(承前)
クローチェの知的バックグラウンドは、イタリアの先駆者ヴィコを例外として、極めてドイツ的な教養に裏打ちされていたが、彼は、マルクスの研究を通じて「イタリア政治学の最良の伝統」というべき、当時「マキアヴェリアン」と呼ばれていた一連の思想家たちを再発見することになる。それが第七章で論じられているヴィルフレッド・パレート、ガエタノ・モスカ、ロベルト・ミヘルスである。
いずれも日本では馴染みの薄い人物だが、著者によると、彼らによって「政治的・社会的エリートという今日の基準的な概念」(172頁上段)が獲得され、そのスタンスは微妙に異なるものの3人とも「少数支配の理論をともに支持」(173頁上段)していた。
彼らの中で、自らが依拠する哲学的な前提の分析に赴いたのはパレートのみだった。パレートは、日本ではどちらかというと経済学の分野で知られた人物であるが、社会思想家としての主著、2000頁にも及ぶ『一般社会学』において、彼は数々の「主観的・認識論的諸問題」(175頁下段)に逢着することになる。
パレートは、彼の社会学的探求において、非論理的なものの領域を主題とし、そこに「残基」という言葉を差し当ててみせるが、それは、文字通り「残余のカテゴリー」を示すに留まってしまい、その言葉が指し示そうとした本来の概念に到達できず、ある時は「生物学的本能」を指し示し、ある時は「価値の領域における明確化のための抽象概念」を指し示すようにみえたが、パレートはそれを恣意的に導き出すことしかできなかった、と著者はみなしている。
パレートの残基には元来6つのカテゴリーが存在したようだが、パレートは『一般社会学』の終局においてそれを2つの残基に還元してしまう。それが、残基Ⅰ-「結合・団結の本能」と残基Ⅱ-「集合体の持続」であり、そもそもこの二つの残基は、パレートの発想自体がマキアヴェルリからの遺産である「ライオン」と「狐」の対照に連なる単純な「直観」に依存していたのではないかということを暗示している。しかし、著者はこの点にこそパレートの業績の精髄があると考えている。
++残基Ⅰを定立するのは難しくはない。少なくともイタリア人にとっては、combinazioni〔結合、団結〕という語はもともと明確で多岐にわたる意味をじゅうぶんにあらわしている。しかし、「集合体の持続」は、もっと微妙に複雑で、保守的理想、革命的情熱、宗教的熱狂といった実にさまざまな表現を一つの題目の下に集めているものである。人間社会の永続的要素としてこれを規定したことは、おそらく今日の政治学的思索へのパレートの唯一最大の貢献であろう。
だから、軽率な読者が考えたように、二つの基本的な残基はそれぞれ保守主義とその反対者を表徴していると結論するほど誤ったことはなかろう。実際パレートの図式の大きな長所の一つは、在来の左右分割図式を横断していることにある。かくして-パレート自身の経験に近い例をとれば-かれの図式は、ムッソリーニのひとを戸惑いさせるようなイデオロギー的変節について想像力豊かな説明を与えるのである。革命的社会主義者であれ、イタリア地主階級の寵児であれ、ひとつの意味における指導者(ドウーチェ)がつねにかれ自身には真実であった。つまり、かれはライオン以外の何者でもなかったわけである。
西洋の二千有余年歴史を通じてこの二つの態度の変遷を手にとるように明らかにすることが、パレートの究極の業績であった。各残基がどの程度歴史上の代々のエリートの特質をあきらかにしているか-また、老化した支配階級に新しい要素をどんどん注入することによって、あるいはあるエリートが他のエリートによって暴力的に打倒されることを通じて、矛盾的なこの態度というものがどのようにあらわれたか-を評価考量すること、この「社会的均衡」の評価考量からパレートの犀利な論評が生まれたのであった。この論議のなかに、かれの個人的感情が深く秘められていたことは疑いない。少なくとも自分の時代に対しては、かれは反動の順番がきていることを確信していた。(182頁下段~183頁上段)
では、このようにパレートに代表されるネオ・マキアヴェリアン達は、イタリアのファシズムの抬頭にどの程度責任があるといえるのかが問題となる。著者の見解は、彼らの基本スタンスは反議会主義的雰囲気の醸成に貢献し、結果的にムッソリーニを利することになったことは否めない、というものである。実質的な関係はともかく、ムッソリーニは、パレートの『社会主義諸体系』を読んでおり、パレートの提示した「エリート」の観念を「現代におけるもっとも特筆すべき社会学的概念」と認めているのである。
(続)
PR