2011年3月11日の地震発生からそろそろ3年半の時間が経過したことになるが、その鳴動によって露わとなったこの国の動揺は、何だかますますひどいことになっているような気がするのは決して私だけではあるまい。
震災後、雨後の筍の如く発表された震災関連本がブック・オフの低価格コーナーで次第に幅をきかせるようになった今日この頃、UCガンダムの福井晴敏がこんな本を書いていたのかと手にとったのが本書「震災後」である。サブタイトルとして「こんな時だけど、そろそろ未来の話をしようか」の言葉が小さな文字で添えられている。
「震災後」は、首都東京でこの災厄に遭遇した一家のその後の半年を描いた小説であり、帯には「リアルタイム・フィクション」の文字が記されている。ストーリーはほぼ忠実に実際の災厄以後の事件の経過を追いつつ、その中で見失われてしまった未来の欠損が人々の心の闇となって広がっていく様を描くとともに、いかにそこから立ち上がっていくべきかというテーマを追ったものとなっている。
主人公は福井と同世代のサラリーマン野田圭介。野田には、妻(美希)と一男(弘人)一女(千里)の子どもたちがあり、そして物静かだが得体のしれぬ父が同居している。その父はどうやら旧防衛庁の情報局に出向していた元警察庁のキャリア官僚で、危機に際して、意外な行動力と防衛庁時代に培った人的ネットワークを駆使して圭介たち一家を支えていく。
だが、災厄により未来に希望を持てなくなってしまった主人公の息子、中学生の弘人は自室に閉じこもってネットの情報をかき集めては、ふさぎの色を濃くする悪循環へと陥っていく。それを見かねた祖父(主人公の父)は一家を被災地へのボランティアへと駆り出すが、弘人にとってそれは寧ろ逆効果となってしまい、弘人はやがて画像処理によって「一ツ目」にされた赤ん坊の画像をフクシマベビーとしてネットに流す悪事に加担してしまうことになる。
かつての部下から孫の関与に関する情報を得た父は、その事を圭介に告げるが、その体は既に末期癌に蝕まれている。そして死の床で父は圭介に向ってこれまでの過ぎし日、来し方を訥々と語り始める。
ある程度事の露見を覚悟していた弘人は自首するが、少年かつ従犯ということで公式にはお咎めなしの処分保留となるが、その学校では有識者を招いた講演会が開かれることになる。
父からの遺言ともいうべき言葉を託された圭介は、その講演会で自分にも話をさせてもらうようにねじ込み、にわか仕込みの猛勉強を経て、未来への希望の種となる言葉を子どもたちに伝えようと話し始める。そして圭介が持ち出してくるのが、太陽光発電衛星。スペース・ソーラー・パワー・システム(SSPS)、宇宙空間で集めた太陽光を電力に変え、マイクロ波のビームに変換して、地球に送信するシステムだ。
JAXA SSPS だが、SSPSも、本格的な実用化はそれこそ50年先か100年先かといった技術であり、当座のやりくりはやはり原発に依存しなければどうにもならない代物である。圭介はSSPS実用化ための課題についても一つ一つ丁寧に説明していくが、そこで女性のPTA会長からの横やりが入る。それは自然を屈服させようとする男の傲慢だ、その先に道はない、行き止まりなのだ、ということを思い知らされたのが今回の災害ではないか、と。
圭介は一瞬たじろぐが、その地点から繰り出される言葉は最早希望への祈りというしかない。
祖父-父-息子と三代に亘る構図はそれこそUCガンダムそのままといってもいいが、彼らの叫びもまたそれと相同なものといって良い。
ただ、ここで少し異なるのは、ここで紡ぎだそうとされている希望が、極めて男性的な観念性に起因するものであることに自覚的な視点を描出している点だろう。話を終えた後、父の死を確認し、漸く息子と二人で話す機会を得た圭介は、弘人に向かって「バカなもんだ、男なんて」と嘯いてみせる。そして、圭介は逃げ場を失くした父の立場を自覚していくことになる。
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