ここ最近、フクシマの被災地を回っている。
これまで、飯館村、相馬市、伊達市、いわき市、郡山市と回ってきた。
そんな合間に、関曠野の「フクシマ以後 エネルギー・通貨・主権」や加藤典洋の「3.11―死に神に突き飛ばされる」等を読んできた。
それぞれに興味深い議論が展開されており、特に加藤が書き下ろしている「祈念と国策」は力作で、説得される部分も多いのだが、そこから新しいヴィジョンが見えてくるような議論ではない。
そういう意味では、この東の議論は、新しい夢を具現しており、なかなかに得がたい達成を示していると思う。
本書は、1997年の「サイバースペースはなぜそう呼ばれるか」から、「動物化するポストモダン」、「情報自由論」と重ねられてきた東浩紀の情報社会論のひとつの到達点であり、未来への希望が込められたエッセイ(試み)である。
一般意志とは、ルソーが社会契約論で提起している主権を担う意志を概念化したもので、諸個人の特殊(個別)意志の総和である全体意志とは明確に区別されるものであり、常に正しく、公の利益を目指すものと規定されている。
これは抽象的な議論であるが、東はこれに続くルソーの次の規定に着目する。
++しかし、これらの〔全体意志を構成する〕特殊意志から、相殺しあうプラスとマイナスを取り除くと、差異の和が残るが、それが一般意志なのである。(43頁、ルソー「社会契約論」第二編第三章、岩波文庫では47頁)
東は、このルソーの規定について「重要なのは、たとえその表現が感覚的なものにすぎなかったとしても、ルソーが一般意志を数理的に算出可能なものだと信じていたという、その事実である。」と示唆し、このルソーの一般意志を次のように規定してみせる。
++一般意志は数学的存在である。それは人間の秩序ではなくモノの秩序に属する。それは無数の自由な個人が集まり、たがいに監視し、たがいに暴力を振るいあう不安定なコミュニケーションの外側に存在する。だからそれは、民主主義という言葉で人々が思い浮かべるような、「有権者が議論を深めて作り出す合意」といったイメージからは遠く離れている。(80頁)
東は、ここを基点に、本書でひとつの夢を語っている。その夢の基底こそが一般意志2.0として名指されるものであり、ひとまず東はそれを総記録社会化しつつある「情報環境に刻まれた行為と欲望の履歴を意味する」(100頁)ものとして語っている。それはまた、「動物化するポストモダン」で展開されたデータベースの延長線上にあるものであり、無意識を可視化する装置でもある。
東が夢として語ってみせるのは、そのような一般意志2.0をを基底に据え、活用することにより、政治や統治、社会や国家の在り方をラディカルに変えてしまう可能性である。
本書はそのための方法叙説とでもいうべきものとなっている。 ただし、本書は今回の震災直前に連載を終え、その後若干の加筆は行われているものの、基本的には連載時の構成を留めた形で出版されている。著者が全面改稿し得なかったのは、本書が震災前という時空に呼応した夢を語っているからで、今はもっと別の語るべき日本論がある、という弁明が序文に記されている。
確かに東は、自身が主催する「思想地図β」の第2号では、震災の特集を組み、ある種の日本回帰といった転回を示している。
その是非について判断することは今は差し控えたいが、本書の出版により、東はここで提示した夢に対して大いなる責任を担うことになるはずである。
福島県相馬市 2011年11月25日 東西南北人撮影
福島県相馬市 2011年11月25日 東西南北人撮影