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東西南北舎

東西南北舎は東西南北人の活動に伴い生成したテクスト群の集積地である。「東西南北人」は福岡の儒者亀井南溟が秘蔵した細川林谷篆刻の銅印。南溟の死後、息子の亀井昭陽から、原古処、原釆蘋、土屋蕭海、長三洲へと伝わり、三洲の長男、長壽吉の手を経て現在は福岡県朝倉市の秋月郷土館に伝承されたもの。私の東西南北人は勝手な僭称であるが、願わくば、東西南北に憚ることのない庵舎とならんことを祈念してその名を流用させて頂いた。

   
カテゴリー「小説-フィクション」の記事一覧

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福井晴敏「震災後」(小学館 2011年11月)

2011年3月11日の地震発生からそろそろ3年半の時間が経過したことになるが、その鳴動によって露わとなったこの国の動揺は、何だかますますひどいことになっているような気がするのは決して私だけではあるまい。
 震災後、雨後の筍の如く発表された震災関連本がブック・オフの低価格コーナーで次第に幅をきかせるようになった今日この頃、UCガンダムの福井晴敏がこんな本を書いていたのかと手にとったのが本書「震災後」である。サブタイトルとして「こんな時だけど、そろそろ未来の話をしようか」の言葉が小さな文字で添えられている。
 「震災後」は、首都東京でこの災厄に遭遇した一家のその後の半年を描いた小説であり、帯には「リアルタイム・フィクション」の文字が記されている。ストーリーはほぼ忠実に実際の災厄以後の事件の経過を追いつつ、その中で見失われてしまった未来の欠損が人々の心の闇となって広がっていく様を描くとともに、いかにそこから立ち上がっていくべきかというテーマを追ったものとなっている。

 主人公は福井と同世代のサラリーマン野田圭介。野田には、妻(美希)と一男(弘人)一女(千里)の子どもたちがあり、そして物静かだが得体のしれぬ父が同居している。その父はどうやら旧防衛庁の情報局に出向していた元警察庁のキャリア官僚で、危機に際して、意外な行動力と防衛庁時代に培った人的ネットワークを駆使して圭介たち一家を支えていく。
 だが、災厄により未来に希望を持てなくなってしまった主人公の息子、中学生の弘人は自室に閉じこもってネットの情報をかき集めては、ふさぎの色を濃くする悪循環へと陥っていく。それを見かねた祖父(主人公の父)は一家を被災地へのボランティアへと駆り出すが、弘人にとってそれは寧ろ逆効果となってしまい、弘人はやがて画像処理によって「一ツ目」にされた赤ん坊の画像をフクシマベビーとしてネットに流す悪事に加担してしまうことになる。
 かつての部下から孫の関与に関する情報を得た父は、その事を圭介に告げるが、その体は既に末期癌に蝕まれている。そして死の床で父は圭介に向ってこれまでの過ぎし日、来し方を訥々と語り始める。
 ある程度事の露見を覚悟していた弘人は自首するが、少年かつ従犯ということで公式にはお咎めなしの処分保留となるが、その学校では有識者を招いた講演会が開かれることになる。
 父からの遺言ともいうべき言葉を託された圭介は、その講演会で自分にも話をさせてもらうようにねじ込み、にわか仕込みの猛勉強を経て、未来への希望の種となる言葉を子どもたちに伝えようと話し始める。そして圭介が持ち出してくるのが、太陽光発電衛星。スペース・ソーラー・パワー・システム(SSPS)、宇宙空間で集めた太陽光を電力に変え、マイクロ波のビームに変換して、地球に送信するシステムだ。

JAXA SSPS

 だが、SSPSも、本格的な実用化はそれこそ50年先か100年先かといった技術であり、当座のやりくりはやはり原発に依存しなければどうにもならない代物である。圭介はSSPS実用化ための課題についても一つ一つ丁寧に説明していくが、そこで女性のPTA会長からの横やりが入る。それは自然を屈服させようとする男の傲慢だ、その先に道はない、行き止まりなのだ、ということを思い知らされたのが今回の災害ではないか、と。
 圭介は一瞬たじろぐが、その地点から繰り出される言葉は最早希望への祈りというしかない。
 祖父-父-息子と三代に亘る構図はそれこそUCガンダムそのままといってもいいが、彼らの叫びもまたそれと相同なものといって良い。
 ただ、ここで少し異なるのは、ここで紡ぎだそうとされている希望が、極めて男性的な観念性に起因するものであることに自覚的な視点を描出している点だろう。話を終えた後、父の死を確認し、漸く息子と二人で話す機会を得た圭介は、弘人に向かって「バカなもんだ、男なんて」と嘯いてみせる。そして、圭介は逃げ場を失くした父の立場を自覚していくことになる。
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海老沢泰久「青い空」 文藝春秋 2004年6月

 キリスト教が禁教とされていた江戸期、ヨーロッパ人神父による最後の日本密入国が企てられたのは1708年(宝永五年)のことである。その人物はローマ教皇庁が直接派遣したシチリア人、ジョバンニ・シドッチだった。彼は屋久島に上陸したが、すぐに捕らえられて江戸に護送され、小日向の切支丹屋敷に幽閉されることになる。
 これに先立つ1687年(貞享四年)、幕府は、一度でもキリシタンになった者は、たとえ改心したものであっても監視する方針に転換し、キリシタン及びその係累を「キリシタン類族」として一般の宗門人別帳から除き、キリシタン類族帳に記載することを命ずるキリシタン類族令を布告する。
 本書の主人公、宇源太こと藤右衛門は、そのようなキリシタン類族の家系に生まれた幕末の出羽の農民の若者である。籐右衛門には、同じ類族におみよという想い人がいたが、ある日、近在の庄屋の息子におみよが手籠にされ、その復讐を果たそうとしたおみよの兄、甚三郎が返り討ちにあったことから、籐右衛門はその庄屋の息子を殺害し、江戸へと出奔する。
 江戸への道中、運良く同郷の無宿人喜兵衛と知り合った籐右衛門は、関所を抜け、道すがら助けた出羽本庄の油屋の内儀おしずから、その同行中に病死してしまった使用人宇源太の名をもらいうけ、江戸にたどり着く。
 宇源太が江戸にたどり着いたのは、政局の中心が京都へと移って久しい1863年(文久三年)5月、明治維新の5年前である。この頃、長州藩は下関で攘夷を断行するが、8月18日、長州藩の暴走を恐れた薩摩藩は会津藩と結んで京都で政変を起こし、長州藩は、三条実美以下七人の公卿とともに京都から追われることになる。
 おしずの言伝により、江戸で口入屋をしていたおしずの甥、竜造の口利きで、宇源太としての寺請証文を手に入れた籐右衛門は、剣術道場を営む吉野信三郎の下男として生きることになる。
 この時代、民衆の戸籍は寺請の人別帳に依拠する体制であり、人々は、必ずいずれかの寺を檀那とする檀家制度の軛の中に在る。類族出身の藤右衛門はこの檀那寺の坊主の横暴に散々苦しめられてきたが、既成仏教の諸派はいずれの宗派もこの体制に取り込まれ、坊主はその権力を謳歌し、宇源太のみならず、民心はこれら仏門の横暴を憎んでいた。
 そんな中、宇源太は吉野道場の門人で神主の塚本彦也と知り合う。吉野信三郎によって剣術の天分を見出された宇源太は百姓の身分ながら道場で頭角を現し、その腕前を見込んだ塚本が剣の稽古を依頼するようになる。
 この時代の神社は全て仏門-寺の傘下にあり、本地垂迹説の理路によって抑えこまれていた。塚本はそのような中で自らが神主を務める神社のご神体に梵字が記され、社殿に仏舎利が置かれていることに我慢がならず、いずれその弊を取り除くことを期している。
 塚本が自らの神道信仰の核としたのは平田篤胤の思想である。本居宣長は「顕露事(あらはごと)」と「幽事(かみごと)」という『日本書紀』の異伝に記されている言葉を、顕露事は天皇の行う政治であり、幽事は大国主命が黄泉の国から行う天皇政治の補助と解釈していたが、篤胤はそこにマテオ・リッチの『天主実義』に記されていたキリスト教の基本教義といえる「人身は死すといへども、魂は死するにあらず。けだし永存不滅のものなり。」「吾れ天主を観るに、また人を本世に置くは、以てその心を試みて、徳行の等を定むるなり。故に現世なるものは吾の僑寓するところにして、長久の居にあらざるなり。吾の本家室は、今の世にあらずして後世に在り、人に在らずして天に在り」(197頁)という考え方を重ねあわせ、幽事を「冥府」として位置づけ、死後の魂の安寧を確保する神学を打ち立てることになる。
 死後の魂の不滅性は、キリスト教に関係なく、日本の信仰の中にも息づいていた。しかし、それを救済する神は存在せず、特に非業の死を遂げた魂は、行き場を失ってこの国の野辺に浮遊し、祟神として人に災いをなすものと畏れられていた。天神や祇園等の御霊信仰がこれにあたるものである。平田篤胤は、そこに天皇すら見ることのできない人の心を射通す神として、冥界の主、大国主命を据えたのである。塚本や吉野新三郎から、この平田神学に基づく大国主命の話を聞かされた宇源太は、自らの心も大国主命に見られていると感じ、塚本に親近感と尊敬の念を抱くようになる。
 やがて塚本は、宇源太の助けを借り、自らの志を遂げる行為に及ぶ。それは見事に達成され、寺社奉行の裁定も三ヶ月の蟄居閉門で済んだと思われた時、塚本は何者かによって殺害される。
 宇源太はその下手人を探るが、その正体は杳として知れない。その後、宇源太は勝海舟と知り合い、海舟の命により長崎に赴き、浦上のキリシタンを助け、長崎から戻ってくると、今度は、塚本殺害の事情を知っていると思われる津和野藩の間山了介の行方を求めて江戸薩摩藩邸に出入りするようになり、そこから相良総三の赤報隊に参加することになる。
 このように、本書は幕末史の一端に触れながら、維新の局面で仏教、神道、キリスト教といった宗教諸派がどのような憂き目に合ったかの転変を浮き彫りにしていく。そこには著者の視点-本来、小説の結構には相応しからざる-が介入し、当時の様々なテクスト群が引用(現代文に近い形に読み下されてはいる)され、歴史の言葉に語らせる手法がとられている。その意味で、本書は歴史小説と史伝の中間的形式をとっているということができるだろう。そして、著者の視点が描き出していくのは、儒教的思考が、日本から、本来の宗教的心性を拭い取ってしまったのではないか、という問題である。
 本書の終局において、著者は勝海舟と吉野新三郎の会話として以下のくだりを提示してみせる。

++(吉野)「しかし、勝さん。このままではホラがホラでなくなって、天子は本当に神ということになってしまうよ」
(勝)「御意志でもないのに、そんなことになったら天子が一番お困りになるだろうよ」
(吉野)「わしもそう思う。しかし、わしはこの国の人間の心の問題を案じているんだ。仏教を、宗教ではなく、葬式をするだけのものにしてしまったのは徳川の幕府だが、ここで天子のご迷惑も考えずに、神道まで政治に利用したら、日本はいよいよ神を信じない人間ばかりの国になってしまうよ」
(勝)「そういわれるとおれも耳が痛いが、そうなるだろうね。懲罰をもって押し付ければ、表面上はしたがうだろうが、心は離れていくものだ」
(吉野)「宗教というのは最高の道徳だ。それがない国になってしまう」
(勝)「政治のほうでも問題が出てくる。徳川の政権はそりゃいろいろひどいこともおこなってきたが、すくなくとも、天子の思し召しの、天子の仰せだのといって政治をおこなったことは一度もなかった。(中略)問題は政治が誤りだったときだ。天子は、そうでなくとも、この国で唯一無二のお方なのに、神などということになったら、天子の名でおこなった政治を、誤りだったと取り消すわけにはいくまい。誤った政治をどこまでもつづけていくほかなくなる。しかし、その政治は誤りだから、いつかは破綻する。そのときどうするかということだ。徳川の政権は上様に責任がある体制になっていたから、最後は慶喜公が政権を朝廷に返上して政治的責任をとったが、天子は返上するところがない。結局、天子が責任をかぶって、天子の名を借りてやりたい放題のことをやった連中は、誰も責任をとらないということになる。こんな不道徳なことがあるもんかね。しかし、いまのやり方でいったら、必ずそうなるよ」(667~668頁)

 この会話は明らかにフィクションだが、著者の宗教観はここに滲み出ているということができるだろう。ただし、歴史的な文脈において、勝海舟がこう考えていたかどうかはまた別の問題である。
 著者の海老沢泰久については、平成6年に『帰郷』で直木賞を受賞している著名な作家なので、これ以上ここに贅言を要する必要はなかろう。私はそんなに多く彼の作品を読んではいないが、辻静雄の生涯を描いた『美味礼賛』はおすすめである。
 本書は著者初の長編歴史小説であり、帯に「構想三十年!」の惹句が踊った力作であるが、歴史小説としてどうかといわれると、視点をキリシタン類族の下層民において維新史、そして日本の宗教史を捉え直した点は秀逸だが、個々の歴史事象の掘り下げの点では、今少し物足りなさも感じた。
 その意味では、歴史を小説として描くことの難しさを改めて思い知らせてくれた作品ということができるだろう。

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裸者と裸者 孤児部隊の世界永久戦争 打海文三著(角川書店2004年10月)

 世界的な金融システムの破綻から、国民国家としての政体が崩壊し、内乱状態に陥った近未来の日本という設定で描かれた小説。発表は2004年と8年前の作品である。本編には続編となる「〈応化戦争記〉シリーズ」として以下が存在するようだが、私は未読である。

 愚者と愚者 上 野蛮な飢えた神々の叛乱(角川書店 2006年9月)
 愚者と愚者 下 ジェンダー・ファッカー・シスターズ(角川書店 2006年9月)
 覇者と覇者 歓喜、慚愧、紙吹雪(角川書店 2008年10月)

 本編は上下巻で合計700頁ほどの大冊だが、内容的にも上下巻に対応した二部構成となっている。
 上巻で描かれるのは、茨城県北部から福島県いわき市にかけた常盤エリアを舞台した内乱とそこで成長していく孤児たちの物語であり(「孤児部隊の世界永久戦争」)、内乱で大量発生した孤児たちが様々な辛酸を舐めながら力を掴み、悲惨な現実のなかで成長する様子が描かれている。
 下巻では、ところを現在の多摩ニュータウンがスラム化した九竜シティに移し、そこに侵攻した孤児たちの部隊を構成員とする常陸軍(ヒタチグン)部隊と首都東京を拠点とする政府軍部隊との衝突を背景に、九竜シティに跋扈する民族マフィアやナショナリスト集団、そして上巻にも登場した月田桜子、椿子の双子の孤児姉妹を首領とした女性のみのマフィアパンプキン・ガールズと、東京を根城とする日本最大のマフィア集団、東京UF等との抗争劇となっている(「邪悪な許しがたい異端の」)。

 さて、感想であるが、正直なところ近未来小説としてはあまり買えない展開である。世界的な経済システムと国民国家システムが同時に崩壊し、世界中が内戦状態に陥るという設定は、現時点においてはリアリティに乏しい。ここで作者が故意に無視しているのが、戦争の経済性という問題であり、この小説で行われているようなドラスティックなまでに場当たり的な戦火と暴力の拡大は、経済問題として不可能な回答だと思われる。作者はカタストロフィックなディストピアを描きたかったのかもしれないが、私の考えでは、それはもう少し異なった形で訪れると思う。
 その一方、本作は寓意的にバブル時代の首都近郊を描いたものではないか、という印象を受けた。それは舞台とされている茨城県北部や多摩ニュータウンが土地価格が狂乱していく中で、「郊外」という新たな人工の廃墟を生み出していったプロセスを象徴するエリアであるとともに、その時生じた価値の紊乱を本作が反復していると思われるからである。
 なお、本作は形式的には三人称小説となっているが、その文体は時折内的独白を孕んだ一人称小説にくずおれていく。それは、所謂地の文(語りの文章)で顕著である。その意味では本作の文体は決してハードボイルドの文体ではない。

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家なき鳥、星をこえるプラネテス 常盤陽著, 幸村誠原作(講談社2007年11月15日)

 プラネテスに登場する「宇宙防衛戦線」の孤独なテロリスト、ハキム・アシュミードにフォーカスしたサイドストーリーとなる小説である。
 もっとも、プラネテスは、幸村誠の原作マンガと谷口悟朗のアニメーションではその構成と内容がかなり異なるのだが、本作はマンガ(「サキノハカという名の黒い花」)のストーリーに接続する話となっている。
 舞台はプラネテスで設定された2060~2070年代の石油資源が枯渇したアラビア半島南端、現在のイエメン辺りに成立した新興国の南アラブ連合。
 砂漠の行商(トラックの隊商)の一人息子として育ったハキムだが、突然の父の死により、隊商は解散することになり、航宙士を目指すハキムは、その道に繋がっていると思われる新興国の陸軍に入隊することになる。
 だが、そこでハキムは自らの生に対する大きな幻滅-モスリムとして望む単純な生の形式が、この軍隊という社会や自らが志す航宙士の世界では決して不可能なこと-を知る。そこは米国や日本等の先進国のマネーや欲望が骨の髄まで浸透してしまった社会であり、彼の孤独に呼応する人々や、生の充溢はどこにも見出すことができない世界だった。彼の孤独はその時世界への憎悪へと転換する。

 「サキノハカという名の黒い花」とは宮沢賢治の以下の詩に由来するものだが、本作はそのモチーフをイスラムとしての生き方に接続しようとした試みとなっている。だが、その試みが成功しているかどうかは微妙なところだ。


サキノハカといふ黒い花といっしょに
革命がやがてやってくる
ブルジョアジーでもプロレタリアートでも
おほよそ卑怯な下等なやつらは
みんなひとりで日向へ出た蕈のやうに
潰れて流れるその日が来る
やってしまへやってしまへ
酒を呑みたいために尤らしい波瀾を起すやつも
じぶんだけで面白いことをしつくして
人生が砂っ原だなんていふにせ教師も
いつでもきょろきょろひとと自分とくらべるやつらも
そいつらみんなをびしゃびしゃに叩きつけて
その中から卑怯な鬼どもを追ひ払へ
それらをみんな魚や豚につかせてしまへ
はがねを鍛へるやうに新らしい時代は新らしい人間を鍛へる
紺いろした山地の稜をも砕け
銀河をつかって発電所もつくれ

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幕末 維新の暗号 加治将一(祥伝社2007年4月21日)

 「フルベッキ写真」と呼ばれている幕末頃の集合写真がある。
 かつて新聞広告になったこともあるので、眼にされた方も少なくないと思うが、こちらである。

http://www.nextftp.com/tamailab/photo/verbeck.html

 この写真が最初に公開されたのは明治28年のことだそうだが、当初は「フルベッキが佐賀藩の学生と共に撮影した写真」とされていた。それが本格的に議論の対象となったのは、昭和49年に自称肖像画家の島田隆資が人物の比定を試み、西郷隆盛が写っている、と主張しはじめ、それが、やがて上記に示されているように、幕末維新の功労者が一同に会した、とんでもない写真という説が流布するようになった。そして、その中心に座しているのは、明治天皇であり、そこから明治天皇のすり替え説が飛び出すことになる。
 本書は、このフルベッキ写真の謎を追う、歴史ミステリー仕立ての小説のようなものである。展開としては、松本清張以来の歴史の謎を調べて歩くトラベルミステリーといった類で、私は読んでいないが、仄聞する「ダヴィンチ・コード」の柳の下のどじょうを狙ったマーケティングによって仕立てられた書物のように思われる。実際、そこそこ売れたようである。
 まあ、読み物としては面白いのだが、本書の中での人物同定の仕方は、お世辞にも褒められたものではなく、それによって構築されている著者の仮説の信憑性を減殺する結果となっている。それゆえの小説めいた構成なのかもしれないが、歴史は全て物語りとしてしか語りえないとしても、このやり方は少々あくどい。
 だが、写真自体は幕末・明治期のものであることに間違いはなく、そこに写っている侍たちの容貌には不思議な魅力がある。この写真についての本格的な歴史考察としては、本書への反駁として慶応義塾大学の高橋信一氏がものした以下の文章を挙げることができるが、この考察も十分なものではなく、この写真が未だ謎に満ちていることもまた確かである。

http://pro.cocolog-tcom.com/edu/2007/01/post_1dcc.html

 フルベッキについては、明治天皇につて「ミカド」(岩波文庫)という本を書いている米国人W.E.グリフィスに、Verbeck of Japan(「新訳考証 日本のフルベッキ:無国籍の宣教師フルベッキの生涯」村瀬寿代訳編、洋学堂書店、2003年1月)という著書があるようだが、残念ながら、本書は絶版状態である。
 本書では、このフルベッキがフリーメーソンのメンバーで、明治維新の影の立役者として非常に大きな働きをしたのではないか、という話になっているのだが...

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