熊本県の北端に、北部、東部、西部の三方を大分県に取り囲まれた小国(おぐに)という地方がある。自治体としては小国町と南小国町に分かれるが、地勢としては阿蘇山の北東部の外輪山とその裾野を構成する地域であり、温泉好きな人には、黒川温泉があるところ、といえば通じるだろうか。
江戸の幕末、この地方でキリシタン部落の虐殺事件があったという口伝があり、ふとした事でその話を耳にした日田市で開業医を営む著者が、その真偽を追求する調査に乗り出し、その探求の道行きを綴ったのが本書「肥後細川藩幕末秘聞」である。原著は1993年に講談社から出たものだが、その10年後に大幅な増補を施して再刊行されたものである。
虐殺があったと伝えられているのは嘉永六年(1853年)、ペリーが浦賀に初めて来航した年である。その虐殺事件を最初に活字化して紹介したのは昭和35年に刊行された禿迷盧(かむろめいろ)「小国郷史」であり、次いで、石牟礼道子が「西南役伝説」で、それを取り上げている。両著が伝える内容はいずれも、長谷部保正という小国の古老が伝える口碑伝説が元となっているが、「西南役伝説」の語りがその雰囲気をよく伝えているので、孫引きになるが、抜粋して紹介しておこう。
++ そんとき、小国じゅうにお触れが出て、切支丹ば信仰すれば、こういう目に遭うぞちゅうわけでしたろう。うすねぎりの者どもを、処刑するけん見にゆくようにちゅうて、お触れが出たそうです。私の母がよう話よりました。
その『うすねぎり』の生き残りの人は、泰次郎さんというお人で、そんとき四つじゃったそうです。
(中略)
うすねぎりの山ん上、松ノ木の下に竹矢来を結うてあって、検死の役人が向う鉢巻して、袴をあげち腰かけとって、切り方の役人が検死の役人の方にお辞儀してから刀を抜いて、三べん振って三べんめに、首落としましたそうです。そうすると、胴がふっと半分膝立てて立ちよったち、子供だったばってん覚えとるち云いよったです。
立ち上がるとば後から穴の中に蹴り落としましたそうですもんな。小さい子供たちまで後手に縛って斬ったそうです。そうすると切口から血柱の空に向けち、さあーっとふきあがって。
あすこあたりゆけば、今でも外道のひっつくちゅうて、そるから先、うすねぎりの付近にゃ、滅多にだあれも寄りつきまっせんです。
(中略)
何家族殺されましたやら、ひとつの塚にひと家族、斬られる前に、腰に縄つけられて曳かれて行って、自分たちの入る穴ば掘らせられたちゅうて、吉原あたりの年寄りたちがいいよりましたです。
塚の数が十二ありますき、うすねぎりの集落ぜんぶ、十二家族だったとでしょうな、女、子供みんな殺されて、一家族が四、五人から五、六人として、五、六十人もおりましたろうか。かねてあんまり、近所の村とつきあいのなか村でしたき、はっきりしたことはわかりませんとです。塚の数だけが、大きいのや小さいのやとりまぜて、大きい塚は、大人数、小さい塚は少人数だったとでしょう。
(中略)
おいねさんという人がここの近くの江古尾(えこお)という集落の娘で、その嫁入り先に、どういう縁か泰次郎さんが養子に入っちょって、おいねさんが泰次郎さんを連れて里帰りしとったときに、その処刑があったわけでした。それで二人が処刑をまぬがれて、泰次郎さんはそんとき四つになっちょって、よう覚えちょるといいよったそうです。
ほとぼりのさめて、二ヵ月ばかりしてからだったろうと云いおったそうですが。おっかさんに連れられて、そろっとうすねぎりに帰ったそうです。もちろん村には誰ぁれも居らんな、おっかさんが、あっち立ち、こっち立ちして塚に詣って、どこの家の塚かわからん塚のひとつずつにそこらの花摘んであげて詣って、わあわあ泣きなはるき、自分もわけわからんなり、悲しゅうして、いっしょになって泣いたのばよう覚えちょるち、泰次郎さんが酒呑めば泣いて、話よったそうです。
(後略)(17~22頁、朝日選書版の「西南役伝説」では187~193頁)
「うすねぎり」は臼根切とも書くようだが、正確には臼内切で、黒川温泉の西南2kmほどの場所であり、現在は人なき廃村で、その中心部にある千人塚と呼ばれる丘がこの悲劇の舞台と推定されている。
著者は、この地を地元の郷土史家らとともに幾度か訪れ、この事件の実在をほぼ確信するに至るが、それを証明する文書は一切存在しない。この件の語り部である長谷部保正氏も、著者がこの事を知る以前に他界しており、手がかりは既に途絶えたかにみえた。
ところが、臼内切の千人塚を案内してくれた小国の郷土史家の佐藤弘氏が、映画評論家の荻昌弘を知っているか、というところから、思いがけない話を始める。荻昌弘の曽祖父に荻昌国という肥後細川藩士がいて、彼は幕末に小国地方の郡代を勤めていたが、その時謎の自殺を遂げている、というのだ。
この荻昌国、実は、肥後の実学党の領袖である横井小楠や元田永孚等の同志であり、水戸の会澤正志斎等とも文通する間柄であり、小楠とともに熊本実学党の双璧を成すといわれた人物である。
そして、確かに幕末の文久二年(1862年)一月十八日に小国で自殺している。著者は、この事実の発見に我を忘れそうになる程の興奮を覚えるのだが、嘉永六年と文久二年とではその間に10年の歳月が流れている。このキリシタン虐殺と荻昌国の自殺に具体的にどのような関係があったのかは定かでない。以後著者は、この関連性の追及に心血を注ぎ、横井小楠や元田永孚の著書や多くの幕末史、キリシタン関連史の文献、果ては細川家が有する膨大な史料の山である永青文庫を紐解き、萩や水戸をも訪れ、文字通り東奔西走するのだが、確たる証拠は杳として見出せない。
ただ、その探求の果てに著者は、昌国の自殺はのどを短刀で突いたものであり、その短刀は首の後ろを突き抜けていた事、自死の際に弟である荻源太宛の遺書を認めており、その弟は細川藩の追及を受け、遺書とともに水戸へと出奔し、水戸藩の保護を受けた事、そして、嘉永六年に荻昌国が江戸湾警備部隊の一員として一旦大坂まで出向き、ペリーが直ぐに去ったことから大坂で引き返し熊本に戻っている事実等を見出す。
当事の熊本から大坂への道筋は、現在大分市鶴崎となっている肥後細川藩の飛び地を経由した瀬戸内の船旅であり、熊本から鶴崎への道筋は阿蘇、久住を抜けていくものであるから、この虐殺事件の現場の程近くを当時、荻昌国は往復しているのである。そして、肥後細川藩の先祖には、有名な切支丹である細川ガラシア夫人がいる。
それらは、いずれも傍証たるに過ぎない歴史の断片だが、著者はこの断片から「悲愁の丘」という一片の物語を小説として紡ぎあげ、それを本書の巻末に添えている。それはあくまでも小説として、著者の想像力が築き上げた物語に過ぎず、幾分筆も走りがちのきらいを否めないが、この探求の道行きの果てに置かれると、さもありなんかとも思わせられるのである。
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