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東西南北舎

東西南北舎は東西南北人の活動に伴い生成したテクスト群の集積地である。「東西南北人」は福岡の儒者亀井南溟が秘蔵した細川林谷篆刻の銅印。南溟の死後、息子の亀井昭陽から、原古処、原釆蘋、土屋蕭海、長三洲へと伝わり、三洲の長男、長壽吉の手を経て現在は福岡県朝倉市の秋月郷土館に伝承されたもの。私の東西南北人は勝手な僭称であるが、願わくば、東西南北に憚ることのない庵舎とならんことを祈念してその名を流用させて頂いた。

   

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長三洲の「内閣顧問木戸公行述」

先日、Yahoo!オークションで長三洲が執筆した木戸孝允伝の直筆原稿を入手した。





なんでこんなものがヤフオクにと思ったが、書肆の説明は以下のごとくであった。

++長三洲(肉筆稿本)村田峰次郎(序)『内閣顧問木戸公行述』、明治時代、半紙版、全約60丁。豊後日田の出身で、長州藩に在って奇兵隊に参加した長三洲が編纂した木戸孝允(桂小五郎)の伝記『内閣顧問木戸公行述』の稿本。巻頭にやはり旧長州藩士の山田顕義の蔵書印「山田氏蔵書印」。冒頭の村田峰次郎の序文から、全体は長三洲の肉筆になる木戸孝允の伝記の稿本で、それを村田が譲られ、雑誌に連載したことが分かる。文中には、村田の筆で雑誌の割り付けなどを指示する書入れあり。木戸孝允の伝記を探る根本史料。

これが如何なる雑誌に掲載されたものか、未だその形跡すら見出せていないのだが、『明治天皇紀 第四』(吉川弘文館、1970年)の264頁、明治10年9月19日の項に以下の記載がある。

++故内閣顧問木戸孝允の功勲を追賞して特に神道碑を賜はんとし、一等編修官川田剛に之れが撰文を命じたまふ、尋いで一等編修官長炗をして孝允の行状を調査せしめらる

してみると、これはこの勅命に基づいて三洲が調べた上で認めた木戸伝の原稿ではないかとも考えられる。村田峰次郎は幕末長州藩における天保の改革で名高い村田清風の孫で、東京外国語学校を出た後、太政官で官報編集に携わり、毛利家家史編纂所を主宰したり、史談会維新史料編纂会顧問を務めたり、防長史談会雑誌等にも記事を寄せたりした歴史家として知られている。ひとまず、その村田の序文というのが、以下のように記載されている。

++木戸松菊公伝
本編は三洲長炗氏の曽て起草せるものなり。余之を山田空齋伯より得たり。因より三洲翁改竄中の稿本たりと雖も、名公の偉勲明に大體の閲歴を窺ふに足れるを以て、漸次連載して更に購読諸君の参考に資せんとす。他日三條、岩、大久保諸公の事蹟と対照せられては事業の開闢時勢の変移自から瞭然たるべし。(句読点は引用者が付加)

序文に村田の署名はないが、書肆の説明では、この史料は、他の村田の幾つかの稿本類とともに出てきたようであり、おそらく真筆で間違いないと思われる。ただし、途中の2~3本は明らかに筆跡が異なるように見える(この点、私は素人なので、あてになりませんが)部分がある。ひょっとしたら誰かに代筆させた部分なのかもしれない。それにしても、こんなものが出てくるからヤフオク恐るべしである。

なお、三洲の記した本文全体については、他日いずれかで活字化して発表したいと思う。

さて、周知のように、木戸孝允は、明治10年(1877年)5月26日、西南の役の最中に病没している。

木戸孝允関連では、三洲には、この伝記以外にも、『草行松菊帖』の著書がある。それは、吉田松陰が安政5年1月23日に、高杉晋作の要請で、児玉士常が四国九州巡遊の旅に出る際に贈った言葉「送児玉士常遊九國四國叙」(岩波版松陰全集 第四巻、昭和9年12月、午戊幽室文稿〔安政五年〕11頁)という跋文を草書と行書の書体で認めて一書としたものである。題字、序文、跋文には、小松宮彰仁親王(仁和寺宮嘉彰)三条実美中村正直依田学海等の名が並んでいる。

この松陰の書を、なぜか木戸が秘蔵していたようだが、死の30日前、木戸は児玉奎卿(=士常「児玉少介真咸(天保7年10月~明治38年11月14日)、長州藩八組士惣兵衛真敏長男吉太郎 字士常 号奎海 内閣書記官」田村哲夫編『防長維新関係者要覧』(マツノ書店、昭和44年10月、44頁、上段)つまりは、松陰がこの書を贈った当の本人。この時の関係では児玉は木戸の部下に当たると考えられる。)にその書を返還している。木戸はその時病身をおして京都の天皇膝下で西南の役に係る統帥者(内閣顧問)として陣頭指揮を執っていた訳だが、この書を返還して後わずか一ヶ月で戦役の終結を見ることもなく亡くなってしまった。

三洲は、この時、最も長く木戸と親しみ、最も親密な付き合いをしてきた身として感ずるところがあってこの書を出版したと述べている。

では、この三洲と木戸孝允の関係はいつごろから始まったものなのだろうか。
残存する『木戸孝允日記』等の諸史料から窺えるのは、おそらく明治3年1月の所謂「奇兵隊の脱退騒動」以来のものと推定されるが、この騒動下における行状によって、長州藩政府の鎮圧側に立つ木戸の信任を得た三洲は、藩政府の「闔藩人民ニ告諭書」(石川卓美・田中彰編『奇兵隊反乱史料 脱退暴動一件紀事材料』(マツノ書店、昭和56年10月10日、1~4頁))の執筆を任され、叛乱鎮圧後、木戸とともに毛利元徳の随行団一員として長崎(この時上野彦馬が撮影した写真が残っていて、三洲(後列右から2人目)は木戸(後列右から4人目)とおそろいのチェック柄のシャツを羽織の下に着込んでいる。)を経て鹿児島を訪れている。



その後、山口に戻った三洲は下関の白石正一郎宅で婚礼を挙げた(『白石家文書』白石正一郎日記、国書刊行会、昭和56年6月30日、188頁、明治3年5月10日の記述を参照)後、上京し、おそらくは木戸の肝いりで官途につく。これ以後の事跡については、『木戸孝允日記』『木戸孝允文書』『木戸孝允関係文書』等の木戸側史料に頻々とその名が登場するので、関心のある向きはそちらを参照して頂きたい。

このように、現在確認できる史料からは、三洲と木戸との交渉は、この明治3年の脱退騒動以降のこととしか観れないのだが、それ以前に全く面識がなかったかどうか、どうも判然としないのである。なぜそう思うのか。それはこの三洲が『草行松菊帖』で記している最も長く付き合ったという述懐(原文は「余公於交最久」)があるからである。普通に考えると、村塾の松陰門下生たちの方が木戸との付き合いは長いはずだが、三洲がその事実を知らぬはずもなく、その上でこの言を記していることの意味は存外重いのではないか、と考えられるからである。

この間の関係について鍵を握っている人物がひとりいる。それは蕭海土屋矢之介という人物である。

土屋蕭海は、吉田松陰の重要な友人(村塾の門下生ではない)の1人として知られた人物であり、その文名は当時非常に高かったのだが、元治元年9月11日、まだ下関戦争の余燼浅からぬうちに36歳で病没している。そのためか、この人物についてはまともな伝記(僅かに、実弟、土屋平四郎の手になる10頁足らずの短い「土屋矢之介伝」が『野史台維新史料叢書第13巻』に収載されている)のひとつも刊行されていないし、研究論文すらも見当たらぬありさまである。

だが、この蕭海は江戸や京に詰めていることの多かった桂小五郎とは頻々と会っていたようだし、三洲とは、安政5年頃から知り合っており、蕭海から三洲に宛てられた手紙も幾つか残っている(中島三夫編・著『三洲長炗著作選集』中央公論事業出版、2003年12月25日)。そして、死の直前には、三洲の妹、三千と婚約までしている間柄である。

蕭海の死の翌日、『奇兵隊日記』には馬関から帰陣した三洲が、その報を受け、「一 長太郎萩へ罷越候事 但し土屋矢之助病死ニ依てなり」(『定本 奇兵隊日記 上』417頁、マツノ書店、1998年3月1日)の記事が残されている。

したがって、蕭海の日記でも残っていれば、この間の事情も詳らかにすることができるかもしれないのだが、今のところ、わずかに残る肥後巡遊中の日記や幾つかの論策中には、両者の関係を推し量ることができる材料は見出せていない。

なお、長三洲と木戸孝允の交友関係については、ながみみという方が非常に穿った考察をなさっていて興味深く読ませて頂きました。また、こちらには『草行松菊帖』の読み下しや現代語訳もありますので、ご参考までに。




ながみみさんのブログ記事
ちょう
三人組:長三洲と木戸孝允
長と木戸その2:ハンコ
草行松菊帖(読み下し文)
松菊帖〜意訳
吉富簡一と長
岩倉使節@USA〜ワシントン(81) 7/23-25 ワシントン出発準備
長岡つけたし〜燕喜館と豪農の家と長三洲
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No Title

  • by ながみみ
  • 2015/04/15(Wed)00:28
  • Edit
つたないブログにリンクして頂いてありがとうございます。
拙ブログにいただいたコメントの返信にも申し上げたとおり、このヤフオク出品はとても気になっていました。内容を発表していただくのを楽しみに待たせて頂きます。

ところで、東西南北人さまは長三洲研究家として知られる中島市三郎氏、三夫氏とご親戚でしょうか?
他の記事とは多少異質に感じましたので、穿ち目を発揮してしまいました。個人情報と思いますので、問題ありましたらこの部分は削除されてください。

No Title

  • by 東西南北人
  • 2015/04/15(Wed)12:54
  • Edit
コメントありがとうございます。

本文の公開は、現時点ではどういう形になるかわかりませんが、年内くらいには何とかしたいと思います。どうか気長にお待ちくださいませ。

ロック・コンサートでヘッドフォンやフロ

  • by XandraEdwards
  • 2018/11/22(Thu)09:46
  • Edit
自分が気になった時間を分析してオススメしてくるリマインド機能がある 1週間の気になった記事が一目で分かる分析レポートを出してくれる 記事の内容を解析して関連記事をオススメしてくれる. 人工知能(AI)に「奪われる仕事」「奪われない仕事」 奪われる仕事の特徴を見ていくと、シンプルに 人工知能(AI)にさせた方がコストがかからず、人間よりも正確に仕事をこなせる ような職種のものばかりです。 <a href=https://jamedbook.com/13233-2/>https://jamedbook.com/13233-2/</a> ペプシンと塩酸の強力な消化力で胃の壁自体も消化されそうに思われますが、実際にはそのようなことは起きません。それはこれらの胃の壁を攻撃する消化液(攻撃因子)に対して、これらから胃壁を守る機構(防御因子)がはたらいてくれるからです。

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