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東西南北舎

東西南北舎は東西南北人の活動に伴い生成したテクスト群の集積地である。「東西南北人」は福岡の儒者亀井南溟が秘蔵した細川林谷篆刻の銅印。南溟の死後、息子の亀井昭陽から、原古処、原釆蘋、土屋蕭海、長三洲へと伝わり、三洲の長男、長壽吉の手を経て現在は福岡県朝倉市の秋月郷土館に伝承されたもの。私の東西南北人は勝手な僭称であるが、願わくば、東西南北に憚ることのない庵舎とならんことを祈念してその名を流用させて頂いた。

   
カテゴリー「歴史・史論」の記事一覧

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長三洲の「内閣顧問木戸公行述」

先日、Yahoo!オークションで長三洲が執筆した木戸孝允伝の直筆原稿を入手した。





なんでこんなものがヤフオクにと思ったが、書肆の説明は以下のごとくであった。

++長三洲(肉筆稿本)村田峰次郎(序)『内閣顧問木戸公行述』、明治時代、半紙版、全約60丁。豊後日田の出身で、長州藩に在って奇兵隊に参加した長三洲が編纂した木戸孝允(桂小五郎)の伝記『内閣顧問木戸公行述』の稿本。巻頭にやはり旧長州藩士の山田顕義の蔵書印「山田氏蔵書印」。冒頭の村田峰次郎の序文から、全体は長三洲の肉筆になる木戸孝允の伝記の稿本で、それを村田が譲られ、雑誌に連載したことが分かる。文中には、村田の筆で雑誌の割り付けなどを指示する書入れあり。木戸孝允の伝記を探る根本史料。

これが如何なる雑誌に掲載されたものか、未だその形跡すら見出せていないのだが、『明治天皇紀 第四』(吉川弘文館、1970年)の264頁、明治10年9月19日の項に以下の記載がある。

++故内閣顧問木戸孝允の功勲を追賞して特に神道碑を賜はんとし、一等編修官川田剛に之れが撰文を命じたまふ、尋いで一等編修官長炗をして孝允の行状を調査せしめらる

してみると、これはこの勅命に基づいて三洲が調べた上で認めた木戸伝の原稿ではないかとも考えられる。村田峰次郎は幕末長州藩における天保の改革で名高い村田清風の孫で、東京外国語学校を出た後、太政官で官報編集に携わり、毛利家家史編纂所を主宰したり、史談会維新史料編纂会顧問を務めたり、防長史談会雑誌等にも記事を寄せたりした歴史家として知られている。ひとまず、その村田の序文というのが、以下のように記載されている。

++木戸松菊公伝
本編は三洲長炗氏の曽て起草せるものなり。余之を山田空齋伯より得たり。因より三洲翁改竄中の稿本たりと雖も、名公の偉勲明に大體の閲歴を窺ふに足れるを以て、漸次連載して更に購読諸君の参考に資せんとす。他日三條、岩、大久保諸公の事蹟と対照せられては事業の開闢時勢の変移自から瞭然たるべし。(句読点は引用者が付加)

序文に村田の署名はないが、書肆の説明では、この史料は、他の村田の幾つかの稿本類とともに出てきたようであり、おそらく真筆で間違いないと思われる。ただし、途中の2~3本は明らかに筆跡が異なるように見える(この点、私は素人なので、あてになりませんが)部分がある。ひょっとしたら誰かに代筆させた部分なのかもしれない。それにしても、こんなものが出てくるからヤフオク恐るべしである。

なお、三洲の記した本文全体については、他日いずれかで活字化して発表したいと思う。

さて、周知のように、木戸孝允は、明治10年(1877年)5月26日、西南の役の最中に病没している。

木戸孝允関連では、三洲には、この伝記以外にも、『草行松菊帖』の著書がある。それは、吉田松陰が安政5年1月23日に、高杉晋作の要請で、児玉士常が四国九州巡遊の旅に出る際に贈った言葉「送児玉士常遊九國四國叙」(岩波版松陰全集 第四巻、昭和9年12月、午戊幽室文稿〔安政五年〕11頁)という跋文を草書と行書の書体で認めて一書としたものである。題字、序文、跋文には、小松宮彰仁親王(仁和寺宮嘉彰)三条実美中村正直依田学海等の名が並んでいる。

この松陰の書を、なぜか木戸が秘蔵していたようだが、死の30日前、木戸は児玉奎卿(=士常「児玉少介真咸(天保7年10月~明治38年11月14日)、長州藩八組士惣兵衛真敏長男吉太郎 字士常 号奎海 内閣書記官」田村哲夫編『防長維新関係者要覧』(マツノ書店、昭和44年10月、44頁、上段)つまりは、松陰がこの書を贈った当の本人。この時の関係では児玉は木戸の部下に当たると考えられる。)にその書を返還している。木戸はその時病身をおして京都の天皇膝下で西南の役に係る統帥者(内閣顧問)として陣頭指揮を執っていた訳だが、この書を返還して後わずか一ヶ月で戦役の終結を見ることもなく亡くなってしまった。

三洲は、この時、最も長く木戸と親しみ、最も親密な付き合いをしてきた身として感ずるところがあってこの書を出版したと述べている。

では、この三洲と木戸孝允の関係はいつごろから始まったものなのだろうか。
残存する『木戸孝允日記』等の諸史料から窺えるのは、おそらく明治3年1月の所謂「奇兵隊の脱退騒動」以来のものと推定されるが、この騒動下における行状によって、長州藩政府の鎮圧側に立つ木戸の信任を得た三洲は、藩政府の「闔藩人民ニ告諭書」(石川卓美・田中彰編『奇兵隊反乱史料 脱退暴動一件紀事材料』(マツノ書店、昭和56年10月10日、1~4頁))の執筆を任され、叛乱鎮圧後、木戸とともに毛利元徳の随行団一員として長崎(この時上野彦馬が撮影した写真が残っていて、三洲(後列右から2人目)は木戸(後列右から4人目)とおそろいのチェック柄のシャツを羽織の下に着込んでいる。)を経て鹿児島を訪れている。



その後、山口に戻った三洲は下関の白石正一郎宅で婚礼を挙げた(『白石家文書』白石正一郎日記、国書刊行会、昭和56年6月30日、188頁、明治3年5月10日の記述を参照)後、上京し、おそらくは木戸の肝いりで官途につく。これ以後の事跡については、『木戸孝允日記』『木戸孝允文書』『木戸孝允関係文書』等の木戸側史料に頻々とその名が登場するので、関心のある向きはそちらを参照して頂きたい。

このように、現在確認できる史料からは、三洲と木戸との交渉は、この明治3年の脱退騒動以降のこととしか観れないのだが、それ以前に全く面識がなかったかどうか、どうも判然としないのである。なぜそう思うのか。それはこの三洲が『草行松菊帖』で記している最も長く付き合ったという述懐(原文は「余公於交最久」)があるからである。普通に考えると、村塾の松陰門下生たちの方が木戸との付き合いは長いはずだが、三洲がその事実を知らぬはずもなく、その上でこの言を記していることの意味は存外重いのではないか、と考えられるからである。

この間の関係について鍵を握っている人物がひとりいる。それは蕭海土屋矢之介という人物である。

土屋蕭海は、吉田松陰の重要な友人(村塾の門下生ではない)の1人として知られた人物であり、その文名は当時非常に高かったのだが、元治元年9月11日、まだ下関戦争の余燼浅からぬうちに36歳で病没している。そのためか、この人物についてはまともな伝記(僅かに、実弟、土屋平四郎の手になる10頁足らずの短い「土屋矢之介伝」が『野史台維新史料叢書第13巻』に収載されている)のひとつも刊行されていないし、研究論文すらも見当たらぬありさまである。

だが、この蕭海は江戸や京に詰めていることの多かった桂小五郎とは頻々と会っていたようだし、三洲とは、安政5年頃から知り合っており、蕭海から三洲に宛てられた手紙も幾つか残っている(中島三夫編・著『三洲長炗著作選集』中央公論事業出版、2003年12月25日)。そして、死の直前には、三洲の妹、三千と婚約までしている間柄である。

蕭海の死の翌日、『奇兵隊日記』には馬関から帰陣した三洲が、その報を受け、「一 長太郎萩へ罷越候事 但し土屋矢之助病死ニ依てなり」(『定本 奇兵隊日記 上』417頁、マツノ書店、1998年3月1日)の記事が残されている。

したがって、蕭海の日記でも残っていれば、この間の事情も詳らかにすることができるかもしれないのだが、今のところ、わずかに残る肥後巡遊中の日記や幾つかの論策中には、両者の関係を推し量ることができる材料は見出せていない。

なお、長三洲と木戸孝允の交友関係については、ながみみという方が非常に穿った考察をなさっていて興味深く読ませて頂きました。また、こちらには『草行松菊帖』の読み下しや現代語訳もありますので、ご参考までに。




ながみみさんのブログ記事
ちょう
三人組:長三洲と木戸孝允
長と木戸その2:ハンコ
草行松菊帖(読み下し文)
松菊帖〜意訳
吉富簡一と長
岩倉使節@USA〜ワシントン(81) 7/23-25 ワシントン出発準備
長岡つけたし〜燕喜館と豪農の家と長三洲
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河津武俊著「肥後細川藩幕末秘聞」(2003年10月 弦書房)


 熊本県の北端に、北部、東部、西部の三方を大分県に取り囲まれた小国(おぐに)という地方がある。自治体としては小国町と南小国町に分かれるが、地勢としては阿蘇山の北東部の外輪山とその裾野を構成する地域であり、温泉好きな人には、黒川温泉があるところ、といえば通じるだろうか。
 江戸の幕末、この地方でキリシタン部落の虐殺事件があったという口伝があり、ふとした事でその話を耳にした日田市で開業医を営む著者が、その真偽を追求する調査に乗り出し、その探求の道行きを綴ったのが本書「肥後細川藩幕末秘聞」である。原著は1993年に講談社から出たものだが、その10年後に大幅な増補を施して再刊行されたものである。
 虐殺があったと伝えられているのは嘉永六年(1853年)、ペリーが浦賀に初めて来航した年である。その虐殺事件を最初に活字化して紹介したのは昭和35年に刊行された禿迷盧(かむろめいろ)「小国郷史」であり、次いで、石牟礼道子が「西南役伝説」で、それを取り上げている。両著が伝える内容はいずれも、長谷部保正という小国の古老が伝える口碑伝説が元となっているが、「西南役伝説」の語りがその雰囲気をよく伝えているので、孫引きになるが、抜粋して紹介しておこう。

++ そんとき、小国じゅうにお触れが出て、切支丹ば信仰すれば、こういう目に遭うぞちゅうわけでしたろう。うすねぎりの者どもを、処刑するけん見にゆくようにちゅうて、お触れが出たそうです。私の母がよう話よりました。
 その『うすねぎり』の生き残りの人は、泰次郎さんというお人で、そんとき四つじゃったそうです。
 (中略)
 うすねぎりの山ん上、松ノ木の下に竹矢来を結うてあって、検死の役人が向う鉢巻して、袴をあげち腰かけとって、切り方の役人が検死の役人の方にお辞儀してから刀を抜いて、三べん振って三べんめに、首落としましたそうです。そうすると、胴がふっと半分膝立てて立ちよったち、子供だったばってん覚えとるち云いよったです。
 立ち上がるとば後から穴の中に蹴り落としましたそうですもんな。小さい子供たちまで後手に縛って斬ったそうです。そうすると切口から血柱の空に向けち、さあーっとふきあがって。
 あすこあたりゆけば、今でも外道のひっつくちゅうて、そるから先、うすねぎりの付近にゃ、滅多にだあれも寄りつきまっせんです。
 (中略)
 何家族殺されましたやら、ひとつの塚にひと家族、斬られる前に、腰に縄つけられて曳かれて行って、自分たちの入る穴ば掘らせられたちゅうて、吉原あたりの年寄りたちがいいよりましたです。
 塚の数が十二ありますき、うすねぎりの集落ぜんぶ、十二家族だったとでしょうな、女、子供みんな殺されて、一家族が四、五人から五、六人として、五、六十人もおりましたろうか。かねてあんまり、近所の村とつきあいのなか村でしたき、はっきりしたことはわかりませんとです。塚の数だけが、大きいのや小さいのやとりまぜて、大きい塚は、大人数、小さい塚は少人数だったとでしょう。
 (中略)
 おいねさんという人がここの近くの江古尾(えこお)という集落の娘で、その嫁入り先に、どういう縁か泰次郎さんが養子に入っちょって、おいねさんが泰次郎さんを連れて里帰りしとったときに、その処刑があったわけでした。それで二人が処刑をまぬがれて、泰次郎さんはそんとき四つになっちょって、よう覚えちょるといいよったそうです。
 ほとぼりのさめて、二ヵ月ばかりしてからだったろうと云いおったそうですが。おっかさんに連れられて、そろっとうすねぎりに帰ったそうです。もちろん村には誰ぁれも居らんな、おっかさんが、あっち立ち、こっち立ちして塚に詣って、どこの家の塚かわからん塚のひとつずつにそこらの花摘んであげて詣って、わあわあ泣きなはるき、自分もわけわからんなり、悲しゅうして、いっしょになって泣いたのばよう覚えちょるち、泰次郎さんが酒呑めば泣いて、話よったそうです。
 (後略)(17~22頁、朝日選書版の「西南役伝説」では187~193頁)

 「うすねぎり」は臼根切とも書くようだが、正確には臼内切で、黒川温泉の西南2kmほどの場所であり、現在は人なき廃村で、その中心部にある千人塚と呼ばれる丘がこの悲劇の舞台と推定されている。
 著者は、この地を地元の郷土史家らとともに幾度か訪れ、この事件の実在をほぼ確信するに至るが、それを証明する文書は一切存在しない。この件の語り部である長谷部保正氏も、著者がこの事を知る以前に他界しており、手がかりは既に途絶えたかにみえた。
 ところが、臼内切の千人塚を案内してくれた小国の郷土史家の佐藤弘氏が、映画評論家の荻昌弘を知っているか、というところから、思いがけない話を始める。荻昌弘の曽祖父に荻昌国という肥後細川藩士がいて、彼は幕末に小国地方の郡代を勤めていたが、その時謎の自殺を遂げている、というのだ。
 この荻昌国、実は、肥後の実学党の領袖である横井小楠や元田永孚等の同志であり、水戸の会澤正志斎等とも文通する間柄であり、小楠とともに熊本実学党の双璧を成すといわれた人物である。
 そして、確かに幕末の文久二年(1862年)一月十八日に小国で自殺している。著者は、この事実の発見に我を忘れそうになる程の興奮を覚えるのだが、嘉永六年と文久二年とではその間に10年の歳月が流れている。このキリシタン虐殺と荻昌国の自殺に具体的にどのような関係があったのかは定かでない。以後著者は、この関連性の追及に心血を注ぎ、横井小楠や元田永孚の著書や多くの幕末史、キリシタン関連史の文献、果ては細川家が有する膨大な史料の山である永青文庫を紐解き、萩や水戸をも訪れ、文字通り東奔西走するのだが、確たる証拠は杳として見出せない。
 ただ、その探求の果てに著者は、昌国の自殺はのどを短刀で突いたものであり、その短刀は首の後ろを突き抜けていた事、自死の際に弟である荻源太宛の遺書を認めており、その弟は細川藩の追及を受け、遺書とともに水戸へと出奔し、水戸藩の保護を受けた事、そして、嘉永六年に荻昌国が江戸湾警備部隊の一員として一旦大坂まで出向き、ペリーが直ぐに去ったことから大坂で引き返し熊本に戻っている事実等を見出す。
 当事の熊本から大坂への道筋は、現在大分市鶴崎となっている肥後細川藩の飛び地を経由した瀬戸内の船旅であり、熊本から鶴崎への道筋は阿蘇、久住を抜けていくものであるから、この虐殺事件の現場の程近くを当時、荻昌国は往復しているのである。そして、肥後細川藩の先祖には、有名な切支丹である細川ガラシア夫人がいる。
 それらは、いずれも傍証たるに過ぎない歴史の断片だが、著者はこの断片から「悲愁の丘」という一片の物語を小説として紡ぎあげ、それを本書の巻末に添えている。それはあくまでも小説として、著者の想像力が築き上げた物語に過ぎず、幾分筆も走りがちのきらいを否めないが、この探求の道行きの果てに置かれると、さもありなんかとも思わせられるのである。

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吉田俊純「水戸学と明治維新」(吉川弘文館、2003年3月)

 一般に「水戸学」と言った時に思い浮かぶのは徳川光圀が編纂した「大日本史」によって基礎づけられた皇国史観一般ということになるのだろう。もちろん、それで間違いという訳ではないのだが、政治思想として水戸学が果たした役割を考えた場合、それでは正直何も判らない。
 本書は、後期水戸学の入門書であるとともに、水戸学がなぜ明治維新の推進力となり、にもかかわらず、水戸藩そのものは内訌戦で自滅してしまい、維新(戊辰戦争)の局面では何ら大きな役割を果たすことができなかったのかを、ある程度明らかにしてくれる。
 水戸学総体を考える場合、その基底に「大日本史」があることはもちろんだが、「大日本史」編纂期を前期水戸学と捉えるのであれば、幕末に尊皇攘夷思想を育んだのは、後期水戸学というべき思想展開であり、それを代表するのが、會澤正志斎と藤田東湖の二人の思想家である。しかし、この二人の思想家が説いたことには大きな差異があり、著者によるなら、後期水戸学は「双頭の二重構造」のもとにある。
 本書は會澤正志斎の「新論」と藤田東湖の「弘道館記述義」という両者の主著といえる論策の読解を軸に、幕末の水戸藩における政治改革の動きををからめて、後期水戸学がどのように展開していったかを略述するとともに、それらの水戸学が吉田松陰と横井小楠という幕末の二人の思想家にどのような影響を与えていったかまでを論じている。
 著者によると、文政八年(1825年)に著された會澤正志斎の「新論」は、「民志一」になれば欧米列強と対抗できると考え、天皇を祭主とする神道によって民衆を教化し、国民的統合の達成を説いている。ただし、この場合の尊王は祭主たる天皇を戴いて統一を達成することであり、天皇が政治的な主権者である必要はない。そして、その根底には正志斎の民衆不信感が横たわっている。また、「新論」は著者の正志斎からしてみれば、あくまでも幕藩体制を擁護する立場で書かれている。しかし、それがどう読まれたかとなると問題は自ずと異なってくる。勤王の志士たちは、「新論」をそうは読まなかったのだ。
 「新論」からおよそ20年後の弘化四年(1847年)に著された藤田東湖の「弘道館記述義」は、その間に行われた水戸藩の天保改革の成果が反映され、より民衆を信頼した記述となっている。そして、そのことは理論的には本居宣長の国学的思想を導入することになる。神代を古典に記されたままに信奉する態度が尊ばれ、尊王絶対化の思想が儒学と国学の複合体として強度を高めることになる。そして、以後の水戸学は、おそらく、この藤田東湖というフィルターを通してすべて読み替えられていったのだ。吉田松陰における水戸学の受容は正にそのメカニズムを示している。
 吉田松陰とは異なり、横井小楠は、水戸学に対して批判的である。小楠は朱子学の徹底化(実学化)を志向して尭舜の治を実現することを目指したのだが、その初期において、天保の改革を成し遂げた水戸藩はその治政の実現を仮託し得る対象であった。しかし、ペリー来航以後の水戸藩のありように小楠は大きく失望することになる。小楠はそこから水戸学批判、神道批判を展開し、尊皇攘夷思想と徹底的な対決姿勢を示すに至る。
 面白いのは、吉田松陰は藤田東湖と会っていない(會澤正志斎とは会っている)のだが、横井小楠は東湖の面識を得ており、しかも東湖の人物に魅了されていたらしいことである。小楠が批判する水戸学とは藤田東湖の思想以外の何ものでもないのだが、小楠はその東湖という人物を生前は称賛し、死後は愛惜している。著者によると小楠が東湖を正面から批判したことは一回しかないらしい。
 なお、本書の著者、吉田俊純は、2003年当時は東京家政学院筑波女子大学国際学部の教授、学生時代に遠山茂樹の指導で吉田松陰をテーマに卒業論文を書いたことが、その後の研究を水戸学にささげるきっかけになったそうである。

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天皇と戦争と歴史家 今谷明著(洋泉社2012年7月16日)

 本書の過半は平泉澄(ひらいずみきよし)という歴史家に割かれている。
 平泉は、戦間期から戦時中にかけて活動した歴史学者で、東大文学部の教授という席に収まりながら皇国史観の総本山と仰がれた人である。帝国陸軍との関係はかなり密接なものだったようで、二二六事件にも一枚かんでいたらしく、平泉の私塾である青々塾には学生とともに陸軍の過激派将校も出入りしていたらしい。また、1945年1月という既に敗色濃厚な時分に、かねてより親しかった陸軍大臣阿南惟幾に米本土爆撃を大真面目に進言したりしていたそうだが、8月、敗戦が確実とみるや掌を返すように和平派に靡き、それまで平泉を尊崇していた陸軍の過激派からも失望の目で見られるようになり、戦後は全ての公職を退き故郷の福井県に逼塞している。
 平泉の専門は日本中世史だが、その学風は史観とは裏腹に(というのが正に先入観というものだが)実証的なものであり、網野善彦に先駆けるような日本中世のアジール論という優れた研究成果を残しているそうである。
 その代表作が「中世に於ける社寺と社会との関係」(1922年)という著作になるのだが、本書に拠ると、その第二章(社寺勢力の根柢)は、後に黒田俊雄が展開する「権門体制論」の祖型となる、中世の権力構造は、公家・武家・社寺の鼎立状態にあるという黒田の主張のエッセンスを既に述べているが、黒田の方はあえてそれを無視して恰も自分が初めて唱えた説であるかのように書いているらしい。
 続く第三章(社会組織)がアジール論となる部分である。平泉はまず、アジールは、世界的かつ人類的な事象であり、文化人類学的な問題であると唱え、まずは西欧におけるアジール研究を紹介し、そこではアジールは「人のアジール」「所のアジール」「時のアジール」という三つの形態に分類されているとする。これに対して平泉のアジール論の特色は、古代以前に「自然人のアジール」という形態があったという主張にあり、自然人のアジールでは、王や首長の身体そのものがアジールとなり、それは、古代・中世の「人のアジール」とは異なる形態であるとしている点にある。
 そこから平泉は、日本におけるアジールを論じていくのだが、本書では平泉のアジール論を以下のようにまとめている。

++まず古代の対馬のアジールというのは朝鮮の「ソト」と同じで、自然人のアジールである。中世の寺入りはローマのキリスト教会と同じ性格のもので、政府の統括力に反比例して興る寺社のアジールである。これが戦国期にひじょうに大きくなった。要するに寺社というのは治外法権をもっており、社会に特殊の地位を占めている。(63~64頁)

 網野が「無縁・公界・楽」で平泉の研究を取り上げて以降、平泉のアジール論の評価が高まるに連れて、平泉の変節説というのが喧伝されるようになる。平泉は1930年、期間1年半程のヨーロッパ遊学に出ているのだが、平泉の皇国史観というのは、この留学を機に一種の回心が起こって獲得されたものであり、初期の平泉は大正デモクラシーの洗礼を受けたリベラルな研究者だったのではないか、という説である。
 本書の中心的な論点は、この平泉の変節という論説は論拠のない空論であることを明らかにする点にあり、それは平泉の全著作を丹念に読むことで、完膚なきまでに粉砕されている。平泉はそのはじめから徹底した皇国史観の持ち主であり、その実証的で優れた歴史研究はその皇国史観の持ち主によって成された、という訳である。

 本書の著者の今谷明は、京都生まれで京大の史学を出て、数年の官僚経験を経て研究者に転じ、現在は帝京大学の教授である。若い頃に網野善彦の謦咳にも接していたそうである。
 本書の残りの部分は、そのような著者からみた戦後の歴史家列伝となっている。取り上げられている歴史学者は原勝郎、喜田貞吉、本庄栄治郎、林屋辰三郎、福田徳三、三浦周行、石母田正、そして網野善彦である。

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永遠の維新者 葦津珍彦著(葦津事務所2005年6月)

 本書の著者、葦津珍彦(あしづうずひこ)については幾許かの解説が必要だと思う。かくいう私も近所の図書館で本書を手にとってみるまで、この人の存在は一切知らなかった。彼の経歴について詳しく知りたい方は以下のウィキペディアを参照して頂きたいが、誤解を恐れずにいうなら、彼、葦津珍彦は正統派右翼ナショナリストの思想家であり、本書はそんな彼がものした行動する政治思想家としての西郷隆盛論を主軸に構成された明治維新の政治史である。

ウィキペディア 葦津珍彦

 本書の原著は1975年(昭和50年)に出版されたものであり、更に実際に収載されている論文が執筆されたのは1960年代から1975年にかけてのことである。しかしながら当時としては当たり得る可能な史料の全てを精査し、しっかりとした論理で鮮やかな西郷像を描きあげている。当然のことながら、本書の執筆時点では毛利敏彦の「明治六年政変の研究」(1976年)は発表されておらず、さらには現行の「西郷隆盛全集」(1976年)も刊行されていなかった。したがって、本書において通説の《征韓論者西郷》の姿は完全に払拭されきってはいないが、その叙述は実質的にはそれを否定し得る一歩手前の地点まで肉薄している。
 本書は、Ⅰ維新の理想 未完の変革、Ⅱ孤戦と連合 内戦の政治力学、Ⅲ明治の精神 明治国家の形成とナショナリズム の三部から構成されている。
 このうちⅠ維新の理想 未完の変革の前半が「永遠の維新者 西郷隆盛と西南役」と題され、明治六年政変によって下野してから西南戦争に至る過程を論じているもので1975年に発表されたもの。Ⅰの後半は「明治新政権に対する抵抗の思想と潮流」と題して、維新の原動力となった復古攘夷思想が維新政権との対立との中でどのような思想流派を族生し、それらが西南戦争という魔女の大釜の中に流れ込んでいったかを論じている。
 Ⅱ孤戦と連合 内戦の政治力学は、一転して幕末の政治史を論じたもので、幕末における禁門の変(蛤御門の変)の意義と、その実質的イデオローグとなった久留米の神官真木和泉守について書かれた「禁門の変前後」と、薩長連合の成立史における西郷と木戸(桂小五郎)の確執を論じた「薩長連合の政治史」よりなる。
 Ⅲ明治の精神 明治国家の形成とナショナリズムは、明治国家の成立において、天皇制ナショナリズムが果たした役割の大きさを論じたものである。
 
 さて、論点は幾つもあるが、ここでは「永遠の維新者 西郷隆盛と西南役」で描かれた西郷像のみを簡単に紹介しておこう。
 西郷は、朝鮮使節派遣問題で太政官正院の廟議で岩倉や大久保と衝突した翌日、明治六年十月十五日、「朝鮮御交際の儀」と題する直筆の始末書を太政大臣宛に提出している。西郷はその始末書で韓国側に近来乱暴の風があるからといって兵力を派遣すべしとの議論があるが、それは国際儀礼上まったくよくない。まずは、交際を厚くすべく儀礼に則った使節を派遣すべきであり、先日の閣議でその使節は私に決まったのだから、是非私を派遣するよう取り計らって頂きたい、というものである。そこでは「征韓」という言葉は一切用いられていないどころか、一切の武力派遣を厳に慎むべきであるという主張がなされている。実際、西郷は下野の後、明治八年九月に生じた江華島事件を恥ずべき所業と断じている。
 しかし、この直後太政大臣三条実美が急病に倒れ、伊藤博文、大久保利通の策動による「一の秘策」に基づき、岩倉具視が太政大臣代理に就任し、天皇への閣議決定上奏に際して、代理人の岩倉が自分は閣議の決定に不賛成である旨を添えて上奏し、閣議決定の内容を天皇の勅命として覆してしまうという実質的なクーデターが行われる。これを受け、西郷以下、板垣、副島、江藤の4参議が辞任することになり、西郷は卒前と鹿児島に帰郷してしまう。
 西郷は鹿児島でいわゆる「私学校」を設立し、鹿児島士族の教育を行いながら天機を待つことになるが、その秋はついに来ない。西郷が待望した「天機」とは、東京在の有司専制政府破綻の危機であり、理義明徴な名分のもとに行動可能な機会を得ることである。西郷はこの時鹿児島に在りながら陸軍大将の任を解かれてはいない。西郷からみて有司専制政府は、放っておいても早晩瓦解の危機に直面すると思われた。
 だが、その有司専制政府にとって何よりも不気味なのは鹿児島で沈黙を続ける陸軍大将西郷隆盛である。明治六年の政変直後、大久保の挑発により佐賀の乱が起こり、一敗地にまみれた江藤新平は密かに鹿児島の西郷を訪ねるが、西郷は動かない。その後も秋月の乱、萩の乱、神風連の乱と士族叛乱が頻発するが、やはり西郷は動かない。そのような中、内大臣大久保利通の内命を受けた大警視川路利良(著者はこの2人の関係をスターリンとジェルジンスキーの関係になぞらえている)は、恐らくは大久保の意図に反して独断で西郷殺害の内意を与えた多数の間諜を鹿児島に放つ。その挑発に乗せられた私学校党の面々は川路の意図通りに暴発してしまう。
 西郷は、この暴発に怒り、暴発した私学校生徒らを叱りつけるが、その暴発の裏に政府要路の犯罪行為(西郷殺害をも含む)があることを知り、決起止むなしとして、鹿児島県庁に以下の届けを出して東京に向けた上京を宣言する。

++拙者共こと、先般御暇の上、非役にて帰県致し居り候ところ、今般政府え尋問の筋これあり、明○○当地発程致し候間、御含みの為この段届け出候。もっとも旧兵隊の者共随行し、多数出立致し候間、人民動揺致さざるよう、一層の御保護御依頼に及び候也。(102頁)

 そしてこの上京を阻止する形で政府軍との衝突が起こり、西南戦争が始まることになる。著者が注目するのは、この県庁への届出以外、西郷が一切の声明を出さず沈黙して事に処している点である。西郷はこの事に処して、決然たる声明文なぞ書きもしなければ、誰にも書かせもしなかった。その西郷の沈黙こそが重要なのだと説いている。なぜか、著者はその理由を二つ挙げている。

++政治政策の優劣を論じるのは自由であるが、その政策論争の自由と武力行使の自由ということは、まったく別であり、きびしい区別を要する。その区別につて、西郷には明白な思想がある。かれは、朝鮮にたいしても、相手が交わりを拒み戦いをもって臨むとの態度を明示しないかぎり武力の行使はできない、と主張した。いわんや国内においても、ただの政見政策の対立があるからとて武力の行使はできない、と西郷は信じている。(中略)そこに政府の高官が天下の公法をふみにじって挑戦してきた。公議公論の自由を奪い、私学校を分裂させ、しかも指導者を暗殺せよと命じたのである。これはもはや政策の相違優劣なのではなくして刑法犯罪である。(108~109頁)

 そして今一つが、皇権と有司専制政府との区別を明確にするためである。この時西郷は現行の有司専制は放伐されるべきと考えているが、それによって天皇制自体を放伐するに至ってはならないと考えていたため、天皇親政の名のもとに実施された有司専制政府の政策一々を言挙げすることをせず、事を「刑法犯罪問責」の一点に絞ったのである、というものである。
 西郷に同情的な福沢諭吉や徳富蘇峰、或いは「西南記伝」の著者等、後年の史家の悉くが、この声明なき決起に不満の意を呈しているが、そこにはそれらの文人には及びもつかない政治家西郷隆盛の深慮があるのだ、というのが著者の主張である。

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