一般に「水戸学」と言った時に思い浮かぶのは徳川光圀が編纂した「大日本史」によって基礎づけられた皇国史観一般ということになるのだろう。もちろん、それで間違いという訳ではないのだが、政治思想として水戸学が果たした役割を考えた場合、それでは正直何も判らない。
本書は、後期水戸学の入門書であるとともに、水戸学がなぜ明治維新の推進力となり、にもかかわらず、水戸藩そのものは内訌戦で自滅してしまい、維新(戊辰戦争)の局面では何ら大きな役割を果たすことができなかったのかを、ある程度明らかにしてくれる。
水戸学総体を考える場合、その基底に「大日本史」があることはもちろんだが、「大日本史」編纂期を前期水戸学と捉えるのであれば、幕末に尊皇攘夷思想を育んだのは、後期水戸学というべき思想展開であり、それを代表するのが、會澤正志斎と藤田東湖の二人の思想家である。しかし、この二人の思想家が説いたことには大きな差異があり、著者によるなら、後期水戸学は「双頭の二重構造」のもとにある。
本書は會澤正志斎の「新論」と藤田東湖の「弘道館記述義」という両者の主著といえる論策の読解を軸に、幕末の水戸藩における政治改革の動きををからめて、後期水戸学がどのように展開していったかを略述するとともに、それらの水戸学が吉田松陰と横井小楠という幕末の二人の思想家にどのような影響を与えていったかまでを論じている。
著者によると、文政八年(1825年)に著された會澤正志斎の「新論」は、「民志一」になれば欧米列強と対抗できると考え、天皇を祭主とする神道によって民衆を教化し、国民的統合の達成を説いている。ただし、この場合の尊王は祭主たる天皇を戴いて統一を達成することであり、天皇が政治的な主権者である必要はない。そして、その根底には正志斎の民衆不信感が横たわっている。また、「新論」は著者の正志斎からしてみれば、あくまでも幕藩体制を擁護する立場で書かれている。しかし、それがどう読まれたかとなると問題は自ずと異なってくる。勤王の志士たちは、「新論」をそうは読まなかったのだ。
「新論」からおよそ20年後の弘化四年(1847年)に著された藤田東湖の「弘道館記述義」は、その間に行われた水戸藩の天保改革の成果が反映され、より民衆を信頼した記述となっている。そして、そのことは理論的には本居宣長の国学的思想を導入することになる。神代を古典に記されたままに信奉する態度が尊ばれ、尊王絶対化の思想が儒学と国学の複合体として強度を高めることになる。そして、以後の水戸学は、おそらく、この藤田東湖というフィルターを通してすべて読み替えられていったのだ。吉田松陰における水戸学の受容は正にそのメカニズムを示している。
吉田松陰とは異なり、横井小楠は、水戸学に対して批判的である。小楠は朱子学の徹底化(実学化)を志向して尭舜の治を実現することを目指したのだが、その初期において、天保の改革を成し遂げた水戸藩はその治政の実現を仮託し得る対象であった。しかし、ペリー来航以後の水戸藩のありように小楠は大きく失望することになる。小楠はそこから水戸学批判、神道批判を展開し、尊皇攘夷思想と徹底的な対決姿勢を示すに至る。
面白いのは、吉田松陰は藤田東湖と会っていない(會澤正志斎とは会っている)のだが、横井小楠は東湖の面識を得ており、しかも東湖の人物に魅了されていたらしいことである。小楠が批判する水戸学とは藤田東湖の思想以外の何ものでもないのだが、小楠はその東湖という人物を生前は称賛し、死後は愛惜している。著者によると小楠が東湖を正面から批判したことは一回しかないらしい。
なお、本書の著者、吉田俊純は、2003年当時は東京家政学院筑波女子大学国際学部の教授、学生時代に遠山茂樹の指導で吉田松陰をテーマに卒業論文を書いたことが、その後の研究を水戸学にささげるきっかけになったそうである。
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