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東西南北舎

東西南北舎は東西南北人の活動に伴い生成したテクスト群の集積地である。「東西南北人」は福岡の儒者亀井南溟が秘蔵した細川林谷篆刻の銅印。南溟の死後、息子の亀井昭陽から、原古処、原釆蘋、土屋蕭海、長三洲へと伝わり、三洲の長男、長壽吉の手を経て現在は福岡県朝倉市の秋月郷土館に伝承されたもの。私の東西南北人は勝手な僭称であるが、願わくば、東西南北に憚ることのない庵舎とならんことを祈念してその名を流用させて頂いた。

   
カテゴリー「哲学・思想・文学」の記事一覧

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スチュアート・ヒューズ「意識と社会」 ③

 (承前)

 クローチェの知的バックグラウンドは、イタリアの先駆者ヴィコを例外として、極めてドイツ的な教養に裏打ちされていたが、彼は、マルクスの研究を通じて「イタリア政治学の最良の伝統」というべき、当時「マキアヴェリアン」と呼ばれていた一連の思想家たちを再発見することになる。それが第七章で論じられているヴィルフレッド・パレート、ガエタノ・モスカ、ロベルト・ミヘルスである。
 いずれも日本では馴染みの薄い人物だが、著者によると、彼らによって「政治的・社会的エリートという今日の基準的な概念」(172頁上段)が獲得され、そのスタンスは微妙に異なるものの3人とも「少数支配の理論をともに支持」(173頁上段)していた。
 彼らの中で、自らが依拠する哲学的な前提の分析に赴いたのはパレートのみだった。パレートは、日本ではどちらかというと経済学の分野で知られた人物であるが、社会思想家としての主著、2000頁にも及ぶ『一般社会学』において、彼は数々の「主観的・認識論的諸問題」(175頁下段)に逢着することになる。
 パレートは、彼の社会学的探求において、非論理的なものの領域を主題とし、そこに「残基」という言葉を差し当ててみせるが、それは、文字通り「残余のカテゴリー」を示すに留まってしまい、その言葉が指し示そうとした本来の概念に到達できず、ある時は「生物学的本能」を指し示し、ある時は「価値の領域における明確化のための抽象概念」を指し示すようにみえたが、パレートはそれを恣意的に導き出すことしかできなかった、と著者はみなしている。
 パレートの残基には元来6つのカテゴリーが存在したようだが、パレートは『一般社会学』の終局においてそれを2つの残基に還元してしまう。それが、残基Ⅰ-「結合・団結の本能」と残基Ⅱ-「集合体の持続」であり、そもそもこの二つの残基は、パレートの発想自体がマキアヴェルリからの遺産である「ライオン」と「狐」の対照に連なる単純な「直観」に依存していたのではないかということを暗示している。しかし、著者はこの点にこそパレートの業績の精髄があると考えている。

++残基Ⅰを定立するのは難しくはない。少なくともイタリア人にとっては、combinazioni〔結合、団結〕という語はもともと明確で多岐にわたる意味をじゅうぶんにあらわしている。しかし、「集合体の持続」は、もっと微妙に複雑で、保守的理想、革命的情熱、宗教的熱狂といった実にさまざまな表現を一つの題目の下に集めているものである。人間社会の永続的要素としてこれを規定したことは、おそらく今日の政治学的思索へのパレートの唯一最大の貢献であろう。
 だから、軽率な読者が考えたように、二つの基本的な残基はそれぞれ保守主義とその反対者を表徴していると結論するほど誤ったことはなかろう。実際パレートの図式の大きな長所の一つは、在来の左右分割図式を横断していることにある。かくして-パレート自身の経験に近い例をとれば-かれの図式は、ムッソリーニのひとを戸惑いさせるようなイデオロギー的変節について想像力豊かな説明を与えるのである。革命的社会主義者であれ、イタリア地主階級の寵児であれ、ひとつの意味における指導者(ドウーチェ)がつねにかれ自身には真実であった。つまり、かれはライオン以外の何者でもなかったわけである。
 西洋の二千有余年歴史を通じてこの二つの態度の変遷を手にとるように明らかにすることが、パレートの究極の業績であった。各残基がどの程度歴史上の代々のエリートの特質をあきらかにしているか-また、老化した支配階級に新しい要素をどんどん注入することによって、あるいはあるエリートが他のエリートによって暴力的に打倒されることを通じて、矛盾的なこの態度というものがどのようにあらわれたか-を評価考量すること、この「社会的均衡」の評価考量からパレートの犀利な論評が生まれたのであった。この論議のなかに、かれの個人的感情が深く秘められていたことは疑いない。少なくとも自分の時代に対しては、かれは反動の順番がきていることを確信していた。(182頁下段~183頁上段)

 では、このようにパレートに代表されるネオ・マキアヴェリアン達は、イタリアのファシズムの抬頭にどの程度責任があるといえるのかが問題となる。著者の見解は、彼らの基本スタンスは反議会主義的雰囲気の醸成に貢献し、結果的にムッソリーニを利することになったことは否めない、というものである。実質的な関係はともかく、ムッソリーニは、パレートの『社会主義諸体系』を読んでおり、パレートの提示した「エリート」の観念を「現代におけるもっとも特筆すべき社会学的概念」と認めているのである。

 (続)
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スチュアート・ヒューズ「意識と社会」 ②

 (承前)

 第六章の主役は著者お気に入りのクローチェである。しかし、クローチェ、そしてヴェーバーを語るためにはドイツにおける観念論の系譜を遡る必要がある。
 カントによって切り開かれたドイツ観念論は、ヘーゲルによって一つのサイクルを閉じたが、その過程で祀り上げられていった「精神(Geist)」はドイツの哲学的伝統を他のヨーロッパ諸国の哲学的規範から画然と分かつことになる。ドイツはその「精神」を自負としたが、20世紀初頭のドイツは歴史と社会に対する深遠な理解とは裏腹に社会的安定を見出せなかったのみならず、物理的な暴力へと傾斜していく。
 著者によると「歴史および社会の研究において、ヘーゲルの支配は劇的ではあったが、短期間のものでしか」(127頁下段)なく、それはマルクス主義の中で命脈を保っていたに過ぎない。19世紀後半から20世紀初頭にかけてのドイツの歴史学はレオポルト・フォン・ランケの支配的な影響下にあり、ランケの思考のカテゴリーはヘーゲルのそれより、ずっとロマン主義者のそれに酷似していたようだ。このランケの影響下で「現象世界と精神世界、自然科学の世界と人間活動の世界の間に、根本的な裂け目がある」(128頁上段)と著者が要約する観念論的社会思想が、ドイツにおいて人文科学と社会科学を分かつ機縁を形成することとなる。
 新カント派と呼ばれるヴィンデルバントとリッケルト、そしてゲオルク・ジンメルは、このような潮流の中にあって、カントのカテゴリー論に立脚して実証主義批判を試みた人文主義者であったといえよう。リッケルトは、観念論的伝統にたつ歴史思考を明確化する。すなわち「文化科学者」は「自分の主観的決定によって社会的現実ある一つの側面を検討・理解することを」(131頁上段)選択するのであり、その選択は当然のことながら研究者自身の価値体系を基盤としている。これは今日の歴史認識の問題を論じる際にも忘れてはならない有用な認識であるが、リッケルトはそれ故に「価値という観念」を強調し過ぎたため、歴史事実の客観性・妥当性を検証不能なものへと貶めてしまう。
 彼らに少しばかり先んじて、ヴィルヘルム・ディルタイは、カントが「純粋」理性および「実践」理性について行使した批判を歴史の分野について成し遂げようと試みる。ディルタイは『精神科学序説』刊行後30年の間、絶えずその構想を練り直し様々な論文や書物を発表するが、結局それを完成した姿で表すことができなかったというのが、著者の見解である。著者はディルタイのような複雑な思想家の全貌をこのような研究で完全に分析することは不可能だとしながらも、彼の中心的な課題は「歴史記述の科学的価値の問題」であったと規定している。著者は、ディルタイの新しさは「実証主義自身の武器で実証主義と戦おうとしたという事実にある」(133頁下段)のであり、「かれの目的は、一般にみられる自然界と人間活動の世界との混同を払拭することにあった」(134頁上段)としている。

++ディルタイはまた、文化科学と自然科学との基本的な区別を、文化研究の領域における記述に三つの部類を区分することによってさらに精密なものとした。第一の部類は現実そのものを取り扱うもの、すなわち歴史の領域であった。第二は、現実からの抽象概念によって成立するもの-社会科学というべきものであった。最後に第三は、価値判断と「規則(ルール)」を表明する陳述、すなわち「文化科学の実際の構成要素」をなすものである。(134頁下段)

 著者は、このディルタイの第二類の探求の延長線上に、その後のデュルケームやウェーバーの社会学を位置づけていく訳である。
 一方、第一類にかかる歴史認識の問題について、ディルタイは確定的な結論を出していないようだが、その端々にクローチェを先取りしたような主張が散見されると著者は見ている。
 クローチェは近代イタリアにおける最大の知的巨人であり、その「思想のひろがりは百科事典的であった」(138頁上段)が、イタリア以外の世界でクローチェは、「歴史家、批判的歴史哲学者として影響を及ぼした」(138頁下段)のであり、本書では専らこの面を中心としたクローチェの思想が分析されている。
 クローチェ初期の歴史認識に対する見解は「歴史書は概念を練り上げるものではなくて、個々の出来事をその具体性において再現するものである。その理由によって、われわれは歴史に科学としての性格を否認する。だから、歴史が科学でないとすれば、芸術でなければならぬと結論するのは・・・・・・容易なことである」(141頁上段)というものである。
 しかし、クローチェは彼の体系的著作である『美学』『論理学』を書き進める中で、その理論的立場を根本的に変えていく。クローチェ円熟期の歴史理論においては「ヴィコとマルクスとヘーゲルの体系的研究の成果」が見事に融合されていると著者は見ている。

++この歴史理論の第二の-決定的な-定式化において、クローチェは、歴史はたんに芸術の一形態であるよりもっと概念的なものであるというにとどまらず、真実には人知の総括をなすものだとの見解を表明したのである。その概念的要素は哲学を通じて導入されるのであり、哲学は人間がおのれの歴史について下す判断の総体なのであった。このようにしてクローチェは、ヘーゲルが行ったように歴史に哲学を押しつけるのではなく-歴史の方法論として歴史のうちに哲学を包摂してしまうことになった。(144頁上段)

++自然科学も社会科学もただ外的に知覚されるデータのみを扱っている、とクローチェは言う。これに対して歴史学は「内的」に了解しようと努力するものである。この主張のうちに、クローチェはドイツ観念論の遺産をじゅうぶんに汲み込んでいる。だが、クローチェはこの観念論的思考をさらに尖鋭に押進め、「真の歴史はすべて同時代史である」と論ずるにいたった。この逆説的な主張-それはかれの格言的命題のうちもっとも有名なものとなったが-によって、クローチェは歴史認識の本質が過去の大問題の想像力による把握にあるということを示そうとしたのである。(144頁下段)

 だが、このようなクローチェの歴史理論は必ずしも首尾一貫して合理的なものではなかったようである。クローチェは、1910年終身身分の上院議員の就任し、政治の舞台に進出することになる。著者によれば、クローチェの行動と理論、歴史叙述と哲学的労作とは分かちがたく絡み合っている。この後、クローチェは二度の世界大戦を生き延び、1943年ファシズムの崩壊とともに、イタリアの指導的知識人としてたち現れることになるが、この間に彼が著した『イタリア史』『ヨーロッパ史』『ナポリ王国史』等の歴史叙述は彼の歴史理論を逸脱し、「理性」や「自由」といった抽象観念がヘーゲルのように哲学的に概念化されることなく一種の指導的観念として流用されることになる。
 著者は、このような後期のクローチェの歴史思想は、二つの大きな問題を残すことになると論述している。その一つが、抽象的カテゴリーが、歴史叙述にどの程度妥当するのか明白な基準を提示できなかったこと。今一つが、直観または想像力によって到達された諸発見を理性に転化するのに歴史的思考がどのような役割を果たせるのかを明確に出来なかったことである。結論的に著者は、クローチェの思考は相対主義的で、悲劇の感覚を欠いたものと論断しており、この点でドイツの同時代人、トレルチェやマイネッケにおくれをとっている、と述べている。

 (続)

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スチュアート・ヒューズ「意識と社会」 みすず書房 1970年3月

 近代ヨーロッパ思想史の泰斗、スチュアート・ヒューズの古典的な名著。原著CONSCIOUSNESS AND SOCIETYのNew Yorkでの出版は1958年。翻訳は生松敬三と荒川幾雄の両氏である。副題は「ヨーロッパ社会思想1890 - 1930」となっているが、本書では、この期間のフランス、ドイツ、イタリアの3ヶ国の社会思想が取り上げられることになる。ただし、この時代は未だ人文科学と社会科学が未分化な状態にあり、この間の変遷を通じて、正に社会思想から社会科学が勃興し、人文科学との区別が成立していくという筋書きとなる。したがって、そこには哲学者、歴史家、革命家、経済学者、社会学者、心理学者、文学者等々といった様々なカテゴリーに属する人々が登場することになる。
 本研究をなすにあたり、著者の視線は18世紀の啓蒙思想を起点に据えている。

++この研究の全体を通じて、わたくしが分析を進めていく基本線・視点は十八世紀の啓蒙思想にあるということである。わたくしの立場は、意識的に「十八世紀」的なのだ。われわれはだれでも、多かれ少なかれ、啓蒙の子である、とわたくしは信じている。西洋社会の成員たる文明人- 二世紀以上にもわたる人間的伝統の後継者たち -は自分の時代の政治的・社会的動向を、ほとんど必然的にこの立場から判断していると思う。(20頁上段)

 この本書の立脚点は、著者が「十八世紀哲学に関する現代最大の歴史家」と評価するエルンスト・カッシーラーの『啓蒙主義の哲学』における信仰告白を踏襲するものである。著者の見解では、本書で論述される社会思想家たちが自らの課題とした中心問題の一つが「啓蒙思想の批判」とみなされるが、それらの「反啓蒙主義的感情の多く」は本来の18世紀的伝統に対する反発というより、それを「十九世紀後半に歪曲したかたちで再生した」実証主義の流行に差し向けられたものというべきだ、と主張されている。

 さて、本書で取り上げられる社会思想家たちであるが、著者はこの期間における最も偉大な思想家として二人の名前を掲げている。それがフロイトとヴェーバーであり、本書のタイトルはこの両名が切り開いた知的領域に向けて捧げられたものということができるだろう。そしてもう一人、著者がこの両名に匹敵する偉大な思想家とみなしているのがイタリアの歴史家、ベネデッド・クローチェである。この日本ではあまり知られていないイタリアの知的巨人について、著者はまず次のように紹介している。

++明らかに、この時代にひときわ高くそびえ立っている人物は、ジークムント・フロイトである。そしてフロイトについで重要なのは、マックス・ヴェーバー-法学者、経済学者、歴史家、社会学者、哲学者-で、かれはずばぬけた知的能力と多面性をそなえ、その健康をも脅やかした絶望的な諸矛盾を不屈剛毅の意志力によって辛うじてつなぎとめていた。第三に挙げねばならないのは、ベネデッド・クローチェであろう。この思想家は、独創性においては若干欠けるところがあるが、半世紀にわたって学問・哲学上の一種の独裁権をふるったかれのイタリアにおける影響は、今日では類例を見ないほどのものであった。われわれ歴史家がかれに負うているものは、歴史の方法および哲学的前提に関するもっとも強力な現代的批判である。(14頁下段)

 本書は、この3人を中心に据えながら、様々な思想家について論及しており、その様はこの期間に輩出した社会思想の一大展示会場の観がある。その全てをここで紹介することは不可能であるが、本書のアウトラインを簡単に紹介しておこう。まず、本書は以下に示す10の章によって構成されている。

 第一章 いくつかの予備的考察
 第二章 一八九〇年代-実証主義への反逆
 第三章 マルクス主義批判
 第四章 無意識の発見
 第五章 ジョルジュ・ソレルの現実探求
 第六章 新理想主義の歴史観
 第七章 マキアヴェルリの後裔-パレート、モスカ、ミヘルス
 第八章 マックス・ヴェーバー-実証主義と観念論の克服
 第九章 ヨーロッパの想像力と第一次世界大戦
 第十章 一九二〇年代の十年-裂け目に立つ知識人

 第一章は序論、第二章及び第三章はこの時代の社会思想全体を規定している一種のパラダイムともいえる実証主義批判、及びマルクス主義批判という観点から、様々な思想がそれらとどのように対決していったのかが概観されている。
 第四章以降が本書の本論というべきパートになる。
 第四章の無意識の発見はもちろんフロイトの業績に帰するものであるが、その発見を準備した先行的な思想として、エルンスト・マッハの『感覚の分析』、ハンス・ファイヒンガーの『かのうようにの哲学』、ウィリアム・ジェームズの『宗教的経験の諸相』といった著作の概要が示される。そしてフロイトに先行する直観の哲学の総帥としてベルグソンの哲学が論じられ、この時代におけるベルグソニズムの隆盛が何を意味していたのかを解き明かそうと試みている。ベルグソンの研究領域とフロイトのそれはほぼ同様の範囲に収まるのだが、フロイトはベルグソンそのものにはなにものをも負うていないとされている。両者ともその研究の過程で「人間の意識に関する本質的に非物質的な概念」(85頁下段)に到達しているのだが、それを「無意識」として定位したのはフロイトであり、ベルグソンは忘れ去られていく。
 先に示したように、著者はフロイトこそこの期間に出現した最重要な社会思想家と位置づけているわけであるが、フロイトの生涯は、無意識の発見に至る臨床家としての時期が認識論と形而上学に縁取られた時代とみなされ、その社会哲学は、『幻想の未来』に始まる晩年の15年間に著された諸著作において形を得るものとなったと捉えられている。
 第五章は、日本では『暴力論』の著者としてのみ知られるソレルの思想が論じられる。ソレルの立ち位置は、「かれの精神は、二十世紀初頭のほとんどすべての新しい社会学説が吹き通した風通しのよい十字路のようなものであった」(111頁上段)と規定されている。いわばソレルという思想家はこの時代の学際ネットワークの結節点に位置するような思想家だったようである。その奇矯な精神は批判的思想家としてはこの上なく強力な存在であったが、概念の構築には全く不向きであったようだ。その最晩年においてソレルは漸く抽象的研究に着手したようだが、そこで見出された概念は断片に留まったままとなってしまったとされている。

(続)

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先崎彰容「ナショナリズムの復権」 ちくま新書 2013年6月10日

 ナショナリズムという観念形象をどう捉えるか、というのは難しい問題である。著者はこの難問に対して、その基底には「死」への誤解が横たわっているのだ、という認識を踏まえ、現在の日本においてナショナリズムは3つの誤解に曝されていると主張している。

++ナショナリズムが危険であると叫ぶ議論のすべてが、全体主義や宗教、そしてポピュリズムにたちこめる死の匂いを、無条件にあてはめているのだ。第二次大戦が世界中で大量の犠牲者を出した以上、戦後のこの誤解は確かに本質的で納得がいく。
 しかしだからこそ、死の匂いすべてを否定する必要はない、否、してはならない。私たちにとって死は、避けることのできない出来事であり、むしろ勇気をもって匂いの差に敏感でありたいと思う。人間の根源的なあり方にまで遡り、ナショナリズムを考えるとは、そういう意味なのだ。(28~29頁)

 その3つの誤解とは、ナショナリズム=全体主義、ナショナリズム=宗教、ナショナリズム=民主主義という型の認識形態であり、著者はそのような認識がどのように生じてきたのかを、ハナ・アーレントの「全体主義の起源」、吉本隆明の「共同幻想論」、柳田国男の「先祖の話」、江藤淳の「近代以前」、丸山真男の「日本政治思想史研究」という5つのテクストを基底に据え、それらを丁寧に読解することで発生論的に解きほぐし、それらの誤解を脱色したあり得べきナショナリズムの救済を試みている。それが、「ナショナリズムの復権」という書名の含意である。
 さて、個々の行論の詳細に立ち入ることは、ここでは差し控えるが、本書における著者の試みは成功しているといえるだろうか。上に掲げた個々のテクストに対する読解は相応に丁寧で緻密なものだが、私には、本書は、ナショナリズムの前提となる、「国家」という社会形式に対する本質論的な考察がスキップされているように思われた。著者には先験的な「国家」という社会形式への信があり、その信が全ての議論の前提とされている。そして、それが結果として、ナショナリズム=宗教という認識に対する批判を不十分なものにしてしまっている。したがって、個々のテクストの読解については概ね首肯できるのだが、その結論はあまりに文学的に過ぎると感じられた。

++たとえば国家を考えるうちに高坂正堯(一九三四~一九九六)は次のように思った。国家には三つの要素がある。「力の体系」「利益の体系」「価値の体系」この三つがからまりあって国家はできあがっている[高坂正堯「国際政治」中公新書1966]。そして戦後の日本は経済成長=利益の体系だけを国家目標とし、一方で力の体系はアメリカの軍事協力にゆだねてきたのだった。
 そして、価値の体系を置き去りにしてきたのである。
 価値の体系とは、私たち自身の生き方や死に方について考えることである。生死をどう理解し、どう処理してきたか。ここから国家のあり方について考える際、出発するということである。文化や伝統という擦り切れたことばからは出てこない重みがそこにはある。
 私たちは、日本人の死生観と倫理観を、戦後、一切無視してしまった。それを重大な問題だとも思わず、今、経済や政治の混乱に踊らされ日本再生などと言っている。それは過剰なまでに心躍るおしゃべりなのだろう。活気に満ちた話もできるだろうし、愛国の気分すら感じるのかもしれない。しかしその背後に、問い続けなくてはならないことがある。それをナショナリズムの復権と筆者は言っているのである。(220~221頁)

 いうまでもなく、このような著者の見解は、3.11を経過した服喪の言葉として語られている。本書の著者は1975年生まれの近代日本思想史専攻の俊英で、いわき市に在る東日本国際大学の准教授であり、本書の言葉は六畳一間の被災者借り上げ住宅から職場へと通う日々の中で紡ぎだされたもののようである。その意味では著者の立ち位置は正当なものであり、本書の試みには拍手を贈りたいが、それ故に、議論がその特殊性の気圏に滞留しがちな点が気にかかった。
 

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色川大吉「明治の文化」② 精神構造としての天皇制


 「明治の文化-Ⅷ 精神構造としての天皇制」は、歴史家色川大吉による天皇制論である。色川は、明治期を通じて形成された近代天皇制、大日本帝国憲法として成文化した天皇制は、政治、経済、教育を通じて発動する幻想のメカニズムとして、イデオロギーの水準を越えて明治の民衆の精神を拘束する制度として完成をみたと考えており、ひとまず、そのメカニズムに「内縛」という言葉を差し当てている。

++天皇制は精神構造としては不可視の巨大な暗箱である。日本人は知識人も大衆も、その四隅の見えない暗箱にいつのまにか入りこんで、なぜ自分たちがこれほどまでに苦しまなければならないのかを知ることもできず、詠嘆しつつ死んでいった。そうした幻想の状況、しかも、そうした全状況の対象化をゆるさない内縛の論理が、大衆の側にあることの方が恐怖なのである。大衆を駆りたて、朝鮮人や中国人を虐殺させた天皇制も怖ろしいが、おなじ日本人同士を抹殺しあわせた根深い虚無を、私たちは須長漣造や井上伝蔵の葬られ方のなかに重く見るのである。(265頁)

 このような「内縛の論理」に、フーコーが提示した規律訓練型の権力メカニズムとの類似性を指摘することは容易だが、それを直ちに相同なものと見なす訳にはいかない。
 色川は、この視点に立ち、まずはこの国における「国体」観念の変遷を素描していく。「国体」観念の淵源は遠く「古事記」「日本書紀」まで遡れるものだが、それは以後「神皇正統記」「中朝事実」「大日本史」「皇朝史略」「日本外史」というこの国の史書において、その都度歴史的な正当性論と結合することで歴史変革の一源泉をなしてきた。江戸期において、それらは山崎闇斎や山鹿素行らの儒教国体論や、本居宣長、平田篤胤らの国学的国体論を生み、それらの諸派は、やがて幕末の尊皇攘夷思想の奔流となり、時代を大きく旋回させることになる。色川は、この一千年の「反省的意識(膨大量の歴史情報)」(268頁)の堆積の中に「国体」観念の思想的伝統を認めるとともに、それに新たな「開明の精神」、五箇条御誓文に示された「旧来ノ陋習を破リ天地ノ公道ニ基ク可シ」や「知識ヲ世界ニ求メ大ニ皇基ヲ振起スヘシ」等によって新たな価値が付加され、「四民平等」、「一君万民」の原理として新たな「国体」観念を切り結ぶことになる、とみている。

++このときいらい、天皇制は「国体」の本義による政治的・軍事的な権力の中央集中と、他方で「公議輿論」の尊重とか「立憲制」への指向というイデオロギーを用いはじめる。(中略)廃藩置県、学制制定、徴兵令、地租改正と、明治初年の大改革が進行するにつれ、絶対主義と近代的機能主義とを包摂していった天皇制は、その内部において自由民権運動の抵抗を排しながらも、一路理念的な完成をめざして幻想領域を拡大していった。そして、その許容範囲は、ついに福沢諭吉の合理主義、加藤弘之、井上哲次郎らの社会ダーヴィニズムから頭山満、樽井藤吉、内田良平らのアジア主義にまで及んだのである。(269~270頁)

 色川は、そのような明治天皇制におけるイデオロギー的国体論の一応の完成を、元田永孚らの儒教主義と、井上毅らの明治的立憲主義が折衷抱合されている「教育勅語」(明治23年)に見出しているが、その中枢たる天皇存在の絶対性は、最初から民衆の意識に備わっていたものではなく、明治期を通じて形成されていったものとみている。
 明治初年、天皇の存在を絶対視していたのは、一部の武士や草莽に過ぎなかった。それは天皇の側近たる維新政府の高官も例外ではなく、その典型例として大久保利通の「非義の勅命は勅命にあらず」という言が引かれている。「神皇正統記」以来、「王道」にこそ権威の源があり、天皇の権威も天皇個人に固有のものではなく、天下万人の同意にあるという思想は、いわば伝統的な正論なのだが、そこに天皇親政の復古論が糾合されることで、明治における「国体」観念における正当性観念の相剋が生じることになる。色川はそれを「天下ハ一人ノ天下ナリ」と「天下ハ天下ノ天下ナリ」との矛盾の内包として捉えている。そして、その矛盾は、地方の豪農・富農層を階層的な運動母体として活動していた自由民権派の思考の中にも刻印されていることが示される。そこに民権家たちの「政治的レアリズム」が読まれると同時に「歴史の成熟の度合」の低さがみられている。
 行論は、ここから丸山真男の「国体」論の検討に向かう。丸山真男の方法論は「日本の思想」(初出は1957年、岩波新書1961年)という有名な論文に集約されているとして、次のように示されている。

++丸山氏は近代天皇制の思想的性格として、臣民の無限責任と体制としての無責任性、精神の雑居状況と「国体」を機軸とする無限抱擁的性格を指摘する。そして、その根源を日本社会の構造からさかのぼって、国学の思惟様式や、さらにその原型としての固有信仰の発想にまで求めるのである。丸山氏がこうして日本の思想をトータルにとらえようとするときの眼は、マックス・ウエーバーが西欧市民社会の精神秩序やエートスを軸としてアジアの思想性格をとらえようとしたときの眼に似ている。鋭いが脱亜的である。かれは、日本には真の意味で思想が伝統として蓄積されることがなかった、という。(279頁)

++そこで丸山氏は、これを無構造の「伝統」とよび、これを古来、キリスト教の絶対神に象徴されるような思想の整序原理=精神的機軸をもたなかったが故の日本人の精神生活にみられる体質だとしてしまう。(280頁)

++(以下は丸山真男「日本の思想」)小林秀雄は、歴史はつまるところ思い出だという考えをしばしばのべている。それは直接には歴史的発展という考え方にたいする、あるいはヨリ正確には発展思想の日本への移植形態にたいする一貫した拒否の態度と結びついているが、すくなくとも日本の、また日本人の精神生活における思想の「継起」のパターンに関するかぎり、彼の命題はある核心をついている。新たなもの、本来異質的なのまでが過去との十全な対決なしにつぎつぎと摂取されるから、新たなものの勝利はおどろくほどに早い。過去は過去として自覚的に現在と向きあわずに、傍におしやられ、あるいは下に沈降して意識から消え「忘却」されるので、それは時あって突如として「思い出」として噴出することになる。(280頁、丸山真男「日本の思想」岩波新書では11~12頁)

 丸山真男によるこのような日本思想の要約とその思想継起の仕方について、それは明治以降の知識人には概ね妥当するものだが、「日本人一般」や「大衆」へと敷衍して妥当するものといえるか?というのが、まず歴史家色川大吉が投げかける疑問である。そして、その問いに対する彼の答えは「否」である。色川は「無限抱擁」的性格が日本人一般にあったことも否定はできないが、伝統的実感信仰に固執した民衆と、「ひょうひょうとした思想放浪の道をたどったインテリ」(283頁)の間には本質的な差異があるとして、それを捨象しようとしてかかる丸山の構えは誤りであると述べている。だが、本書のこの段階では、その差異を明確に指し示すことはできていない。色川の論点はそこから丸山政治学の近代主義批判へと転じていく。丸山の歴史認識は「近代的規矩を過去の歴史的伝統の評価のメルクマールとして暗黙のうちに前提」としているというように。
 丸山真男は、「日本の思想」で明治21年6月18日の枢密院第一回憲法制定会議における議長伊藤博文の演説を「近代日本の機軸としての「国体」の創出」(287頁、丸山真男「日本の思想」岩波新書では28頁)として論じているが、伊藤が丸山のいうような意味での「内面的機軸」や「伝統」等の意味を承知しており、丸山がいうように「新しい国家体制には、「将来如何の事変に遭遇するも・・・・・上元首の位を保ち、決して主権の民衆に移らざる」(「明22・2・15、全国府県会議長に対する説示」、『伊藤博文伝』中巻、656頁)ための政治的保障に加えて、ヨーロッパ文化千年にわたる「機軸」をなして来たキリスト教の精神的代用品をも兼ねるという巨大な使命が託されたわけである」(丸山真男「日本の思想」岩波新書30頁)とするのであれば、伊藤博文という政治家は世界にも類をみない天才政治家であると評価せざるを得ないが、歴史家からみた場合、このような伊藤博文像は、丸山真男の近代主義が捏造した「蜃気楼」に過ぎないと断じている。
 だが、それにもかかわらず丸山真男の「国体」論は、そこから鋭利な切れ味を発揮してみせる。
 第一に、丸山は「国体」を「非宗教的宗教」と呼び、その「国体」という観念がどれほど恐るべき魔術的な力をふるったかの例を「虎ノ門事件」における臣民の無限責任の連鎖「茫として果てしない責任の負い方」(丸山真男「日本の思想」岩波新書32頁)に見出し、当時東大にあった外国人教師の眼を通して語らしめている。
 第二に、臣民に対してそれほど無限の責任を要請する「国体」は、その一方で平時には、無構造の前提としての「固有信仰」以来の無限定な抱擁性を継承している。「いかなる学説によっても国体をイデオロギー的に限定し、相対化することは慎重に避けたため、国体は厚い雲層に幾重にも包まれて容易にその核心をあらわさない」(291頁)。色川はここに竹内好の天皇制論「国体という神秘な、それに立ち向う精神の力を不思議になえさせる巨大な圧力をもつ超越存在」を接続してみせる。
 第三に、「国体」の無限抱擁性がしからしめる国民の内部世界にいたる拘束性(丸山はそれを「精神的機軸」と呼ぶ)であり、それはヒットラーが羨望したほどの「イデオロギー的同質化」作用の条件とされている。
 第四に、このような「国体」を支える最終細胞を部落共同体にみていること。そこでは、全ての対立的契機が溶融され、個人の析出をはばみ、「固有信仰」的思想を再生し、天皇制護持の源泉となっている。
 色川は、丸山真男の「日本の思想」における「国体」論をこのように要約し、第一及び第二の観点については全面的に同意するが、「その構造を成り立たしめている」第三及び第四の観点には、次に示す理由から同意できないとしている。

++「国体」がたんに外的制度ではなく、無限に民衆の内面的世界に入り込み、精神的機軸になったというのはほんとうか。私にはそうなったとは思えない。それは伊藤博文ら支配者たちが永久の努力目標として、民衆の心をつかみ切ろうとしたことをいうのであって、それは最後まで不安感を拭いえないものであった。(中略)民衆の側からいえば、かなりの深みまで「国体」の擬制を受けいれながら、最後の一点で天皇制に魂を渡さなかった。いちばんの深部で、天皇制は日本人の心をとらえ切れていない、「国体」は真の意味で、民衆の精神的機軸にはならなかった、そう私は考える。(292~293頁)

 色川は、この点について「それを詳しく論証することはむずかしい」としながらも、それぞれ「共同体論」と「家族国家論」という丸山が提示した観点において、それを否定することを試みる。
 まず「共同体論」だが、丸山が提示する「共同体概念」は、「寄生地主制が確立して、農村にはまったく活気が失われた明治末から大正、昭和初年にかけての“停滞期の部落共同体”のイメージ」(293頁)、つまり本書「明治の文化」の「Ⅶ 非文化的状況と知識人」で描出された停滞期の静態的モデルのみに依拠したものであり、歴史的にみて一面的な抽象に過ぎないと批判している。色川自身は「日本の部落共同体」の変遷を明治維新から自由民権期にかけての「形成期=変革期」、天皇制や寄生地主制の支配が確立した「停滞期」と敗戦以後の「解体期=変貌期」に区分しているが、丸山の共同体評価は、この停滞期のモデルに、西欧市民社会の優性な理念型から抽出したモデルを比較しているという訳である。
 次に、「家族国家論」についてだが、ここでは吉本隆明が「共同幻想論」で切り開いた知見が援用され、家族は「対幻想」を基底とする共同性であり、家族-村落共同体-国家の共同性はそれぞれ異なった位相にあるとみられている。そして、共同性が異なる位相に移行される場合は、必ず擬制的に行われるのであり、「幾段階もの複雑なイデオロギー的媒介や飛躍が必須のものとなってくる」(304頁)と規定している。そして、丸山はその操作を、縄文以来の固有信仰にまで遡り、「日本人固有の思惟様式」なる概念を動員し、それを媒介に付することでその移行を説明しようとしているが、色川は、その操作がうまくいっているとは思えないと述べている。しかしこれ以降、本書における丸山批判は半ばで腰砕けの状態となってしまっている。
 おそらく色川が企図していたのは、歴史事実を踏まえた内在的な天皇制批判であり、丸山真男の天皇制批判は外在的なものに留まっており、「精神構造としての天皇制」の最深部まで批判の刃が届いていない、ということをいいたかったのではないかと思うが、議論が輻輳し丸山真男の「家族国家論」批判は宙に浮いてしまう形になっている。
 だが、「家族国家」という観念は、明治期に成立した近代天皇制が自らのあるべき姿として思い描いたものであり、大日本帝国が曲がりなりにもあの総力戦へと「大衆」をも含む「国民」の意志を収奪し得たのは、天皇制という体制において、この「家」と「国」との接合が擬制的に成立していたからであろう。そして色川は、日露戦争後の1910年(明治43年)頃に作成された国定の小学校教科書や「尋常小学国語読本」の記述に、そのような「家」と「国」との擬制的接合を成し遂げた近代天皇制の一応の完成をみている。色川は、その接合手段として天皇制が体系的にとった方法は、以下の四点に集約できると論じている。

① 明治天皇を国家統一のシンボル的ヒーローに仕立て上げる操作
② 国家神道を通じた祖先崇拝の動員
③ 危機意識の扇動(民族ナショナリズムの高揚)及びその手段としての戦争
④ 国家教育による馴致~国定教科書の洗練と完成

 色川は、本章の後半部をこれらの実例を挙げた分析に割いており、各論は各論として、なかなかに興味深い内容なのだが、これに立ち入っているとまだまだ長くなってしまうので、ひとまずここで了としておきたい。

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