本書は、電通とリクルートを、広告業界における双頭と位置づけ、この両社が果たしてきた役割を通じて、戦後史を描き出そうとしたもの。但し、戦後史とはいっても、それは実質的にはリクルート登場(1960年)以降の広告史として語られている。なお、著者は1964年生まれの博報堂出身のマーケティング及び人材育成のコンサルタント。
著者は、まず電通が代表する、マスメディアを媒介とした広告を「発散志向広告」、リクルートが情報誌媒体を通じて培ってきた、インターネットの検索連動広告に直接接続するような広告を「収束志向広告」と規定し、戦後社会において広告情報を発散させる仕組みを築き上げたのが電通で、発散された情報を消費過程に収束させる仕組みを築いていったパイオニアがリクルートだと捉えている。したがって、ネット広告の前史においては、電通とリクルートの関係は相互補完的なものであり、共依存の関係としてうまく機能していたとみている。
発散志向広告がうまく機能した例として、著者は、1970年の「ディスカバー・ジャパン」(国鉄)や1972年のサントリーのキャンペーン「金曜日はワイン」の成功を挙げている。これらは大量生産・大量消費の高度成長期を象徴する広告だと思うが、著者の考えでは、これらの広告は「(消費主体の中に在る)辞書の書き換えと意味の定着」(p.32)を試みてきたものである。70年代、そのような発散志向広告の担い手として、電通は揺ぎ無い地位を築いていた。著者はこのような電通の在り様を「元栓のうまみ」と表現している。本書ではあまり触れられていないが、東京オリンピックや大阪万博、そして2002年の日韓ワールドカップのようなビッグイベントへの拘泥には、このような元栓を押さえ込もうという電通の戦略の在り様がうかがえる。
それに対して、リクルートは、新卒者のための求人広告情報を、紙媒体においてカタログ化(データベース化)するところからスタートしている(1962年「企業への招待」、1969年「リクルートブック」)わけだが、その転機は「住宅情報」の創刊によって訪れる。リクルートが「住宅情報」で行ったのは、紙媒体における不動産情報のデータベース化であり、以後、リクルートは、「毛細管の如き営業力」と、独自の「編集力」によって「人生の節目」に関わる様々な分野の情報を独自のフォーマットに落とし込んだ情報誌を立ち上げていくことになる。
そして80年代が訪れるが、著者は80年代を、選ぶことの自由が大衆化し、そのことによって大衆そのものが消失していく過程として捉えようとしている。そこで、俎上に上がるのは、山崎正和の「柔らかい個人主義の誕生」(1984年)、電通のプロデューサー藤岡和賀夫の「さよなら、大衆」(1984年)、そして、博報堂生活総合研究所による「「分衆」の誕生 ~ ニューピープルをつかむ市場戦略とは」(1985年)という三つの本であるが、本書では、これらは同じように80年代の社会の変化を捉えたもので、「「私」への回帰」(p.122)と「経済的要因による階層の出現」(p.125)として要約されている。著者は、ここに現在の広告における問題の端緒を見て取っている。しかし、この時代は未だインターネット以前の時代であり、分衆化した大衆にリーチする方法論が見出せない時代だった。
そして約10年後、インターネットが日本でも普及しはじめる。著者は、ここにもう一つの概念軸として、リアリティの三段階論を持ち出している。それはphysical reality、pseudo reality、virtual realityの三段階である(典拠は1989年のインディアナ大学におけるトーマス・シビオクの講演、p.149)。何やらラカンの現実界、想像界、象徴界を思わせる三分法だが、実際に本書で展開されているのは、二番目のpseudo realityのみで、著者はこれを「偽リアリティ」と用語化し、「承認された嘘を描き出す」発散志向広告において特徴的だった、人々の憧憬を煽り立てるリアリティと解している。これはベンヤミン風のアウラと解してもさほど違いはないと思うが、本書は、インターネット以後(そして、それは同時にバブル経済の崩壊以後)このような偽リアリティが広告から急速に消えうせていったとしている。
本書の結論は、氾濫する情報の海を渡っていくには、「地図と聖書」(p.208~)が必要だが、聖書は個々人の内面に求めていくしかない、という単純なものである。いささか肩透かしの結論であるとともに、後半の議論は、地図も聖書も生煮え状態でうまく料理されているとは言いがたい。
電通とリクルートという二大企業を軸に広告の変遷を示す視点は、広告の素人にも判りやすく面白いのだが、議論が拡散しがちなのは社会史としても精神史としても不徹底だからだと思う。精神史としてなら、この辺の議論は当今の社会学者あたりの書籍のほうがよほど上手に料理されていると思う。
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