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東西南北舎

東西南北舎は東西南北人の活動に伴い生成したテクスト群の集積地である。「東西南北人」は福岡の儒者亀井南溟が秘蔵した細川林谷篆刻の銅印。南溟の死後、息子の亀井昭陽から、原古処、原釆蘋、土屋蕭海、長三洲へと伝わり、三洲の長男、長壽吉の手を経て現在は福岡県朝倉市の秋月郷土館に伝承されたもの。私の東西南北人は勝手な僭称であるが、願わくば、東西南北に憚ることのない庵舎とならんことを祈念してその名を流用させて頂いた。

   

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中村光夫『贋の偶像』―長田秋濤をめぐって Ⅱ


 さて、前項では、『贋の偶像』における新井教授のノートとして記された部分に随伴しながら、秋濤が日本に帰朝するまでの事績を概観してきたが、その新井教授のノートを読まされた弟子の佐川が、それはあまりに文学的な観方に偏しているとして、これに対して単なる「洋行がえりの伊達者」としての政治的・社会的秋濤像を対置してみせる。

++ 秋濤はなぜ文学者でなければならないのか。近代文学、近代劇に通じていなかったのを残念がられねばならないのか。彼が帰朝のすぐあとで演劇改革を企てたのは事実にしても、彼という存在をそれだけの男に限定してしまう必要はなかろう。
 彼は演劇改良の「熱心家」を自任しているが、明治二十八年に最初の創作戯曲「菊水」を刊行して間もなく、初代台湾総督樺山資紀に随って台湾接収に行ったり、翌二十九年には伊藤博文の推薦で帝国ホテルの支配人になったこともある。
 さらに明治三十年にはビクトリア女王即位六十年祭に参列する伊藤博文に随って、アメリカ、カナダ経由で英国にわたり、大陸の諸都市を歴訪して一年近く日本を留守にしている。(中略)
 彼はわずか一二年の劇界との接触で、革新の事業に失望して、政治に方向転換を企てたのであろうか。
 それほど彼は意気地なしなのか。先生の解釈は、共感を土台にしているように見えるが、実は相手をむりやりに自分の好みに合わせて裁断しようとする感傷的な、息苦しい、偏頗な性質のものだ。(『贋の偶像』135-136頁)

 このような新井教授と佐川の意見の対立は、この後『贋の偶像』で、秋濤の文士的側面と国士的側面として、ある程度並走する形で追求されていく。前者における焦点は尾崎紅葉との関係に置かれ、後者の焦点は伊藤博文との関係に置かれている。
 
 だが、その対立関係に入る前に、まずは秋濤の文学的業績がいかなるものであったのかを瞥見しておく必要があろう。
 なお、秋濤関係の研究論文には、少し古いものになるが、弘前大学の伊狩章に「長田秋濤研究」弘前大学人文社会、10、956、90‐111頁があり、これはネットで閲覧可能である。また、これ以外に、、川西良三・藤木喜一郎「仏文学者長田秋濤評伝(第一部)(第二部)」(『独仏文学研究』(関西学院大学文学部独文学科研究室)2号(1959 年)31-41 頁、3号(1960 年)61-75 頁)、布施明子「長田秋濤評伝」(学苑、光葉会、(通巻239)1960.01)、秋山勇造「長田秋濤--生涯と業績」(人文研究(132)、65-90頁、 1998-03、神奈川大学人文学会)があるようだが、これらはネット上での閲覧はできない。しかし、伊狩氏の「長田秋濤研究」をみるだけでも、『贋の偶像』における秋濤の文学的業績の紹介は必ずしも十分なものとはなっていないことがわかる。
 しかし、ここではまず『贋の偶像』における新井教授のノートの記述に従いながら秋濤の文学的生涯を辿ってみよう。作中の新井教授のノートには、途中、幾つかサブタイトルが付された箇所があるが、それを目次ふうに示すと以下のようになる。

 ①白百合 163~182頁
 ②退屈な世界 182~195頁
 ③三恐悦 196~210頁

 番号は便宜上付けたものだが、①は秋濤が創刊した同人誌のタイトルであり、②はエドゥアール・パイユロン(Édouard Pailleron)の戯曲のタイトル(Le Monde où l'on s'ennuie)、③はそれを秋濤が翻案して執筆した戯曲のタイトルである。
 ①の同人誌「白百合」は、明治29年(1897年)に創刊され、同人には黒田清輝久米桂一郎といった洋画家2名が名を連ねてもいる。
 ただし、白百合の発刊に至る前に秋濤の文学的業績には多少の前史がある。
 まず、翻訳の仕事では、留学前の明治20年(1888年)に 『脚本ハ仏国世界ハ日本:当世二人女婿 』(鳳文館)がある。これは仏人ドクトル・シュープレー「佛国文範」中の戯曲と紹介されているが、どうやらシェークスピアの『リア王』に基づくもののようで、秋濤原訳、依田学海戯編と銘打たれている。
 次に『菊水』という、劇作家としての秋濤の処女作がある。『菊水』は秋濤がまだパリに滞在している明治26-27年頃に書かれたもののようで、明治27年10月から報知新聞に連載された。その筋は、楠木正成の小姓である竹童丸が語る、湊川合戦における正成の死、その竹童丸と許婚の腰元露草の殉死、足利尊氏がもたらした正成の首級と正行母子との対面を描いた二幕の短い戯曲だが、これが上演もされないまま不評を蒙り失敗に終わっている。
 失敗の原因は無論『菊水』の出来そのものにもあるが、23歳の若者の処女作にしては必ずしも愚作という訳ではなく、新井教授は「むろん傑作ではないにしろ、正行の母を軸として、楠公父子の事跡を描いた脚本として、格別の波瀾もない代りにつくりすぎた厭味もなく、舞台の構成や会話のやりとりに、作者の劇作家としての才がたしかにうかがへるのは「花まつみね(=坪内逍遥)」もみとめてゐる。」(148頁)と記している。問題は発表の時期にあり、これを発表する前に、秋濤は演劇改良家として名を売ってそれなりに有名になり、しかもそのポジションにおいて俳優や劇評家等の梨園に関わる人々の悪口をさんざん書き連ねていた。ここでは、そのようなタイミングで『菊水』のような旧作を発表してしまった秋濤の迂闊さが指摘されている。当時、彼が俳優の中で芸術家として認めていたのは、『菊水』の校閲を依頼した団十郎(九代目)ひとりだったようだが、それとても秋濤からみると父の代から家に出入りする芸人の一人に過ぎなかったのであり、この時代、その社会的地位はまだまだ低く、父親が国家の官吏である秋濤の家柄とは相当の懸隔があったことが窺われる。
 『菊水』の今ひとつの失敗の原因は、秋濤には最大の味方と思われていた坪内逍遙から蒙った悪評である。もともと逍遙には、依田学海と共に旧劇の全否定や劇評家攻撃を繰り広げる秋濤に同調しない部分があったが、先に示した早稲田文学の「演劇改革談」が評判を呼びすぎ、出席者4名が「演劇改良同盟軍」などと呼ばれるようになると、逍遙は事々にそれらの言説に反駁するようになる。そしてこの頃、逍遙は自らの演劇論の実践として、『桐一葉』の発表を進めていた(早稲田文学に連載)。そこに現れたフランス帰りの秋濤の作品が『菊水』だったのだが、新井教授はこの酷評の理由を「産婦の神経であらゆるものを自作中心に考へるやうになつたとしても自然であろう」(162頁)と推定している。
 その他、伊狩章「長田秋濤研究」等によると、以下の業績がみられる。

 ●「佛國演劇現况」(早稲田文学60号、明治27年)
 ●「佛國喜劇」(早稲田文学61号、明治27年)
 ●「佛國演劇談(オペラ座)」(早稲田文学62号、明治27年)

 以上の三作は先に触れた、新井教授が紹介しているフランス演劇の紹介記事である。その他の「白百合」以前の著作としては、以下が紹介されている。

 ● ミッシェル・ルヺン「日本人と仏文学との関係」の翻訳
  (早稲田文学63号、明治27年)
 ●「仏都巴里」~西欧案内記(太陽、明治28年5月)
 ●「花吹雪」~端歌(文芸倶楽部、明治28年5月)
 ●「文學上の臺灣」(太陽、明治28年9月)
 ●「日本演劇の弊風」(早稲田文学、明治29年)
 ●「仏蘭西音楽」(めざまし草、明治29年8月)

 さて、台湾から戻った秋濤は、帝国ホテルの支配人となるが、その支配人をしている間に同人誌「白百合」を発刊する。白百合とはブルボン王朝の紋章であり、「維新以来革命のイメージと結びついた政治的側面から捕へられてきたフランス文化の保守的芸術的側面を紹介することを意図して発刊されたもので、その点から見れば画期的な意味を持つてゐた。」(175頁)が、それは二号しか続かなかった。内容的には結構充実したものだったようで、秋濤自身は、この創刊号にデュマ・フィスの『椿姫』(La Dame aux camelias)の戯曲版、冒頭部分の翻訳を発表している。後に秋濤は小説版を全訳し、明治36年5月に早稲田大学出版部から刊行されているが、今ではその仕事が彼の代表作とされている。なお、この「椿姫」という邦題も秋濤の手になるもののようである(秋濤の小説版『椿姫』の翻訳については、静岡大学の今野喜和人氏に「長田秋濤訳『椿姫』における恋愛表現をめぐって」翻訳の文化/文化の翻訳. 6別冊, p. 11-20という研究がある)。
 新井教授のノートでは「かりに二三年この雑誌が続いてゐたら、フランスの古典劇は、自然主義文学より、先に我国につたへられ、明治の作家たちが「大陸文学」にたいして持つたイメージは別物になつたかも知れない。」(181頁)と、それが打ち上げ花火のように発刊されながら、瞬く間に廃刊されたことを惜しんでいるが、そう記された直後に、次のような秋濤に対する憤懣がぶちまけられている。

++ いまさらこんなことを言ふのは滑稽かも知れないが、実際、調べれば調べるほど、彼には愛想がつきてくる。自分が何をしたいのか、何をすべきなのか、考へようともせず、意思と粘りがどこにもない。これでは、文学者であることが、そのまま改革者たることを意味した明治時代に文学などやれるわけはない。しかも当人は熱心な「改良家」を自任してゐる。
 しかし文学の世界がむかしもいまも少数の成功者と多数の失敗者から成り立つてゐる以上、秋濤を自分にまつたく無縁な存在と言ひきれる人はよほど幸福な例外であらう。
 彼は、文学者として大成できなかつた代りに、意思に筋ばつた作家たちには見られぬ軟かな心の持主であり、作品をのこす代りに、思ひに邪のない行動で最後まで人々をひきつけた。
 近代人のひとりとして、彼も自分にたいする誤解からはじめる。改革者として出発してから、運命に失敗者として選ばれるまで、彼はいくつか、事志とたがふ場面に遭遇する。
 そのなかで「白百合」の廃刊は、他人がもたらす不運によるところがもつとも少ない事件であつた。彼自身の心がけの悪さも、むろん運命の一部だらう。しかし僕のやうな凡人は、彼の人となりを愛するからこそ、それを責めずにはゐられない。(『贋の偶像』181-182頁)

 ②の「退屈な世界」は前記したようにパイユロンの戯曲で、1881年(明治14年)にコメディ・フランセーズで初演され、1892年(明治25年)に再演されている。秋濤は、この再演を観たようで、その印象を「仏国演劇現況」で「喜劇」の典型として紹介しているようだ。
 しかし、『贋の偶像』の「退屈な世界」の項は批評文形式ではなく、新井教授と柳かね子の秋濤をめぐるお喋りが記されており、その会話をきっかけにやがて二人は愛人関係へと縺れていく。
 パイユロンの『退屈な世界』は、新井教授により「モリエール以来の、サロンの似而非才女たちの衒学趣味への諷刺と、マリヴォ風の恋愛と誤解の葛藤とをなひまぜたもので、いはばフランス喜劇の伝統的な水脈を二つ併合した作品」(197頁)と紹介されている。秋濤は、これを素材として翻案劇『三恐悦』を仕立てあげた訳だが、その執筆は台湾から戻り、博文と共に出かけるまでの間になされたのではないかと推測されている。
 なお、伊狩章「長田秋濤研究」によると、秋濤は『三恐悦』発表の前に、自作の戯曲『恋の像』(大日本、明治31年1月)を発表しているようだが、これは幸田露伴の「風流仏」をそのまま脚色したような作品だそうである。
 明治31年(1900年)7月、川上音二郎との間に『三恐悦』上演の話が持ち上がるが、その時、秋濤の原稿は出来上がっていたようだ。新井教授は『三恐悦』の出来を、フランス喜劇の面貌をかなりよく伝えてはいるが、秋濤が狙いとした当時の日本の政界を諷刺するという点では現実性に乏しい作となっており、その点に本作の弱点があるとしながらも、人物の性格と配置はほぼ原作を踏襲することにより個々の性格は明確に描き分けられ、適切な演出を得ることができれば、その短所を補うこともできた筈だと論評している。
 8月15日、『三恐悦』は歌舞伎座で川上一座による上演の運びとなるが、この上演も、結果は無残な失敗に終わる。この時、川上の一座は混乱の渦中にあり、上演に至るまでに、配役は決まらず、碌な稽古もできず、衣装や舞台装置すら整わない始末である。これには川上一座の混乱とともに、当時の新派劇において脚本は筋立てを示す程度で、台詞は専ら俳優の即興に頼る口立芝居が多かったという事情もあるようだが、ともかく秋濤の奔走により何とか幕は上がるものの、「「俳優は一人として言語を暗ぜず各自勝手次第の事を云ふ」といふ有様であり、その上、戯曲自体も、出演俳優に総花をあたへるために広岡柳香によつて「作者たる余をして茫然たらしむる程冗長に」加筆されてゐるため「対話の局を結ぶこと甚だ長く終に大向ふの沸騰を来たし非常の妨害を蒙りて余儀なく中止する」といふ破局を招来した。」(『贋の偶像』207頁)
 開演中に観客が騒ぎ立てたために途中で幕を降ろしてしまうという前代未聞の椿事を出来するに至った訳である。この初日の醜態を受けて、歌舞伎座の重役たちは徹夜で会議を行い、一旦は中止を決める。ところが同じ夜、秋濤は楽屋で俳優たちと対策を協議し、これも徹夜で台本の修正を行う。おそらく柳香の加筆した部分を削除し、原型に近いものとしたようだが、この報を受け、秋濤は中止に同意しようとする。ところが俳優たちはこの決定に応ぜず、続演を主張。結果として再撤回となり16日、17日の2日間は混乱もなく上演され、喝采も博したようだ。しかし、歌舞伎座側は18日に重役会議で決めたことだとして、再度の中止を求めてくる。秋濤はこれを伝えた使者を難詰するが、事態は覆らず、ついに二度目の中止に至るのである。新井教授はこの稿を次のように結んでいる。
 
++ 「三恐悦」の上演とその中止は、それ自身がひとつの喜劇であつた。しかし喜劇を舞台にかけるつもりで、自からグロテスクな笑劇を演じてしまつたのは、彼自身の内面からみればやはりひとつの悲劇であらう。
 「白百合」の廃刊と反対に、この失敗は彼自身の責任が軽いもののひとつであらう。しかしそれは彼が内心もつとも大切に育くんできた情熱を殺してしまつた。(『贋の偶像』210頁)

 もう一つ、この頃の秋濤の仕事として、フランソワ・コッペ(François Coppée)の戯曲、Pour la couronne, drame en cinq actes, en vers, 1895 の翻訳がある。これは『王冠』と題されて、明治31年に東京日日新聞に連載され、翌年春陽堂から単行本として刊行されている。全訳ではなく抄訳のようだが、翻案ではなく翻訳として出版され、依田学海の校訂を得ている。『王冠』はオスマン・トルコの侵略を受けつつあるバルカン国(東ローマ帝国=ヴィザンツか?)を舞台に、父子の対立と国家への忠誠を機軸とした古典劇ふうの筋立てが展開される悲劇だが、その新聞連載はまさに『三恐悦』の上演をまたぐ時期であり、コッペの原作と比較対象した佐川によると、そこに『三恐悦』上演中止のショックが表れているという。

++ 「『王冠』はむろん、この『王冠のために』の抄訳ですけど、はじめの二幕はわりに原作に忠実なんです。筆の勢いで台詞をつけたしたような部分はあっても、削ったところはほとんどなくて、どうするんだろうと思うくらいですけど、三幕から、急に筋を運ぶだけで、思い切った削除をしています。単行本の頁数で云うと、第二幕までが百二頁かかっていて、第三幕から第五幕までが六十一頁しかないんです。原作は後半の方が前半より長いから、あとの方はまえの半分以下に刈りこんでしまったことになります。なんでこんなことをしたのか、わからなかったのですが、今度先生の論文で、一寸思いついて調べて見ると、第三幕が八月十七日から載っています。その原稿を三四日前に入れたとすると、ちょうど『三恐悦』中止と時期が一致するんです。」(『贋の偶像』213頁)

 このように、『三恐悦』の上演中止は、文学者秋濤の演劇への情熱を決定的に削ぎ落とす契機となってしまったようである。
 ただし、この『三恐悦』失敗以後も、秋濤は文学から撤退したわけではない。期間を明治35年(1903年)までに限っても、伊狩章「長田秋濤研究」には『贋の偶像』に殆ど記載のない以下の仕事が紹介されている。

 ●グレウヰル女史の小説「浮れ蝶」の翻訳(文芸倶楽部、明治32年2月)
 ●『恋之那破烈翁』の翻訳出版(春陽堂、明治32年7月)
 ●ポー「モルグ街の殺人」=「猩々怪」の翻訳
  (文芸倶楽部、明治32年10月)
 ●Eugène Scribeの悲劇『怨』の翻訳(読売新聞、明治32年11-12月)
  原作は Adrienne Lecouvreur, drame, 1849、刊行は隆文館、明治39年7月
 ●「大逆」の翻訳(東京日日新聞、明治33年5月)
 ●「血髑髏」の翻訳:講演速記(新小説、明治33年5月)
 ●「百万年後の地球」(太陽、明治33年6月)
 ●「嫉妬」の翻訳(新小説、明治33年9月)
  原作はFrançois Coppée の Contes en prose, 1882 中の一編か?
 ●「愛の花束」の翻訳(文芸倶楽部、明治33年9月)
  原作はやはり François Coppée の Contes en prose, 1882 中の一編か?
 ●「匕首」の翻訳(読売新聞、明治33年9-11月)
  原作は Jean Richepin の Le Chemineau, 1897
 ●『祖国』の翻訳(刊行は隆文館、明治39年8月)
  原作は Victorien Sardou の Patrie !, drame en cinq actes, 1869

 また、国会図書館のデータから、この前後の仕事として以下の仕事が拾える。

 ●ヴィクトル・メーギヤン『西伯利亜蒙古旅行 : 巴黎至北京』の翻訳
  (春陽堂、明治33年6月)
 ●『世界一不思議』の翻訳(春陽堂、明治33年6月)
 ●『金剛石の原野』の翻訳(春陽堂、明治33年6月)
 ●『北氷洋』の翻訳(春陽堂、明治33年7月)
 ●『サハラ大沙漠』の翻訳(春陽堂、明治33年8月)
 ●『ヒマラヤ山探検』の翻訳(春陽堂、明治33年8月)
 ●『西部亜弗利加探険』の翻訳(春陽堂、明治33年9月)

 以上は、十二大奇書の翻訳事業の企画として、春陽堂から刊行されたもののようである。当初の目録には、他に『メガミ湖探検』『極北岬』『墨西哥旅行』『印度紀行』『パナマ紀行』が見られるが、それらは出版されることなく終ったようである。他にこの時期の翻訳、著作では以下が確認できる。
 
 ●「那翁の最期 」(少年世界、6(5),(7)、明治33年)
 ●『寒牡丹』の翻訳、尾崎紅葉との共訳(春陽堂、明治34年2月)
 ●ボッカチオ『デカメロン』=『西洋花こよみ』の翻訳
  (文禄堂、明治35年7月)
 ●『新赤毛布 : 洋行奇談』(文禄堂、明治35年5月)

 上記に示した秋濤の仕事については、「匕首」を例外として、殆ど『贋の偶像』で触れられていない。しかも、以上は日露戦争開戦(明治36年:1904年2月)前の時期に限ったものである。仕事の質はともかく、『三恐悦』の手痛い失敗を経てもなお、この頃までの秋濤は非常に多くの仕事をこなしていることがわかる。
 だが、明くる明治36年は、秋濤にとって大きな転機となった年である。次回は再び『贋の偶像』に即しながら、その顛末を見ていこう。
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