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東西南北舎

東西南北舎は東西南北人の活動に伴い生成したテクスト群の集積地である。「東西南北人」は福岡の儒者亀井南溟が秘蔵した細川林谷篆刻の銅印。南溟の死後、息子の亀井昭陽から、原古処、原釆蘋、土屋蕭海、長三洲へと伝わり、三洲の長男、長壽吉の手を経て現在は福岡県朝倉市の秋月郷土館に伝承されたもの。私の東西南北人は勝手な僭称であるが、願わくば、東西南北に憚ることのない庵舎とならんことを祈念してその名を流用させて頂いた。

   
カテゴリー「哲学・思想・文学」の記事一覧

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色川大吉「明治の文化」①


 明治精神史の碩学、色川大吉の古典的名著である。
 2007年に岩波現代文庫で復刊されているが、元は1970年4月13日に岩波書店の日本歴史叢書の一冊として刊行されたもの。遅まきながら私が読ませて頂いたのはそちらの旧い方の版である。
 本書のタイトル「明治の文化」というのは編集部から与えられたものだそうだが、色川はこれに他に類のない内容を盛り込んで本書を仕上げている。彼は通常の文化史のような個別文化ジャンル毎の変遷を追う構成は採らず、明治の文化の担い手とは何者だったとのかというテーマを掲げ、上は維新政府の開化官僚や知識人から、下は文字なき無名の民衆にまで測鉛を下ろし、明治日本に生じた社会変動が、それらの人々にどのような思想を胚胎させ、育まれていったかを描いていく。
 一言でいうなら、明治という時代は、西欧近代という、日本史上かつてない外来文化の衝撃を浴び、その嵐の中で辛うじて国家的独立を保ち得た時代であるが、色川は、その近代化のモメントとして、「民主主義」「自我・個人主義」「資本主義」「ナショナリズム」の四要素をその構成要件として、それらが明治の日本社会でどのような内的連関をもって立ち現れていったかを描出しようとしている。これらの構成要素は、色川自身が示唆しているように、何も日本固有のものではなく、近代化というプロセスにおいて不可避的に出来する汎世界的な思想形象ということができるが、明治の日本において、民主主義と個人主義は「自由民権運動の挫折とともに、その発展をはばまれ」、資本主義とナショナリズムの「性格を歪んだものとして規定してゆくが、明治の場合にはその矛盾構造の焦点、結節点として“天皇制”の問題がうかびあがってくるのである」(18頁)と素描されている。
 つまり、本書は「明治の文化」の性格を規定している基本的な指標とされる「折衷性」「「家」意識」「土着性、地縁性」「ナショナリズム」「公共性・市民的性格の欠如」等々の特性を「精神構造としての天皇制」として関連づけようとする試みであり、その形成過程を色川独自の視点から発生史的に読み解こうとしたものである。
 順を追ってみると、本書は序章+以下に示す8つの章で構成されている。

 Ⅰ 草の根からの文化創造
 Ⅱ 欧米文化の衝撃
 Ⅲ “放浪の求道者”
 Ⅳ 漢詩文学と変革思想
 Ⅴ 民衆意識の峰と谷
 Ⅵ 明治文化の担い手
 Ⅶ 非文化的状況と知識人
 Ⅷ 精神構造としての天皇制

 本書の前半Ⅰ~Ⅳは、色川自身が関係したある発見の衝撃によって成立したものといって良いだろう。1968年、武蔵国多摩郡深沢村(発見当時は五日市町、現あきるの市)の土蔵の中から出てきた夥しい数の古文書のなかに、数々の自由民権運動にかかわる史料とともに「五日市憲法」と呼ばれる私擬憲法が見出されたのである。
 Ⅰでは、柳田国男の業績に導かれながら日本の山村が維新の衝撃をどう受け止めたかが素描され、その末尾で五日市憲法発見の状況報告がなされている。
 Ⅱでは、維新の指導層が欧米の衝撃をどのように受け止めたかについて、木戸孝允を典型的な例として示されるとともに、初期の福沢諭吉の著書(「学問のすすめ」の初編~三編)が持っていた衝撃力の大きさが語られている。
 Ⅲは、五日市憲法編纂の中心人物、千葉卓三郎にスポットライトが当てられ、彼の短い生涯(享年31歳)における思想遍歴とともに、その最終舞台となった五日市という山村における自由民権運動の昂まりが活写されている。
 Ⅳは、一般的な明治文学史においてはほとんど取り上げられることのない、漢詩文学に焦点を当てたもの。山路愛山の説によると、明治には、14~15年、20年代初頭、32~33年、41~42年と四つの流行期があったが、その最初期の流行こそ最大のもので、それは、権力への定着を成し遂げた官僚群と、勃興する階級となった全国の豪農・富農層との二つの表現欲求が大きな波頭となって成立していると説かれている。そして、後者の代表として五日市憲法のもう一人の立役者、深沢権八等の漢詩文に着目し、そこに政治と文学のつかの間の幸福な統一を看取している。
 ここまでを本書の前半とすると、そこに描き出されているのは、明治の前半期における地方や山村における自由民権運動の昂まりと、色川以前には、ほとんど文化史の中で取り上げようともされなかった、豪農・富農層によって担われた、明治前半期の文化状況である。
 しかし、豪農・富農層は文字ある者であり、決して明治社会の底辺を成す者ではない。色川は、さらに文字なき者による底辺の文化状況を見出そうと試みる。それがⅤの「民衆意識の峰と谷」で、その対象として秩父暴動が取り上げられる。色川は、この秩父暴動(蜂起)への参加者の民衆意識を捉えようとするとともに、それに反発し、嘲笑した側の民衆意識も摘出しようとする。それが「峰と谷」という訳だ。色川は蜂起の中で「乍恐天朝様ニ敵対スルカラ加勢シロ」と叫んだ大野苗吉にその峰を見出し、「秩父ぼうとたいさんくどき」と「時勢阿房太郎経」というパンフレットに谷を見出している。
 続くⅥは、明治後半期にかけての知識階級の成立と彼らの煩悶が、徳富蘇峰、田中正造、牧野富太郎、南方熊楠、野口英世、柳田国男、正宗白鳥、中里介山、北村透谷、田岡嶺雲、内村鑑三、岡倉天心、二葉亭四迷、夏目漱石、森鴎外、永井荷風、石川啄木といった名とともに点綴され、足早に瞥見されている。
 そしてⅦは、明治末年における東北の農村の惨状において、黙って忍従し、餓死してゆく人々の心性の謎を長塚節の「土」と真山青果の「南小泉村」という二つの文学作品において読み直すとともに、日露戦争従軍の上等兵が書き留めた紀元節のかえ唄に見られる“奈落”の意識が読み解かれる。この時代、自由民権運動が盛んだった明治前半期の農村の活況は見る影もない。理想が失われ、停滞する明治農村の惨状は、他にも、田山花袋の「田舎教師」、島崎藤村の「破戒」、夏目漱石の「坑夫」、国木田独歩の「窮死」等にも反映している。石川啄木が「時代閉塞の現状」を書いたのもこの時期のことである。そして、色川はこの惨状において明治天皇制の完成を見ている。
 では、色川は明治期を通じて形成された天皇制をどのように捉えているのか?それを検討しているのがⅧなのだが、少し長くなったので、Ⅷについては、稿を改めて紹介することとしたい。
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京都学派と日本海軍 新史料「大島メモ」をめぐって 大橋良介著(PHP研究所 2001年12月28日)

 本書は太平洋戦争戦時下の京都学派と帝国海軍の協力関係を「大島メモ」なる新史料に基づいて紹介したもの。
 戦時下の京都学派といえば、真っ先に念頭に浮かぶのが「近代の超克」と銘打たれた文學界誌上における有名な座談会であるが、その「近代の超克」を裏打ちする形で、西田幾多郎及び田辺元を介して、その門下に連なる第二世代京都学派の哲学者たち(高山岩男、高坂正顕、西谷啓治、宮崎市定、鈴木成高、日高第四郎、木村素衛)を主要常連メンバーとする海軍秘密会合が開催されていたことを証拠立てる一次史料が本書で紹介している「大島メモ」である。この秘密会議は1942年(昭和17年)2月を初回として、以後昭和20年7月まで継続開催されているようで、時折田辺元や柳田謙十郎も顔を出している。ただし、「大島メモ」に残された会合の記録は昭和18年の第18回で途切れている。
 この会議の構想は戦前まで遡る。時の海軍大佐、高木惣吉が、陸軍の戦争意志の抑止を図るべく海軍調査課に「ブレーン・トラスト」を設置することを考え、西田幾多郎を通して京都学派への協力を要請した。その結果動き出したのがこの秘密会議なのだが、時すでに遅く、軍は米英との開戦を決意するに至る。この軍の意向を高木の口から耳にした西田幾多郎は「君たちは国の運命をどうするつもりか!今までさえ国民をどんな目に会わせたと思う。日本の、日本のこの文化の程度で、戦いもできると考えているのか!」(39頁)と激怒したという。
 だが、誰も動き出した船を止めることはできない。この秘密会議の目的は、戦争阻止から日本に優位な和平を如何に勝ち取るかに移っていく。また、緒戦の捷報は、彼らにも米英との戦争に勝利するという幻想を懐胎せしめたのか、初期の会合では、高山岩男の「世界史の哲学」による戦争理念の構築や田辺元の種の理論に基づく共栄圏の構想が検討の俎上に上がっている。戦局が未だ日本に優位に推移していた昭和17年(6月にはミッドウェイ海戦で大きな敗北を喫しているが)、京都学派の哲学者たちは、戦勝後、世界思想を領導する自らの哲学を幻想し得たのか。「近代の超克」という座談会が行われたのも正にこの頃のことである。
 しかし、昭和18年の「大島メモ」には既に敗戦の予感がほの見える。
 本書は、この太平洋戦争に乗り出してしまった京都学派を、戦艦の操舵室から追い出されてしまった乗組員に喩えている。彼らは操舵室の外から舵取りする方法を必死に求めるが、所詮それは無理な相談である。あとは水が低きに流れるように戦局は下降線の一途を辿っていく。
 大島メモの筆者は主として大島康正という哲学者である。彼は当時京都大学文学部の副手という立場にあり、メンバーへの連絡や会合の内容を記録して海軍に報告するという事務方の役割を一手に引き受けていた。その学問的立場は、田辺元の愛弟子でありながら、その哲学を継承発展させるように、戦後「時代区分の成立根拠」と「実存倫理の歴史的境位 神人と人神」という哲学的主著を書き上げている。しかし、大島は、それを機に哲学的思索の展開から撤退してしまう。
 本書は、この大島の哲学を、戦後、「近代の超克」をたった一人で担おうとした二週目ランナーの孤独な作業とみなし、ヘーゲルの精神現象学とフッサール現象学を両睨みに見据えつつ「限界状況に立たされた実存の現象学」として構想されたものと位置づけている。その当否はここでは判断できないが、そのスタンスは笠井潔の「テロルの現象学」におけるそれを彷彿とさせるものであることは留言しておきたい。

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石牟礼道子インタビュー

 先ほどNHKのクローズアップ現代が水俣病を取り上げ、石牟礼道子へのインタビューを放映した。
 番組は、国が水俣病に対する最終救済策としてしている「水俣病被害者の救済及び水俣病問題の解決に関する特別措置法」に基づく患者認定の最終申請期限が7月末日に迫っているにもかかわらず、多くの水俣病の診断を受けた患者が、申請した結果、救済対象として非該当であるという通知を受けている現状を告げている。
 なぜ、このような現状となっているのか。それは、認定対象者となるには、地域の限定と、年齢の限定があるからであり、前者については、不知火海沿岸部の特定沿岸部という線引きがあり、後者については、昭和44年以前に生誕した者という線引きがあるからである。
 水俣病発生から既に半世紀以上の時を経て、なおこの状況なのである。

 石牟礼道子へのインタビューは、これらの状況を受けて行われており、インタビューの放映時間は15分程度。
 彼女は現在85歳で、パーキンソン病を患っているそうで振戦麻痺の症状が見られ、映像的にはかなり痛々しいが、その言葉は思いのほかしっかりとしていた。
 インタビューの中で、彼女は既に亡くなった患者らの言葉を次のように紹介していた(正確な言葉ではないが)。

「東京へ行っても日本という国はなかった、どこに行っても日本という国はなかった」

「道子さん、私はもう許す。国も許す。チッソも許す。許さないと苦しくてかなわん。ばってん、私はまだ生きていたい。」

 彼女は、これらの水俣病患者により、われわれは許されて生きている。しかし、国やチッソは、その患者らの生活をズタズタに引き裂いておきながら、そのことを理解しようとしていないと、淡々と語っていた。

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石牟礼道子「苦海浄土」覚書

 「苦海浄土」は水俣病患者と同伴し続けた石牟礼道子による水俣病患者たち、そして作者自身の魂の物語である。
 昭和30年代のはじめに発覚した水俣病は、不知火海に排出された、チッソ(新日窒)の水俣工場の工場廃液に含まれた有機水銀を原因物質とした中毒症状であり、罹患した者は恐るべき中毒症状に苦しめられ、死に至った者も少なくない。
 だが、チッソは、当初これを自社の責任と認めず、昭和34年11月2日、不知火海沿岸漁民は蜂起するが、結果として会社側は不知火海沿岸36漁協に漁業補償一時金3500万円(ただし、うち1000万円は蜂起の際の乱入被害として相殺されている)と立ち上がり融資6500万円の出資を行い、水俣病患者互助会59世帯には、死者に対する弔慰金32万円、患者成人年間10万円、未成年者3万円を発病時にさかのぼって支払い「過去の水俣工場の排水が水俣病に関係があったことがわかってもいっさいの追加補償要求はしない」という条項を入れた悪名高い「見舞金契約」を取り交わすことで事を収束させようとしている。
 水俣病患者の苦しみはここに始まるのだが、その後、患者らは家族の罹患や死、そして自らの病苦のみならず、チッソの恩恵を受けている水俣市の地域住民からの差別まで受けることになる。

 本作が描いているのは、この昭和30年代の始めから昭和48年の熊本地裁の患者側勝訴の判決を受けた「補償協定書」調印に至る間の事跡ということになるが、本作はいわゆるノンフィクションのルポルタージュではないので、その間の事跡が順序立てて記述されているわけではない。
 本作の記述、特に第一部のそれは、大雑把に分けると3つの文体から構成されている。
 1つ目は、地の文とでもいうべき、作者の意識レベルにおいて記述された私小説的な記述の文体である。この第一の文体は作者を観察主体に据えた事実の記述であり、いわゆる描写の文体である。
 2つ目は、引用である。ただし、その引用の範囲は非常に多岐に及んでいる。水俣病の病像を描き出す医師のカルテや所見、水俣の地勢を描き出す古川古松軒の「西遊雑記」、頼山陽の漢詩、徳富蘇峰作詞の「水俣第一小学校校歌」、昭和34年の漁民蜂起を報道する熊本日々新聞や朝日新聞の記事、議会や委員会の議事録、患者等を中傷する投書、チッソからの回答文、裁判の判決文、患者等の闘争過程において認められた抗議文やアジビラ等々。
 そして3つ目は、患者等の一人称で記述された語りの文体である。そして、その語りは、全て水俣方言で書かれている。これは、形式的には会話や聞き書きの体裁が外挿されているが、実質的には作者の水俣病患者への憑依を通した一人称の語りとして紡ぎだされた文体となっている。作者は、第一部の文庫版のあとがきで「白状すればこの作品は、誰よりも自分自身に語り聞かせる、浄瑠璃のごときもの、である。」と記しているが、実際それは患者等の生の声そのものを自らの内部に再生するように紡ぎだされているように読める。
それは例えば、次のような語りとして記述されている。

++うちは、こげん体になってしもうてから、いっそうじいちゃん(夫のこと)がもぞか(いとしい)とばい。見舞いにいただくもんなみんな、じいちゃんにやると。うちは口も震ゆるけん、こぼれて食べられんもん。そっでじいちゃんにあげると。じいちゃんに世話になるもね。うちゃ、今のじいちゃんの後入れに嫁に来たとばい。天草から。(苦海浄土 第一部苦海浄土第三章ゆき女きき書「石牟礼道子全集 第二巻 109頁」)

++そら海の上はよかもね。
 海の上におればわがひとりの天下じゃもね。
 魚釣っとるときゃ、自分が殿さまじゃもね。銭出しても行こうごとあろ。
 舟に乗りさえすれば、夢みておっても魚はかかってくるとでござすばい。ただ冬の寒か間だけはそういうわけにもゆかんとでござすが。
 魚は舟の上で食うとがいちばん、うもうござす。(苦海浄土 第一部苦海浄土 第四章天の魚「石牟礼道子全集 第二巻 160頁」)

 そこで語られているのは、必ずしも水俣病の痛苦や恨みごとだけではない。彼らが漁師として、あるいは、単に不知火海周辺に起居する人として、いかに豊かな生死を謳歌していたのかが窺える語りとなっている。だが、それらは水俣病という拷苦を受けることで喪われ、受苦(パッション)の色に染まりゆく。そして、やがてそれは鬼という形象へと転化していくのである。

 苦海浄土 第二部神々の村、第三部天の魚は、長い年月に渡って苦しみぬいた患者たちが、能の道行きの如く、大阪で行われたチッソ株主総会、東京丸の内のチッソ東京本社でのチッソの責任追及という戦いの叙述へと移っていく。
 この転位を理解するには、1969年(昭和44年)という、折しも全共闘の学生運動が絶頂に達しつつあったその年に行われた幾つかの事跡を念頭に置いておく必要があろう。石牟礼道子全集第三巻に掲載されている年譜によると次のような事が生起している。

1月28日:石牟礼道子「苦海浄土-わが水俣病」(本作の第一部)刊行。
4月5日:患者互助会、補償問題をめぐり、チッソの勧めによる厚生省一任派と、訴訟派に分裂。
4月20日:渡辺京二の呼びかけにより水俣病を告発する会(熊本)発足。以後、(同組織が全国)各地に誕生。
6月14日:水俣病患者家庭互助会訴訟派、チッソに損害賠償を求めて熊本地裁に提訴(いわゆる水俣病裁判)。同日、川本輝夫の呼びかけにより未認定患者ら「認定促進の会」を結成。

 つまり第二部、第三部の現在時制の語りにおいては、語り手である作者も水俣病闘争の当事者として行為の渦中に在り、水俣病患者(訴訟派)の怨念返しの道行に同道しているのである。したがって、そこでは、患者自身による、より直接的な強度を持った恨み節が作中に響き渡ることになる。例えば、患者、浜元フミヨの言葉として。

++「わたしゃ、恥も業もいっちょもなかぞ。よかですか、川村さん。
 おらぁな、会社ゆきとは違うとぞ。自分家(げ)で使うとる会社ゆきと同じような人間がもの言いよると思うなぞ。
 千円で働けといえば千円で、二千円で働けといえば二千円で働く人間とはわけがちがうぞ。人に使われとる人間とはちがうとぞ、漁師は。
 おる家の海、おる家の田畠に水銀たれ流しておいて、誠意をつくしますちゅう言葉だけで足ると思うとるか。言葉だけで。いうな! 言葉だけば! 」(苦海浄土 第二部神々の村 第六章実る子「石牟礼道子全集 第二巻 579頁」)

 そして第三部、舞台は東京丸の内のチッソ本社に移り、これらの語りは次第に地の文と溶け合い、響き合うようになっていく。おそらく、石牟礼道子のエッセイの文体はここから獲得されている。

++もと漁師であるがゆえに、未来永劫漁師であるひとたち。
 水俣病もいろいろに病み方があり、それを病みとおすにも漁師である以外はない彼ら。
 そもそも、〈チッソ東京本社座りこみ決行〉などと名づけても、このひとびとたちにとっては、茫々たる漂流記の中の一節ではありますまいか。
 どこに向かって漂流するのか。
 もとの不知火海の、わが家の庭先に帰りつくために、みえない舟が出る。
 帆布より、舵より、機関より先に故障した人間たちが、みえない舟をあやつって東京にくる。
 劫火のあとのようなスモッグの霧が、のどの奥に焼きつき降り積もる首都。
 逃げられない所へ、逃げられないところへと、ひとびとのなだれ込んできた所。死相を浮かべた首都へ向けて、この舟もまた漂い来たりました。
 (中略)
 とある日、ひとりの漁師の子は、デスマスクめいたチッソ社長の顔と、食事抜きの十三時間という対話を試みます。いや、社長との対話というより、彼が死力をつくして試みていたものは、もはや日本近代には復活しえない最下層民の末子としての、自らの来歴のあかしのごときものでした。
 「なして、社長は、患者の家に廻って来んか。なして病人ばみにきてくれんか」
 「いや、みなさんの家に伺いましても、医者ではありませんから、私どもにはわかりませんのです。病状の重い方も軽い方もいらっしゃいましょうから、認定なさいました熊本県にまず、ランクをつけて頂きませんと、伺えませんのです」
 (やっぱりな、貧乏人の家にゃ、来んじゃろう、来られんじゃろう。おどま非人(かんじん)、あんひとたちゃ、よか衆(し)ちゅうわけじゃ)
 彼は青ざめる社長を問いつめているうちに、ふいに、がんぜない哀切さの中にじぶんが落ちこんでゆくのをおぼえます。
 彼は一瞬、生きつづけて仰臥している社長の首をかき抱こうとしました。
巨きな、ぽっかりとした目をあけっぱなし、おびえている社長の鼻孔の上に、はらはらと彼の熱い涙が落ちこぼれました。
 「ああ、
俺(おる)が・・・・・・鬼か・・・・・・」
(苦海浄土 第三部天の魚 第一章死都の雪「石牟礼道子全集 第三巻 39~41頁」)

 水俣方言に「されく(漂浪く)」という言葉があるそうだが、その言葉は、第二部及び第三部の主調低音として鳴り響いている。患者たちは、そして作者も大阪へ、そして東京へと流れ着き、されいていく。土着の人生を強制的に解除された水俣の漁師たちの、それは必然だったのかもしれない。地元に、日本近代の地方に、そのようなされく民を受け入れる土壌は残されていなかった。

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完本 情況への発言 吉本隆明著(洋泉社 2011年11月2日)

 吉本隆明氏が亡くなって10日過ぎた。

 あれは亡くなる2~3週間くらい前だったか、久しぶりに神保町で本を漁っているときに、本書をみかけ、1800円で入手した。
 すぐに読む気はなかったのだが、なんとなく気になって読み始めたところで、その訃報を友人からのメールで目にした。
 吉本というと「共同幻想論」や「言語にとって美とはなにか」或いは「心的現象論序説」ということになるのだろうが、私が学生の頃は「マス・イメージ論」や「「反核」異論」の頃で、わが母校では、栗本慎一郎との対談「相対幻論」なんかがマスト・アイテムだった。まさにニューアカブーム全盛の頃である。

 吉本25時というイベントの客席にいたことがある。1987年9月12日14時から9月13日14時まで、東京・品川のウォーター・フロントにある寺田倉庫T33号館4Fで、吉本隆明・三上治・中上健次の三氏主催で「いま、吉本隆明25時―24時間講演と討論」と題するイベントが行われた。
 講演者は、3人の主催者以外に、前登志夫、宇野邦一、加藤尚武、島田雅彦、呉智英、都はるみ等々。会場には荒木経惟や山田詠美、糸井重里等の顔も見えた。吉本の姿を見たのは、あれが最初で最後である。

 本書は「試行」で35年間(1962~1997年)に渡って書き継がれた、吉本隆明の悪戦の記録である。
 この35年間で、吉本の論敵は様々に移り変わっていくが、多くの場合、吉本は彼らを「スターリニスト」と呼び習わしてきた。
 吉本のいうスターリニストとは何か?これを示すのはなかなかに困難なのだが、吉本が彼らを根底から批判し尽くそうとしてもち出してきたのが「アジア的ということ」であり、この「情況への発言」の中で、1980年から1983年にかけて途中「「反核」問題をめぐって」をはさみ、「アジア的ということ」のサブタイトルを付されて7回にわたって連載されている文章が、この分厚い論争の書の白眉といえる部分である。
 最初にこれを読んだ当時の私には吉本が「アジア的ということ」を通して何が言いたいのかが今ひとつよくわからなかった。今も十全に理解できている訳ではないが、渡辺京二の仕事等を通して、あの頃よりは腑に落ちる部分がないではない。
 だが、この「アジア的ということ」への拘泥によって、吉本は、自らの思想の展開にとって恐るべき断崖とその深淵を見はるかすことになってしまったのではないだろうか。今の私には、その問題を十分に論じる能力はないが、この「アジア的ということ」への吉本の構造的な拘泥は、吉本思想のつまずきの石となってしまったのではないかという気がしてならない。私がそのように思うのは、渡辺京二という、同じようにアジア的なるものに拘泥しつつも、吉本とは全く異なった方法でアジア的なるものの輪郭を、鮮やかに描き出した一個の思想家を知っているからである。

 今はともかく、この「情況への発言」から、吉本のいう「アジア的ということ」について、幾つかメモしておく。
 吉本のいう「アジア的ということ」はマルクスが東インド会社のインド支配の過程から見出したものであり、吉本はこの分析から「思わず嘆声を挙げるほど驚かされる点」を二つ指摘している。

++ひとつはアジア的な制度と心性からは奇異に感ぜられるが(そして奇異に感ぜられることが重要であるが)、ヒンドスタン-アジアをはじめに、経済的にそしてだんだんと政治的に従属させていったのは原則的には、国家の政治的権力とは区別されるべき民間の社会的勢力であったということである。(299頁)

++もうひとつはインドのアジア的な、社会的政治的な制度の特質を鋭く抽出し、英国の支配によってもたらされた決定的な近代の悲惨とそして近代化の不可避性とを摘出したことであった。(300頁)

 吉本は、ここから取り出された問題の再演をロシア革命に見て取る。

++わたしたちはロシア政治革命におけるレーニンらの理念のうちに、あたうかぎり理想的な形で展開された「近代化」(近代の止揚)を視たかにおもえた。けれどレーニンらは、ある意味ではインドにおける英国とおなじ問題に直面し、おなじことをやったと言うこともできる。ただこのばあいあきらかに問題は二重であった。ミール共同体の強固な構造に象徴されるロシア社会のアジア的な構成は絶滅し止揚されるべき遺構としてあらわれるとともに、レーニンらの中央集権的な専制(いわゆるプロレタリア独裁)にたいして、そのままの形でこそ最も大きな観念的な基礎を与えるものであった。(中略)レーニンらの意図した抑圧された労働者勢力による「近代化」(近代の止揚)は一面では近代以前の永続するアジア的な専制の遺構への退化であり、他の一面では西欧資本主義的な高度な技術と生産手段の計画的な投入によるミール共同体的な農耕村落の徹底的な破壊を意味したのである。(303頁)

 さらに吉本は、このレーニンらによって遂行されたロシア革命において、マルクスのいう「プロレタリアートの独裁」という概念が、レーニンによって倫理的に矮小化され、アジア的な専制国家の統制概念に置き換えられてしまっていることを弾劾して次のように記している。

++このレーニンの貧弱な歪曲されたファッショ的な国家画像にこそマルクスが<アジア的>に受容されたときのひとつの典型が、ロシア的な典型が象徴されている。ここでは、ほんらい武装力と国家警察による大衆の監視機構と、全大衆のリコール制によって常に解任されうる国家機関と、けっして非国家機関の大衆の賃金を上廻る(ママ)ことのない賃金しか手にしない国家機関員とを支柱とする、いわば人間の<自由>と<解放>とが先取りされたコミューン型国家、死滅にむかって開かれた国家の画像は窒息させられてしまっている。レーニンやトロツキーはロシア・マルクス主義者のうちとび抜けて闊達な、とび抜けて解放された思想の持主だったが、それでも不可避的に<アジア的>な停滞のなかに、マルクスの理念を封冊(ママ)し終息させている。(320頁)

 そして、吉本によって、このようなロシア・マルクス主義の言説に支配され、あるいはその片棒を担ぐ論者は須く「スターリニスト」との烙印が押されていくことになる。
 だが、吉本の「アジア的ということ」はここに立ち止まるのではなく、そこから、世界思想として問題となる「アジア的」なことの考察に向かう。その際、吉本はそこには3つの問題があることを指摘している。

 ① 共同体の問題としての<アジア的ということ>
 ② <アジア的>生産様式
 ③ <アジア的>専制としての政治形態あるいは権力形態

 これらの問題を解くためには、その後の吉本の著作全てを再点検する必要があるが、それは今後の課題ということにさせて頂きたい。

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