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東西南北舎

東西南北舎は東西南北人の活動に伴い生成したテクスト群の集積地である。「東西南北人」は福岡の儒者亀井南溟が秘蔵した細川林谷篆刻の銅印。南溟の死後、息子の亀井昭陽から、原古処、原釆蘋、土屋蕭海、長三洲へと伝わり、三洲の長男、長壽吉の手を経て現在は福岡県朝倉市の秋月郷土館に伝承されたもの。私の東西南北人は勝手な僭称であるが、願わくば、東西南北に憚ることのない庵舎とならんことを祈念してその名を流用させて頂いた。

   

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中村光夫『贋の偶像』―長田秋濤をめぐって Ⅰ

長田秋濤は完全に忘れられている。
 
 このように書き出される『贋の偶像』(筑摩書房、1967年6月)は第20回野間文芸賞を受賞した中村光夫の小説だが、長田秋濤は、明治時代に活動した実在のフランス文学者、劇作家、翻訳家である。ただし晩年には、伊藤博文との繋がりを利用して、政治的な南進論を提唱し、シンガポールを根拠地としてジョホール国でゴム園を経営したりもしている。なお、中村光夫には『明治文学史』(筑摩書房、1963年8月)の著作もあるが、その中には長田秋濤の名はみられない。

 『贋の偶像』は、この長田秋濤を研究する「新井教授のノート(旧かなづかいの文体で書かれている)」と、その弟子の「大学院生佐川の手記(新かなづかいの文体で書かれている)」が、ほぼ交互に並べられた体裁をとって展開されている。小説の形式を借りた一種の長田秋濤論になっているのだが(この点については小谷野敦がアマゾンの書評で、評論として書かなかったことを腐しているが、寧ろ、そのおかげで『贋の偶像』は、壮年期(56歳)の中村光夫の「です・ます体」以外の評論文-あくまでも小説の作中人物が認めた手記としてだが-が読める珍品となっている)、長田秋濤はまさに忘れ去られた人物であり、しかも、文学的に見た場合、失敗者として位置づけるしかないような存在のようである。実際、新井教授のノートが描き出す秋濤像は、失敗した文学者(文芸者)という像に拘泥したものとなっており、その形姿の叙述を通して描き出されているのは、中村光夫が『風俗小説論』(1950年)以下の批評で展開している、日本の自然主義文学批判、私小説批判の補遺というべきものになっている。秋濤の文学的活動期の中心は、日本文学における自然主義の勃興(即ち田山花袋の『蒲団』が刊行された明治40年(1907年))の直前の時期であり、尾崎紅葉に代表されるような江戸期の戯作と西洋文学を範とする未分化なロマンティシズムが主流文学の地位を占めていた時代にあたるが、秋濤の文学的生涯は、半ば紅葉と心中する形で、この日本的自然主義の勃興を前にその波濤の中に埋もれていく。

 小説『贋の偶像』の現在時制における主要な登場人物は、新井教授、大学院生佐川と、新井教授の妻、新井教授の大学の同僚で国語学者の大谷博士、そして長田秋濤の姪として登場する柳かね子の5人であり、小説のプロットは、新井教授を結節点として、これら5人の登場人物間における妻・夫・愛人、研究者・その弟子・その同僚、そして秋濤を論じる2人の研究者と秋濤の姪といった幾つかの三角関係が交錯する形で提示され、愛と文学の不毛性と不可能性がライトモチーフとなって描かれているが、その効果は限定的なものに留まっている。
 そういった意味では、やはり本書の眼目は、断片的に提示されている長田秋濤という人物の姿だろう。そして、そこには今一人の登場人物として生前の秋濤を知る生き証人が配されている。それが「かつての秋濤追悼のために結成された秋濤会の世話人であり、いまも秋濤の弟子と名乗る安川老人」(『贋の偶像』8頁)である。ちなみに、この安川老人のモデルは、小田光雄氏のブログ「古本夜話」によると、安谷寛一というアナーキズム系のフランス語翻訳者、出版人のようである。

 新井教授や、その弟子である佐川の手記という形で論及される長田秋濤の人物像については先に少し触れたが、その生涯は、本書でみる限り、存外に興味深いものとなっている。本書において秋濤は、まず、フランスからの新帰朝者で、明治文壇の寵児と目された人物として華々しく登場する。

 だが、秋濤の来歴を語るには、まず秋濤の父、長田銈太郎に触れておく必要があるだろう。長田銈太郎の生涯については、大学院生佐川の「長田銈太郎に関する覚書」として、銈太郎の墓碑銘の発見をきっかけとした佐川の調査によって明らかにされた事項として紹介されている。それによると、長田銈太郎は嘉永二年(1849年)徳川家の直参旗本の家に生まれ、幼にして江戸の開成所にフランス語を学び、慶応元年(1865年)頃、フランスと接近する幕府の若き通弁となったようである。しかし、早晩幕府は瓦解し、明治初年の銈太郎は静岡に引退するが、やがて、その才を新政府に認められた銈太郎は、明治4年(1871年:廃藩置県や岩倉使節団出発の年であり、普仏戦争とパリ・コミューンの年でもある)、兵部省からアメリカに派遣されることになる。なお、秋濤(忠一)はこの明治4年に生まれている。
 さらに銈太郎は、翌年には外務三等書記官としてパリの日本公使館に勤務することになる。銈太郎はその後明治7年に帰朝、明治9年には二等書記官としてロシアに赴任、11年には帰国し、宮内書記官兼太政官格大書記官として明治天皇の側近となる。やがて、明治19年には山県有朋の計らいで内務省参事官に転進、明治22年(1889年)には愛知県知事の内命を受けていたが、赴任を前に事故で急死してまう、享年41歳だった。
 なお中村光夫には、成島柳北の日記として仮構された『パリ・明治五年』という短編小説があるが(『短編集 虚実』に所収、新潮社、昭和45年(1970年)5月、初出は昭和43-44年頃の新潮社の雑誌『波』)、これに若き日の長田銈太郎が柳北の眼を通す形で登場している。『柳橋新誌』の著者として知られる柳北は旧幕府の大身だが、瓦壊後は故あって平民籍となり、東本願寺法主の大谷光瑩現如の欧州視察随行員として明治5年(1872年)からその翌年にかけて欧米を廻っていて、このときの紀行文が『航西日乗』(『明治文化全集 16巻』吉野作造編、日本評論社、1927-1930年に所収)としてまとめられている。中村の『パリ・明治五年』は、これを下敷きにパリ滞在時の柳北の動静を、現代文の日記形式として、その内面を大胆に綴ったものである。

 秋濤は、この父の遺志と本人の希望により、法学・政治学専攻の留学生として、最初英国のケンブリッジを訪れることになる。しかし、法律や政治には全く関心が持てなかったようで、ケンブリッジではすぐに喧嘩沙汰を引き起こして自主退学、日本の後見人(平山成信大森鍾一)を動かし、外務省から官費の法律留学生の地位を得ると、パリのソルボンヌ大学に籍をおく。
 そのようにしてパリに居を構えた秋濤は、彼の生涯を決定するフランスの演劇と出会うことになる。新井教授のノートにおいて、秋濤のパリ滞在は1889-90年から1893-4年と推定されているが、当時のフランスの演劇界の状況は次のように論じられている。

++ 一八九〇年から数年間のフランス演劇は、帝政時代の俗化と沈滞、それにつづく普仏戦争の痛手からやうやく立ち直つて、充実した頽廃の時期をむかへつつあつた。
 世紀末の行詰りと、転換の必要は、他の文化の諸部門と同様に感じられてゐたが、その現状のままでも、演劇の魅力は、しつかり大衆を捕へてゐた。
 第二帝政時代を支配したオージエ、デュマの社会劇、問題劇、ラビッシュ、メイヤック、アレヴィの軽喜劇などは依然上演されてゐたが、帝政末期の皮相な演劇娯楽化の風潮は、新しい共和国の誕生とともに払拭され、抒情的な演劇がさかんに上演される反面、楽屋の風儀も、帝政時代にくらべれば粛清され、演劇は敗戦の荒廃から立ち直らうとする社会の真面目な関心の対象たる地位をとりかへしてゐた。
 演劇において、芸術が市民生活の一部に融けこむといふ奇蹟が、ブルジョワ社会の爛熟によつて可能になつた時代であつた。一般的に云つて、芸術性と社会性との調和が、フランス演劇の(ひいてはフランス文学全体の)特色であるとすれば、一八九〇年代は、フランス演劇が、もつともフランス的であり得た時期のひとつであつた。(中略)
 ただこの時期に生産された演劇が、十七世紀の古典劇、あるひは十九世紀初頭のロマンチック時代にくらべて遜色がないかといふと、残念ながら、さうは行かないやうである。ちやうど、十九世紀末のヨーロッパの建築界を風靡した擬古典的様式が、結局、古代やルネッサンス建築の模造品の域をでなかつたやうに、ベック、キュレル、リュシパン、パイユロン等の劇は、智的な構成と、時勢に適切な内容によつて、ラテン民族の才華の発露を全ヨーロッパに迎へられたが、真の天才の作品とちがつて、時の流れに抗する力はもたなかつた。彼らの劇は劇場における看衆を支配する力を持つが、個々の看衆の心を動かす力を持たず、韻文で書かれた場合にも、劇と文学をつなぐ本質的な詩を欠いて居り、いはば型を踏襲してつくられた模作劇であつた。しかし、一国の、またはある時代の演劇の流れの大部分は、かういふ作品で形成されるのが通例であらう。(『贋の偶像』100-102頁)

 このようなパリの演劇の洗礼を浴び、凡そ3年間の滞在を経て帰国した秋濤は、明治27年(1894年、日清戦争開戦の年に当たる)に、坪内逍遙が創刊した早稲田文学にフランス演劇の紹介文を発表する。秋濤23歳のこの仕事は、新井教授のノートにおいて「これは同誌の第六十号から六十二号まで、連続三回にわたつて掲載された、質量ともに堂々たる紹介文で、これだけのフランス演劇にかんするまとまつた知識をあたへてくれる文章は、その後明治時代を通じてみられなかつたのではなかろうか。」(『贋の偶像』21頁)と評価され、秋濤のフランス文学研究の意義は、次のように論述されている。

++ 彼のフランス文学研究とはつまり演劇の研究であつたが、ここで大切なのは、彼がコメディ・フランセーズの「内幕」にどれほど通じてゐたかではなく、彼がフランス演劇の文学性、あるひは演劇のフランス文学において占める地位を、はつきり把握してゐたことである。演劇が文学的内容を持つとは、結局それが知識階級の生活と溶けあつてゐることであり、ベルグソンの「笑」におけるモリエールのやうに、哲学者が思索の材料に演劇をそのまま使へることである。フランス人は思索の態度が演劇的であるせゐか、演劇は哲学的であり、文学のなかに演劇がしめる比重は、他のヨーロッパ諸国に比しても大きい。
 秋濤が若い肌で感じてきたのは、このフランス演劇の社会性及び思想性であつた。心の一部で馬鹿馬鹿しいと思はずに舞台に感動できる演劇、さうしたものに初めて接して彼は熱狂した。(『贋の偶像』24-25頁)

 秋濤はこのフランス演劇紹介記事によって逍遙に認められる形となり、早稲田文学第六十二号に掲載される「演劇改革談」と題された、坪内逍遙、依田学海山田美妙との座談会に参加することになる。そして、この座談会は世評をよび、秋濤は学海の後継たる演劇改革論者として注目を集める。このような秋濤を捉えていた熱情が「一八九〇年代のパリの土壌に咲いた演劇を、明治二十年代の東京に移さうとした」(『贋の偶像』100頁)ことであるが、新井教授のノートは、その秋濤の試みが無謀であることを予断しつつも、単に法律や政治のような堅苦しいものを苦手とする道楽者が、3年間のパリ滞在とそこで出会った演劇への熱中を経て、その道楽半分の気持ちを、やがて真剣な熱情へと変えていった道筋を探っていく。
 帰朝後の秋濤のフランス演劇の紹介は、やがて、幾つかの戯曲の翻訳や翻案、そしてそれらの上演という仕事につながっていく。秋濤がそれらの仕事の対象としたフランスの劇作家は、ジャン・リシュパンエドゥアール・パイユロンフランソワ・コッペヴィクトリアン・サルドゥアレクサンドル・デュマ・フィス等々といった諸作家になるが、彼らの作品は自然主義的な合理性を持ちながら、台詞は耳に心地よい韻文に美化された伝統的な形式をとっており、それが秋濤には合理化された歌舞伎として映ったようである。そして、秋濤のフランスでの経験を論じる新井教授のノートの結論部は次のように記されている。

++ 明治二十二年にヨーロッパの土を踏んだ秋濤は、後に我国で云はれる意味での近代劇はもちろん、近代文学について何ら明瞭な観念は持つてゐなかつた。
 この年に二葉亭が「浮雲」を中絶し、鴎外が「舞姫」を脱稿したことを思へば、彼がこれら近代文学の先駆者たちとまつたく別の種族にぞくしてゐたことは明らかである。
 彼の文学への志向は――もしさういふものがあつたとしても――法律や政治のやうな「堅苦しいもの」が自分に向かないといふ気持からきた、消極的な道楽半分のものであつた。
 パリの三年間の滞在が彼にもたらしたものはこの道楽半分の気持を真剣な熱情にかへたことであつた、といふと彼は苦笑するかも知れないが、とかくこの道楽に深入りしすぎて、それで身を立てるほかなくなると同時に、そこに誇りと生甲斐を見出した。(『贋の偶像』124頁)

++ 彼が西洋に見出した演劇の理想像が、結局合理化された歌舞伎であつたことが、彼に帰朝後の演劇改良を、ある意味ではやさしい仕事と思ひあやまらせたのも事実であろう。
 実際には、彼の考へた大衆性があり、知識階級の批判に堪へる劇の制作は、我国においてもつともむづかしい仕事であつた。我国の演劇近代化の歴史は、それが不可能であることを証明したといつてもよい。そこでは伝統と近代がそれぞれ水のなかの油のやうに小さく固まつてゐるのである。(『贋の偶像』126頁)

++ 日本の自然主義とフランスの自然主義は多くの点で性格を異にするが、人間を本能の奴隷と見、そこから自由意思を一切閉めだす反面、人生から排除された精神の高貴な衝動をすべて芸術の属性と考へ、そこに人類のエリットの生きる道を見出す点では共通していゐる。自然主義がロマンチシズムの変形である所以もここに存する。
 秋濤が自然主義の感化をうけ、それを通じて芸術家の自覚に達しなかつたといふ事情は、したがつて、彼が自然主義から破壊的影響だけを受け、そこに止まつたのを意味する。
 人生が無価値であり、ただ昆虫の世界と同じ意味で我々の観察の対象になるものならば、作家の精神は、この平板な事実を、できるだけ美しい文体に表現するほかに、意味のある労働を見出せぬわけである。
 事実、これが、ゴンクールフロオベエルの美学であつたが、秋濤の自然主義からうけた感化にはこの第二段が欠けてゐた。
 これは彼がかうしたストイシズムとは別の形で、彼なりのロマンチシズムを持つてゐたからであらうが、当然この感化は、彼の芸術ではなく生活に現はれた。
 彼が自然主義思想(いはゆる無理想、無解決、あるひは生活の内面における道徳律の欠如)によつてその生活を、後世の自然主義者より甚しい形で破壊されながら、文学史の上では旧派の文士に分類されてゐるのはそのためである。
 彼はこの矛盾をパリで背負ひこんで帰つてきた。(『贋の偶像』128頁)

 ここに論じられているように、新井教授の描く秋濤は、フランスで自然主義の洗礼を浴びながら、芸術家としての自覚に達することなく、演劇へのロマン主義的な熱情のみ抱えて帰朝することになった悲劇の文学者像を暗示するものとして提示されている。事実、秋濤の帰朝後の文学的活動は自ら劇作家として立つといったものではなく、あくまでもフランス演劇の紹介者であり、翻訳・翻案を通した媒介者の役割を出るものではないようだ。これが、本書が『贋の偶像』と題されている所以なのだろうが、その一方、秋濤がいま少し文学的な探求者としての自覚と才能とを持ち合わせていたら、その後の明治文学の展開は、いま少し異なった様相を呈したいたのではないかという、実現しなかった可能性が惜しまれてもいる。
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