明治精神史の碩学、色川大吉の古典的名著である。
2007年に岩波現代文庫で復刊されているが、元は1970年4月13日に岩波書店の日本歴史叢書の一冊として刊行されたもの。遅まきながら私が読ませて頂いたのはそちらの旧い方の版である。
本書のタイトル「明治の文化」というのは編集部から与えられたものだそうだが、色川はこれに他に類のない内容を盛り込んで本書を仕上げている。彼は通常の文化史のような個別文化ジャンル毎の変遷を追う構成は採らず、明治の文化の担い手とは何者だったとのかというテーマを掲げ、上は維新政府の開化官僚や知識人から、下は文字なき無名の民衆にまで測鉛を下ろし、明治日本に生じた社会変動が、それらの人々にどのような思想を胚胎させ、育まれていったかを描いていく。
一言でいうなら、明治という時代は、西欧近代という、日本史上かつてない外来文化の衝撃を浴び、その嵐の中で辛うじて国家的独立を保ち得た時代であるが、色川は、その近代化のモメントとして、「民主主義」「自我・個人主義」「資本主義」「ナショナリズム」の四要素をその構成要件として、それらが明治の日本社会でどのような内的連関をもって立ち現れていったかを描出しようとしている。これらの構成要素は、色川自身が示唆しているように、何も日本固有のものではなく、近代化というプロセスにおいて不可避的に出来する汎世界的な思想形象ということができるが、明治の日本において、民主主義と個人主義は「自由民権運動の挫折とともに、その発展をはばまれ」、資本主義とナショナリズムの「性格を歪んだものとして規定してゆくが、明治の場合にはその矛盾構造の焦点、結節点として“天皇制”の問題がうかびあがってくるのである」(18頁)と素描されている。
つまり、本書は「明治の文化」の性格を規定している基本的な指標とされる「折衷性」「「家」意識」「土着性、地縁性」「ナショナリズム」「公共性・市民的性格の欠如」等々の特性を「精神構造としての天皇制」として関連づけようとする試みであり、その形成過程を色川独自の視点から発生史的に読み解こうとしたものである。
順を追ってみると、本書は序章+以下に示す8つの章で構成されている。
Ⅰ 草の根からの文化創造
Ⅱ 欧米文化の衝撃
Ⅲ “放浪の求道者”
Ⅳ 漢詩文学と変革思想
Ⅴ 民衆意識の峰と谷
Ⅵ 明治文化の担い手
Ⅶ 非文化的状況と知識人
Ⅷ 精神構造としての天皇制
本書の前半Ⅰ~Ⅳは、色川自身が関係したある発見の衝撃によって成立したものといって良いだろう。1968年、武蔵国多摩郡深沢村(発見当時は五日市町、現あきるの市)の土蔵の中から出てきた夥しい数の古文書のなかに、数々の自由民権運動にかかわる史料とともに「五日市憲法」と呼ばれる私擬憲法が見出されたのである。
Ⅰでは、柳田国男の業績に導かれながら日本の山村が維新の衝撃をどう受け止めたかが素描され、その末尾で五日市憲法発見の状況報告がなされている。
Ⅱでは、維新の指導層が欧米の衝撃をどのように受け止めたかについて、木戸孝允を典型的な例として示されるとともに、初期の福沢諭吉の著書(「学問のすすめ」の初編~三編)が持っていた衝撃力の大きさが語られている。
Ⅲは、五日市憲法編纂の中心人物、千葉卓三郎にスポットライトが当てられ、彼の短い生涯(享年31歳)における思想遍歴とともに、その最終舞台となった五日市という山村における自由民権運動の昂まりが活写されている。
Ⅳは、一般的な明治文学史においてはほとんど取り上げられることのない、漢詩文学に焦点を当てたもの。山路愛山の説によると、明治には、14~15年、20年代初頭、32~33年、41~42年と四つの流行期があったが、その最初期の流行こそ最大のもので、それは、権力への定着を成し遂げた官僚群と、勃興する階級となった全国の豪農・富農層との二つの表現欲求が大きな波頭となって成立していると説かれている。そして、後者の代表として五日市憲法のもう一人の立役者、深沢権八等の漢詩文に着目し、そこに政治と文学のつかの間の幸福な統一を看取している。
ここまでを本書の前半とすると、そこに描き出されているのは、明治の前半期における地方や山村における自由民権運動の昂まりと、色川以前には、ほとんど文化史の中で取り上げようともされなかった、豪農・富農層によって担われた、明治前半期の文化状況である。
しかし、豪農・富農層は文字ある者であり、決して明治社会の底辺を成す者ではない。色川は、さらに文字なき者による底辺の文化状況を見出そうと試みる。それがⅤの「民衆意識の峰と谷」で、その対象として秩父暴動が取り上げられる。色川は、この秩父暴動(蜂起)への参加者の民衆意識を捉えようとするとともに、それに反発し、嘲笑した側の民衆意識も摘出しようとする。それが「峰と谷」という訳だ。色川は蜂起の中で「乍恐天朝様ニ敵対スルカラ加勢シロ」と叫んだ大野苗吉にその峰を見出し、「秩父ぼうとたいさんくどき」と「時勢阿房太郎経」というパンフレットに谷を見出している。
続くⅥは、明治後半期にかけての知識階級の成立と彼らの煩悶が、徳富蘇峰、田中正造、牧野富太郎、南方熊楠、野口英世、柳田国男、正宗白鳥、中里介山、北村透谷、田岡嶺雲、内村鑑三、岡倉天心、二葉亭四迷、夏目漱石、森鴎外、永井荷風、石川啄木といった名とともに点綴され、足早に瞥見されている。
そしてⅦは、明治末年における東北の農村の惨状において、黙って忍従し、餓死してゆく人々の心性の謎を長塚節の「土」と真山青果の「南小泉村」という二つの文学作品において読み直すとともに、日露戦争従軍の上等兵が書き留めた紀元節のかえ唄に見られる“奈落”の意識が読み解かれる。この時代、自由民権運動が盛んだった明治前半期の農村の活況は見る影もない。理想が失われ、停滞する明治農村の惨状は、他にも、田山花袋の「田舎教師」、島崎藤村の「破戒」、夏目漱石の「坑夫」、国木田独歩の「窮死」等にも反映している。石川啄木が「時代閉塞の現状」を書いたのもこの時期のことである。そして、色川はこの惨状において明治天皇制の完成を見ている。
では、色川は明治期を通じて形成された天皇制をどのように捉えているのか?それを検討しているのがⅧなのだが、少し長くなったので、Ⅷについては、稿を改めて紹介することとしたい。
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