ビッグサイトで開催されているブックフェアのイベントで、金禹昌氏と柄谷行人氏の鼎談が行われた。
金禹昌(キム・ウチャン)氏は高麗大学名誉教授で、現在の韓国の人文科学を代表する知識人、専門は英文学で、コーネル大学で修士号、ハーバート大学で米国の文明史に関する論文で博士号を得ている。現在、御年78歳とのこと。柄谷氏と金氏は既に30年来の友人だが、顔を合わせての懇談は8年ぶりとのことである。
司会は国際教養大学客員教授で「ハングルの誕生」の著書がある野間秀樹氏。話の導入部のみ、以下に簡単に紹介しておく。
話はまず、金氏の韓日における近代化の様相の対比から始まった。金氏は、日本の近代化の様態が、対西洋との関係が中心的であったとするなら、韓国のそれは、まず対日関係があり、対日関係を通じた形で対西洋関係が見出されていったことを指摘する。従って、直接西洋に学ぶという方向性は、日本の近代化と同化することになり、韓国としての主体性の基軸を何処に置くかということになると、より複雑な操作が必要であったという。
そこで見出されていったのが、ポストモダニズムであり、それは日本の植民地統治下にあった時代から生じている。同じ頃、日本でも近代の超克といった形でそれは問題となったと思うが、韓国においてはより複雑な近代史の流れの中で、日本とは異なる形でそれは継続的な問題であり続けており、その中で伝統的な文化は壊滅的な打撃を被ってきている。
その一方、民主主義的な土壌の形成においては、内面化に課題を残しつつ資本主義に対応していく中で、自由民主主義が確立され、近年は福祉的なものに目を向けた民主社会主義的な動きも生じている。
韓国には、イデオロギーの源泉は常に「民」にあるという、儒教に根ざした伝統的な考え方が息づいており、政治や文学の問題は、大枠では資本主義体制下にありながら、その中で「民」の問題としてどうあるべきかということが継続的な問題でり、韓国文学は常に社会的問題への関心を中心に動いてきた。
しかし、近年では、直接的には社会的領域から切り離された個人的なものの領域が拡大してきており、かつて柄谷氏が「日本の文学は死んだ」といったような状況に近づきつつある、という。
これに対して、柄谷氏はカントを日本に最初に紹介した人物、北村透谷から話を始め、日本は普遍性という観点では、おそらく韓国より低い位置にあるという指摘を行う。韓国・朝鮮(コリア)では、本格的な儒教の社会化が起こったが、日本のそれは表層的なものに留まってしまった。それを象徴的に示しているのが、「天」という抽象観念の理解にある。この天という観念は西洋的に擬すならばGodに類するものだが、日本ではそれは「天皇」になってしまう。韓国においては「民」にこそ「天命」があるという儒教的観念が貫徹されているが、日本にはそのような「天」の観念は一部の変わり者を除いて生動することはなく、その積み重ねの上に武士による社会構築がなされてきた。その差異が重要なのだ、と説く。
以下、現在の日韓関係や文学の位置、政治的関係を回避した文化交流のあり方、東アジア共同体、ハングルと仮名文字における文化的差異の問題等、様々な興味深いイシューについて話題は振れていったが、詳細はどこかで活字になると思われるので、それを期待したい。
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