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東西南北舎

東西南北舎は東西南北人の活動に伴い生成したテクスト群の集積地である。「東西南北人」は福岡の儒者亀井南溟が秘蔵した細川林谷篆刻の銅印。南溟の死後、息子の亀井昭陽から、原古処、原釆蘋、土屋蕭海、長三洲へと伝わり、三洲の長男、長壽吉の手を経て現在は福岡県朝倉市の秋月郷土館に伝承されたもの。私の東西南北人は勝手な僭称であるが、願わくば、東西南北に憚ることのない庵舎とならんことを祈念してその名を流用させて頂いた。

   

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永遠の維新者 葦津珍彦著(葦津事務所2005年6月)

 本書の著者、葦津珍彦(あしづうずひこ)については幾許かの解説が必要だと思う。かくいう私も近所の図書館で本書を手にとってみるまで、この人の存在は一切知らなかった。彼の経歴について詳しく知りたい方は以下のウィキペディアを参照して頂きたいが、誤解を恐れずにいうなら、彼、葦津珍彦は正統派右翼ナショナリストの思想家であり、本書はそんな彼がものした行動する政治思想家としての西郷隆盛論を主軸に構成された明治維新の政治史である。

ウィキペディア 葦津珍彦

 本書の原著は1975年(昭和50年)に出版されたものであり、更に実際に収載されている論文が執筆されたのは1960年代から1975年にかけてのことである。しかしながら当時としては当たり得る可能な史料の全てを精査し、しっかりとした論理で鮮やかな西郷像を描きあげている。当然のことながら、本書の執筆時点では毛利敏彦の「明治六年政変の研究」(1976年)は発表されておらず、さらには現行の「西郷隆盛全集」(1976年)も刊行されていなかった。したがって、本書において通説の《征韓論者西郷》の姿は完全に払拭されきってはいないが、その叙述は実質的にはそれを否定し得る一歩手前の地点まで肉薄している。
 本書は、Ⅰ維新の理想 未完の変革、Ⅱ孤戦と連合 内戦の政治力学、Ⅲ明治の精神 明治国家の形成とナショナリズム の三部から構成されている。
 このうちⅠ維新の理想 未完の変革の前半が「永遠の維新者 西郷隆盛と西南役」と題され、明治六年政変によって下野してから西南戦争に至る過程を論じているもので1975年に発表されたもの。Ⅰの後半は「明治新政権に対する抵抗の思想と潮流」と題して、維新の原動力となった復古攘夷思想が維新政権との対立との中でどのような思想流派を族生し、それらが西南戦争という魔女の大釜の中に流れ込んでいったかを論じている。
 Ⅱ孤戦と連合 内戦の政治力学は、一転して幕末の政治史を論じたもので、幕末における禁門の変(蛤御門の変)の意義と、その実質的イデオローグとなった久留米の神官真木和泉守について書かれた「禁門の変前後」と、薩長連合の成立史における西郷と木戸(桂小五郎)の確執を論じた「薩長連合の政治史」よりなる。
 Ⅲ明治の精神 明治国家の形成とナショナリズムは、明治国家の成立において、天皇制ナショナリズムが果たした役割の大きさを論じたものである。
 
 さて、論点は幾つもあるが、ここでは「永遠の維新者 西郷隆盛と西南役」で描かれた西郷像のみを簡単に紹介しておこう。
 西郷は、朝鮮使節派遣問題で太政官正院の廟議で岩倉や大久保と衝突した翌日、明治六年十月十五日、「朝鮮御交際の儀」と題する直筆の始末書を太政大臣宛に提出している。西郷はその始末書で韓国側に近来乱暴の風があるからといって兵力を派遣すべしとの議論があるが、それは国際儀礼上まったくよくない。まずは、交際を厚くすべく儀礼に則った使節を派遣すべきであり、先日の閣議でその使節は私に決まったのだから、是非私を派遣するよう取り計らって頂きたい、というものである。そこでは「征韓」という言葉は一切用いられていないどころか、一切の武力派遣を厳に慎むべきであるという主張がなされている。実際、西郷は下野の後、明治八年九月に生じた江華島事件を恥ずべき所業と断じている。
 しかし、この直後太政大臣三条実美が急病に倒れ、伊藤博文、大久保利通の策動による「一の秘策」に基づき、岩倉具視が太政大臣代理に就任し、天皇への閣議決定上奏に際して、代理人の岩倉が自分は閣議の決定に不賛成である旨を添えて上奏し、閣議決定の内容を天皇の勅命として覆してしまうという実質的なクーデターが行われる。これを受け、西郷以下、板垣、副島、江藤の4参議が辞任することになり、西郷は卒前と鹿児島に帰郷してしまう。
 西郷は鹿児島でいわゆる「私学校」を設立し、鹿児島士族の教育を行いながら天機を待つことになるが、その秋はついに来ない。西郷が待望した「天機」とは、東京在の有司専制政府破綻の危機であり、理義明徴な名分のもとに行動可能な機会を得ることである。西郷はこの時鹿児島に在りながら陸軍大将の任を解かれてはいない。西郷からみて有司専制政府は、放っておいても早晩瓦解の危機に直面すると思われた。
 だが、その有司専制政府にとって何よりも不気味なのは鹿児島で沈黙を続ける陸軍大将西郷隆盛である。明治六年の政変直後、大久保の挑発により佐賀の乱が起こり、一敗地にまみれた江藤新平は密かに鹿児島の西郷を訪ねるが、西郷は動かない。その後も秋月の乱、萩の乱、神風連の乱と士族叛乱が頻発するが、やはり西郷は動かない。そのような中、内大臣大久保利通の内命を受けた大警視川路利良(著者はこの2人の関係をスターリンとジェルジンスキーの関係になぞらえている)は、恐らくは大久保の意図に反して独断で西郷殺害の内意を与えた多数の間諜を鹿児島に放つ。その挑発に乗せられた私学校党の面々は川路の意図通りに暴発してしまう。
 西郷は、この暴発に怒り、暴発した私学校生徒らを叱りつけるが、その暴発の裏に政府要路の犯罪行為(西郷殺害をも含む)があることを知り、決起止むなしとして、鹿児島県庁に以下の届けを出して東京に向けた上京を宣言する。

++拙者共こと、先般御暇の上、非役にて帰県致し居り候ところ、今般政府え尋問の筋これあり、明○○当地発程致し候間、御含みの為この段届け出候。もっとも旧兵隊の者共随行し、多数出立致し候間、人民動揺致さざるよう、一層の御保護御依頼に及び候也。(102頁)

 そしてこの上京を阻止する形で政府軍との衝突が起こり、西南戦争が始まることになる。著者が注目するのは、この県庁への届出以外、西郷が一切の声明を出さず沈黙して事に処している点である。西郷はこの事に処して、決然たる声明文なぞ書きもしなければ、誰にも書かせもしなかった。その西郷の沈黙こそが重要なのだと説いている。なぜか、著者はその理由を二つ挙げている。

++政治政策の優劣を論じるのは自由であるが、その政策論争の自由と武力行使の自由ということは、まったく別であり、きびしい区別を要する。その区別につて、西郷には明白な思想がある。かれは、朝鮮にたいしても、相手が交わりを拒み戦いをもって臨むとの態度を明示しないかぎり武力の行使はできない、と主張した。いわんや国内においても、ただの政見政策の対立があるからとて武力の行使はできない、と西郷は信じている。(中略)そこに政府の高官が天下の公法をふみにじって挑戦してきた。公議公論の自由を奪い、私学校を分裂させ、しかも指導者を暗殺せよと命じたのである。これはもはや政策の相違優劣なのではなくして刑法犯罪である。(108~109頁)

 そして今一つが、皇権と有司専制政府との区別を明確にするためである。この時西郷は現行の有司専制は放伐されるべきと考えているが、それによって天皇制自体を放伐するに至ってはならないと考えていたため、天皇親政の名のもとに実施された有司専制政府の政策一々を言挙げすることをせず、事を「刑法犯罪問責」の一点に絞ったのである、というものである。
 西郷に同情的な福沢諭吉や徳富蘇峰、或いは「西南記伝」の著者等、後年の史家の悉くが、この声明なき決起に不満の意を呈しているが、そこにはそれらの文人には及びもつかない政治家西郷隆盛の深慮があるのだ、というのが著者の主張である。
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