、新井教授のノートは、その秋濤の試みが無謀であることを予断しつつも、単に法律や政治のような堅苦しいものを苦手とする道楽者が、3年間のパリ滞在とそこで出会った演劇への熱中を経て、その道楽半分の気持ちを、やがて真剣な熱情へと変えていった道筋を探っていく。
 帰朝後の秋濤のフランス演劇の紹介は、やがて、幾つかの戯曲の翻訳や翻案、そしてそれらの上演という仕事につながっていく。秋濤がそれらの仕事の対象としたフランスの劇作家は、ジャン・リシュパンエドゥアール・パイユロンフランソワ・コッペヴィクトリアン・サルドゥアレクサンドル・デュマ・フィス等々といった諸作家になるが、彼らの作品は自然主義的な合理性を持ちながら、台詞は耳に心地よい韻文に美化された伝統的な形式をとっており、それが秋濤には合理化された歌舞伎として映ったようである。そして、秋濤のフランスでの経験を論じる新井教授のノートの結論部は次のように記されている。

++ 明治二十二年にヨーロッパの土を踏んだ秋濤は、後に我国で云はれる意味での近代劇はもちろん、近代文学について何ら明瞭な観念は持つてゐなかつた。
 この年に二葉亭が「浮雲」を中絶し、鴎外が「舞姫」を脱稿したことを思へば、彼がこれら近代文学の先駆者たちとまつたく別の種族にぞくしてゐたことは明らかである。
 彼の文学への志向は――もしさういふものがあつたとしても――法律や政治のやうな「堅苦しいもの」が自分に向かないといふ気持からきた、消極的な道楽半分のものであつた。
 パリの三年間の滞在が彼にもたらしたものはこの道楽半分の気持を真剣な熱情にかへたことであつた、といふと彼は苦笑するかも知れないが、とかくこの道楽に深入りしすぎて、それで身を立てるほかなくなると同時に、そこに誇りと生甲斐を見出した。(『贋の偶像』124頁)

++ 彼が西洋に見出した演劇の理想像が、結局合理化された歌舞伎であつたことが、彼に帰朝後の演劇改良を、ある意味ではやさしい仕事と思ひあやまらせたのも事実であろう。
 実際には、彼の考へた大衆性があり、知識階級の批判に堪へる劇の制作は、我国においてもつともむづかしい仕事であつた。我国の演劇近代化の歴史は、それが不可能であることを証明したといつてもよい。そこでは伝統と近代がそれぞれ水のなかの油のやうに小さく固まつてゐるのである。(『贋の偶像』126頁)

++ 日本の自然主義とフランスの自然主義は多くの点で性格を異にするが、人間を本能の奴隷と見、そこから自由意思を一切閉めだす反面、人生から排除された精神の高貴な衝動をすべて芸術の属性と考へ、そこに人類のエリットの生きる道を見出す点では共通していゐる。自然主義がロマンチシズムの変形である所以もここに存する。
 秋濤が自然主義の感化をうけ、それを通じて芸術家の自覚に達しなかつたといふ事情は、したがつて、彼が自然主義から破壊的影響だけを受け、そこに止まつたのを意味する。
 人生が無価値であり、ただ昆虫の世界と同じ意味で我々の観察の対象になるものならば、作家の精神は、この平板な事実を、できるだけ美しい文体に表現するほかに、意味のある労働を見出せぬわけである。
 事実、これが、ゴンクールフロオベエルの美学であつたが、秋濤の自然主義からうけた感化にはこの第二段が欠けてゐた。
 これは彼がかうしたストイシズムとは別の形で、彼なりのロマンチシズムを持つてゐたからであらうが、当然この感化は、彼の芸術ではなく生活に現はれた。
 彼が自然主義思想(いはゆる無理想、無解決、あるひは生活の内面における道徳律の欠如)によつてその生活を、後世の自然主義者より甚しい形で破壊されながら、文学史の上では旧派の文士に分類されてゐるのはそのためである。
 彼はこの矛盾をパリで背負ひこんで帰つてきた。(『贋の偶像』128頁)

 ここに論じられているように、新井教授の描く秋濤は、フランスで自然主義の洗礼を浴びながら、芸術家としての自覚に達することなく、演劇へのロマン主義的な熱情のみ抱えて帰朝することになった悲劇の文学者像を暗示するものとして提示されている。事実、秋濤の帰朝後の文学的活動は自ら劇作家として立つといったものではなく、あくまでもフランス演劇の紹介者であり、翻訳・翻案を通した媒介者の役割を出るものではないようだ。これが、本書が『贋の偶像』と題されている所以なのだろうが、その一方、秋濤がいま少し文学的な探求者としての自覚と才能とを持ち合わせていたら、その後の明治文学の展開は、いま少し異なった様相を呈したいたのではないかという、実現しなかった可能性が惜しまれてもいる。

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ヨーロッパの富(柄谷行人に関する覚書)


 韓国で翻訳出版をやっている友人が、先日初めてパリを訪れ、市内の建物全てが文化財のような街並みに圧倒されたようで、このヨーロッパの富はどこからやってきたのか?と感心しきりであった。
 私が最後にパリを訪れたのは、もう15年以上も前になるが、確かに、パリのみならず、西欧の街並みには、物質による直接的な豊かさもさることながら、その表層から内奥を貫いて重畳する文化的な厚みは圧倒的なものであり、その厚みと調和が生み出す優美さには、都市に累積する時間の堆積(歴史)以上に、「われわれ」との異質さを感じさせないではいられないものを意識させられた記憶がある。それは、いってみれば、ある種の絶望(劣等感)を感じさせるものだ。
 この「われわれ」をアジア(東洋)として名指すのは容易なことだが、その名指しに埋没することは、何事かを見失せてしまうようにも思える。

 たとえば、ヘーゲルの『歴史哲学』や『法哲学』、マルクスの『資本論』、ウェーバーの『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』等の著作に代表されるような西欧の社会科学の枢要な部分は、おそらくはこれらの富の源泉を問題とする問の周辺から発生してきたものということができるし、ブローデルやウォーラーステイン、A.G.フランク、そして柄谷行人らの思考は、その問いを問い続けているのだと思う。
 直接的な富の移動ということでは、これはアフリカやアジア等の植民地からの収奪ということで間違いではないだろうが、それがどのようにして起こったのか、起こりえたのか、ということは決して簡単な話ではない。
 たとえばマルクスは、それを生産様式の変遷において捉えようとして、エンゲルスがそれを史的唯物論という形に編成したのだが、それは今日機能不全に陥っている。

 これに対して、柄谷行人は交換様式論という議論を展開し、交換様式には基本的に4つの類型があると規定している。

 A:互酬(贈与と返礼)
 B:略取と再配分(支配と保護)
 C:商品交換(貨幣と商品)
 D:X

 交換様式DのXは交換様式Aの高次元での回復、或いは抑圧されたものの回帰(フロイト)として説明されているが、柄谷は、これらの交換様式は常に既に並存してきたのであり、これらの交換様式のうち、どの様式が支配的(ドミナント)であるかによってその時代の社会構成体の形態が決定されることになる、と論じている。
 そして、近代以降の社会「世界=経済」は、基本的に交換様式C=商品交換(貨幣と商品)が支配的な社会となっており、それによって富の蓄積=収奪がなされたとみている。
 柄谷は、この近代社会というステージをブローデルにならって「世界=経済」と呼んでいるが、さらにそこに地政学的な位置関係の力学を導入していく。

++先述したように、世界=帝国においては、中核(core)、周辺(margin)、亜周辺(sub-margin)、圏外という構造があった。しかし、世界=経済が世界を覆った状態では、世界=帝国はもはや中核として存在できない。したがって、その周辺・亜周辺も存在できなくなる。一方、世界=経済においても、中心と周辺という地政学的構造がある。それを最初に、“メトロポリス”と“サテライト”というタームで指摘したのが、アンドレ・グンダー・フランクであった。彼の考えでは、世界=経済は、中心部が周辺部から余剰を収奪する仕組みになっている。そのため、周辺部は中心部の発展に応じて、低開発(under-develop)される。周辺部はもともと未開発だったのではなくて、中心と関係することで、低開発された、というのである。これに対してウォーラーステインは半周辺という概念を加えた。「半周辺」は中心部に移動することがあり、また周辺部に転落することがありうる。こうして、世界=経済は、中心(core)、半周辺(semi-periphery)、周辺(periphery)という構造となる。
 これはウィットフォーゲルが示した世界=帝国の構造、すなわち、中核、亜周辺、周辺と類似している。だが、世界=帝国と世界=経済の構造には決定的な違いがある。世界=帝国では、中心部が暴力的な強制によって周辺部から余剰を収奪するのだが、周辺部に行けば行くほどそれが困難になる。帝国の版図を拡大するためには、逆に、中心部の余剰を周辺にまわさなければならない。たとえば、中国の朝貢外交も、いわば互酬的な交換であり、その場合、朝貢に対する皇帝からのリターンのほうが大きい。そのような贈与によって、皇帝は威信を保持し、支配領域を広げたのである。
 ところが、世界=経済では、直接的な収奪よりもむしろ、たんなる商品交換を通して中心部が周辺部から余剰を収奪する構造がある。また、世界=帝国では、周辺部が原料を加工した生産物を中心部に送るのに対して、世界=経済では、周辺部が原料を提供し、中心部でそれを加工・製造する仕組みになっている。このような国際分業においては、加工・製造部門のほうが価値生産的である。そのため、中心部は、周辺部を国際分業に組み込むことによって、剰余価値を獲得することができる。(柄谷行人『世界史の構造』岩波書店、2010年6月、241~243ページ)

 柄谷の議論に即していうのであれば、いわば、西欧(+アメリカ)は世界=経済のシステムにおいて中心としてあり続けたため、その富を収奪しえたのだ、ということができる。もちろん、これはある意味では非常に乱暴な議論ではあるが、「世界=経済」という社会システムのもとで富が収奪されていく構造を示す指摘としては、大筋で的確なものだと思う。
 柄谷は、その後も『哲学の起源』や『帝国の構造』等の著作で、この地政学的構造論を変奏して、近代社会のフレームとして強固な「資本=ネーション=国家」を揚棄すべき道筋を探っている。それは平たく言えば、「交換様式Dは、どのようにして可能となるのか?」という問題の追及として続行されているということができるだろう。


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金禹昌 柄谷行人「東アジア文明の普遍性」 於2013東京国際ブックフェア


 ビッグサイトで開催されているブックフェアのイベントで、金禹昌氏と柄谷行人氏の鼎談が行われた。
 金禹昌(キム・ウチャン)氏は高麗大学名誉教授で、現在の韓国の人文科学を代表する知識人、専門は英文学で、コーネル大学で修士号、ハーバート大学で米国の文明史に関する論文で博士号を得ている。現在、御年78歳とのこと。柄谷氏と金氏は既に30年来の友人だが、顔を合わせての懇談は8年ぶりとのことである。
 司会は国際教養大学客員教授で「ハングルの誕生」の著書がある野間秀樹氏。話の導入部のみ、以下に簡単に紹介しておく。

 話はまず、金氏の韓日における近代化の様相の対比から始まった。金氏は、日本の近代化の様態が、対西洋との関係が中心的であったとするなら、韓国のそれは、まず対日関係があり、対日関係を通じた形で対西洋関係が見出されていったことを指摘する。従って、直接西洋に学ぶという方向性は、日本の近代化と同化することになり、韓国としての主体性の基軸を何処に置くかということになると、より複雑な操作が必要であったという。
 そこで見出されていったのが、ポストモダニズムであり、それは日本の植民地統治下にあった時代から生じている。同じ頃、日本でも近代の超克といった形でそれは問題となったと思うが、韓国においてはより複雑な近代史の流れの中で、日本とは異なる形でそれは継続的な問題であり続けており、その中で伝統的な文化は壊滅的な打撃を被ってきている。
 その一方、民主主義的な土壌の形成においては、内面化に課題を残しつつ資本主義に対応していく中で、自由民主主義が確立され、近年は福祉的なものに目を向けた民主社会主義的な動きも生じている。
 韓国には、イデオロギーの源泉は常に「民」にあるという、儒教に根ざした伝統的な考え方が息づいており、政治や文学の問題は、大枠では資本主義体制下にありながら、その中で「民」の問題としてどうあるべきかということが継続的な問題でり、韓国文学は常に社会的問題への関心を中心に動いてきた。
 しかし、近年では、直接的には社会的領域から切り離された個人的なものの領域が拡大してきており、かつて柄谷氏が「日本の文学は死んだ」といったような状況に近づきつつある、という。
 これに対して、柄谷氏はカントを日本に最初に紹介した人物、北村透谷から話を始め、日本は普遍性という観点では、おそらく韓国より低い位置にあるという指摘を行う。韓国・朝鮮(コリア)では、本格的な儒教の社会化が起こったが、日本のそれは表層的なものに留まってしまった。それを象徴的に示しているのが、「天」という抽象観念の理解にある。この天という観念は西洋的に擬すならばGodに類するものだが、日本ではそれは「天皇」になってしまう。韓国においては「民」にこそ「天命」があるという儒教的観念が貫徹されているが、日本にはそのような「天」の観念は一部の変わり者を除いて生動することはなく、その積み重ねの上に武士による社会構築がなされてきた。その差異が重要なのだ、と説く。

 以下、現在の日韓関係や文学の位置、政治的関係を回避した文化交流のあり方、東アジア共同体、ハングルと仮名文字における文化的差異の問題等、様々な興味深いイシューについて話題は振れていったが、詳細はどこかで活字になると思われるので、それを期待したい。


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