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東西南北舎

東西南北舎は東西南北人の活動に伴い生成したテクスト群の集積地である。「東西南北人」は福岡の儒者亀井南溟が秘蔵した細川林谷篆刻の銅印。南溟の死後、息子の亀井昭陽から、原古処、原釆蘋、土屋蕭海、長三洲へと伝わり、三洲の長男、長壽吉の手を経て現在は福岡県朝倉市の秋月郷土館に伝承されたもの。私の東西南北人は勝手な僭称であるが、願わくば、東西南北に憚ることのない庵舎とならんことを祈念してその名を流用させて頂いた。

   
カテゴリー「アニメーション」の記事一覧

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宮崎駿「風立ちぬ」


 宮崎駿の作品を映画館で観たのは「もののけ姫」以来のことだ。
 「もののけ姫」を観たのは1997年だったか、同じ日に「The end of Evangelion」とはしごして観たと記憶している。その監督である庵野英明が、本作では主人公の声を演じている訳だが、当時の印象は、後者の勢いが前者を上まわり、なんとなく世代交代を感じたものである。今回の庵野の起用と宮崎駿の引退表明は、宮崎から庵野への後継指名ととれなくもないが、この二人の関わりは映画「風の谷のナウシカ」以来のものだから、時代がひと廻りし、収まるべきところに収まるべきものが収まった観がある。

 さて、映画「風立ちぬ」の主人公は、周知のように「零式艦上戦闘戦」の設計者として名高い堀越二郎と、作家の堀辰夫(本人及び彼の小説の作中人物)を合成して構成されている。描かれている時代は、舞台がヨーロッパなら第一次世界大戦から第二次世界大戦にかけての戦間期ということになるが、極東の日本では第一次世界大戦そのものの爪痕は薄く、大戦後に起こった関東大震災や大恐慌が時代を分ける画期として描かれている。原作はモデルグラフィックスに連載された宮崎自身の筆になる漫画だが、残念ながら私は未読である。
 ストーリーは、飛行機設計者として生きた主人公の半生を、第二次世界大戦(大東亜戦争)の敗戦に至るまでの過程として追ったもので、そこに、あからさまな夢の共有という形で導入されたイタリアの飛行機設計者ジャンニ・カプローニとの対話と、よりフィクショナルな構成のもとに結合された堀辰夫ふうの避暑地とサナトリウムにおける里見菜穂子(堀辰夫の「菜穂子」から拝借された名前だが、原作での姓は三村→黒川、本作では黒川は堀越二郎の上司で菜穂子との婚儀で仲人を務める人物の名前として使用されている)との恋愛劇が外挿されている。
 宮崎本人やプロデューサーの鈴木敏夫も述べているように、本作の登場人物が、これまでの宮崎アニメの主人公たちが得意技としてきた「飛翔」や「跳躍」を奪われ、地に足を付けて歩かざるを得ない人間として描かれている点は、今までの宮崎の作品にはほとんど見られなかったことだ。
 タイトルの「風立ちぬ」は、堀辰夫の同名の小説の冒頭に掲げられたヴァレリーの詩「海辺の墓地」の一節“Le vent se lève, il faut tenter de vivre.”を堀辰夫が翻訳した「風立ちぬ、いざ生きめやも」に由来するものだが、この有名な詩句は映画の中でも幾度か登場人物の呟きとして反復されている。
 そのポール・ヴァレリーはまさにヨーロッパの戦間期を代表する知識人だが、本作にはもう一人、戦間期を代表する作家の作品からの引用もみられる。それはトーマス・マンの「魔の山」だが、その主人公、ハンス・カストルプ(映画では下の名のみの役名)の名をもつドイツ人が、主人公に不吉な未来を予見してみせる狂言回しのような役柄で登場している。
 なかなかに複雑な構成だが、筋立てそのものに曖昧なところはない。映画で描かれているのは、どこまでも自らの根底的な欲求(夢)の追求にリゴリスティックなまでに忠実な人の在り様であり、生きることは、その追求においてこそ意味があるとする宮崎流の人間肯定である。
 主人公の夢は美しい飛行機を生み出すことであり、美しい飛行機の現出に向けた主人公の意志に一切の妥協と煩悶はみられない。結果として彼が生み出すのは七試艦上戦闘機、九試単座戦闘機、零式艦上戦闘機等といった戦闘機という兵器、つまりは人殺しの道具である。そして、それらの戦闘機を主戦兵器として戦われた日本の戦争は敗北に終わり、彼の生み出した戦闘機は、無数のパイロットの命とともに太平洋の戦場に散っていく。
 映画はその末尾で、一瞬、零戦の飛翔シーンを映し出し、やがてそれらの飛行機が無残な残骸の山となってしまった光景を、主人公の心象風景として、カプローニとの最後の対話を通じて描き出して見せる。しかし、そこに自らが生み出した飛行機への愛惜は描かれていても、後悔はかけらも感じさせない。その目を覆うばかりの廃墟こそが、主人公が夢を生きた証であり、彼の生の在り方を示すものだ。
 ただし、実際の堀越二郎は、ここに描かれた堀越二郎とは異なり、零戦の運動性の向上のために、本来戦闘機に備わっているべき防弾性等の防御性能を削ぎ落とした設計を行ったこと等に随分苦しんでいたようである。しかし、映画はそのような煩悶を描かない。そこには、夢の追求に向けて愚直なまでに純化された意志のみが描かれている。
 したがって、本作は決して反戦映画などではなく、生の実相は、どうしたところで戦いであることを明示したものとなっている。宮崎駿の表面的な言説は、かのノーベル賞作家がそうであるように、今では死に態となっている戦後民主主義的かつ左翼的言辞をどうしようもなく繰り返しているが、本作は彼のアニメーション作品としては、はじめてその皮相で空虚な表層の言辞を食い破ってみせたものと感じられた。
 そこに露出してきたものは、マンガ「風の谷のナウシカ」の終局において、ナウシカが、人類の英知を詰め込まれた墓所の主から叩き付けられた、「お前はみだらな虚無だ、危険な闇だ」という滅びの託宣に向けて吐き出した「ちがう、いのちは闇の中のまたたく光だ」という叫びにも似た何かだ。だが、ナウシカのそれが叫びであるが故にロマン主義的な物語の構図に回収されていったのとは異なり、敗残の堀越二郎が呟く、唖然とするような「生きねば」という述懐は、あからさまにメロドラマを擬態してきた作品総体を、一瞬にして覆してしまうような強烈な何かを放っている。
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劇場版STEINS;GATE 負荷領域のデジャヴ

 並行する時間の異なる世界線。その世界線を幾度も時間跳躍(タイム・リープ)して、あり得べき世界、あり得べき結末を必死になって求める観測者主体。
 もちろん、STEINS;GATEの世界は現実にはあり得ない絵空事である。だが経験の構造として、コンピュータ・ゲームをプレイするプレイヤーはそれと類似の感覚を味わう。ゲームの目的は明確だ。アプリオリに与えられたルールに則り、様々な障害を乗り越えて物語の終末(エンディング)へと突き進むこと。しかし、その目的をクリアすることは決して簡単ではなく、失敗を繰り返しながら、何度もセーブポイントまで跳ね返され、同じプロセスを繰り返す。
 本作のTVシリーズ第16話で阿万音鈴羽こと橋田鈴が残した手紙が象徴的にその行為の様態を炙りだしている。
 
 失敗した失敗した失敗した失敗した失敗した失敗した失敗した失敗した失敗した、あたしは失敗した失敗した失敗した失敗した失敗した失敗した失敗した失敗した失敗した...........

 失敗した、という思いはたとえそれがゲームでのことであろうと苦いものだ。まして、現実における失敗は誰もがそれを免れようと必死に足掻きつつ、多くの人々がそれに絡め取られ、その当為の中で呻いている。いうまでもなく失敗はありふれているのだ。
 近年、このように繰り返す時間の反復を描いた作品も、それ故にありふれてきている。アニメーションでは、涼宮ハルヒシリーズの「エンドレスエイト」、「魔法少女まどか☆マギカ」、方向性は異なるが、劇場版「エヴァンゲリヲン」の壮大なやり直しもその中に加えてもいいかもしれない。映画では、本作のモデル作品とでもいうべき「バタフライ・エフェクト」のシリーズ。小説では桜坂洋の「All You Need Is Kill」やマイクル・クライトンの「タイムライン」、ロバート・J・ソウヤーのTVシリーズ化された「FLASHFORWARD」等々。SF小説では、探せばまだいくらでも出てくるだろう。
 これらの時間構造を内蔵した作品群の簇生を「ゲーム的リアリズムの誕生」として論じたのは東浩紀だが、これらの作品は、リアルな現実のシュミレーションとしてではなく、リアリズムの手法ではうまく表現できない感覚や感情の「圧縮」を可能にする表現手法として機能しているのではないか、というのが現時点における私の観測であり、それは、TVシリーズを含めた本作において明確な達成を示しているのではないか、と感じている。
 「劇場版STEINS;GATE 負荷領域のデジャヴ」は、TVシリーズのアフターストーリであり、構造的にはTVシリーズと合わせ鏡のように設えられ、岡部倫太郎の時間彷徨を、牧瀬紅莉栖が追体験することで、二人の想念を同期させるべく仕組まれたラヴストーリーである。
 


 

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PSYCHO-PASS ② システムの連鎖

 PSYCHO-PASSのTVシリーズが一応の完結をみた。
 だが、「正義(システム)の連鎖は、終わらない―― SIByL still continues.....」のテロップは続編を予感させるものとなっている。常守朱も狡噛慎也も死んではおらず、シビュラシステムを根幹とした社会システムも何ら変わらない状態に置かれたまま、ストーリーは途切れた。
 システムは終わらない、否、終われないからこそのシステムなのだ。葛藤と軋轢を孕んだままの現状維持、つまりはそういうことだ。

 私が、本作の世界設定をある程度把握した段階で思い浮かんだSF作品は、スタッフが意識したP.K.ディックの諸作より、それに先行するスタニスワフ・レムの「星からの帰還」の方だった。手もとに本が見当たらないので、20年以上前に読んだ記憶に頼るしかないが、その筋は概ね以下のようなものだったと思う。
 宇宙旅行から帰還した宇宙飛行士たちは、相対性理論の「ウラシマ効果」により、彼らが出発した時から100年以上の時を経た地球に帰り着いたのだが、そこは、彼らの知人がいないのみならず、彼らが知っていた人間とは異様に異なる人々しかいない。その違いは、外見的なものではなく心的な在りようの方にあり、現在の地球人たちは彼らの知る人の行動様式や規範から大きくズレた存在として彼らの前に立ち現れる。実は、彼らの旅行中に人類は、闘争本能を陶冶する手法(薬品によるものだったと思う)を開発・導入しており、それによりかつてない平和な社会体制を実現していたのだ。帰還した宇宙飛行士たちは、彼らとの交渉を深めるほど、自らの異質性による深い疎外感を味わい絶望する。彼らに残された生き方は再び宇宙へと旅立つことだけだった。
 戦争や犯罪、それらはおよそ一般的に「悪」として生起するしかない事象だが、それを克服しようとして、人の闘争本能や競争意識そのものを根絶やしにする。だが、それを追求すると、社会的にはどうしようもない衰退過程に入ってしまう。同様の思考実験は、確か福永武彦の短編小説(これも手元に本がなく、タイトルも失念してしまったが)にもあったと思う。

 本作のシビュラシステムは、このような一昔前のレムや福永が挑んだテーマに異なる位相からアプローチしたものと思えたのだ。本作をご覧になった方には周知のように、シビュラは、免罪体質者(犯罪的行為に及んでもPSYCHO-PASSが変動しない特異な形質をもった人々)の脳をかき集めた集合知による社会統治システムとして描写されているが、その実態は、PSYCHO-PASS判定によって犯罪係数が一定水準以上の者を潜在犯として社会的に隔離する、一種の環境管理型権力(東浩紀)という訳だ。
 シビュラの秘密を知り、シビュラシステムから、新たな免罪体質者:槙島聖護の身柄確保を依頼された常守朱は、シビュラの傲慢、不遜、身勝手さ、いい加減さに憤るが、現状の社会秩序を維持するためにはその存在をひとまずは容認することしかできない。
 槙島聖護という免罪体質者は、いわばテロリズムによってシビュラに支えられた社会を覆すことを目論んだ革命家なのだが、彼は理論によってそれを成そうとするのではなく、自らの情緒や感性的な存在を基盤として、それを成そうとする。結果、ほぼ同類の狡噛慎也との私闘に敗れ、死を迎える。

 なかなか興味深いストーリーではあったが、シビュラの正体が割れたあとの展開については、作品継続の保全に向かったとしか思えないもので、本来なら、槙島の行動はシビュラシステムの破壊、もしくはその正体の暴露へと向かわなければならないはずだ。バイオテロへと向かった槙島聖護は、その時点でキャラクターとしては既に死んでいる。
 まあ、これがビジネスということか。

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PSYCHO-PASS ①

 フジテレビ、ノイタミナ枠で放送中のアニメーション、PSYCHO-PASSが佳境に入ってきた。
 総監督は「踊る大捜査線」の本広克行、監督は塩谷直義、ストーリー原案及び脚本は「魔法少女まどか☆マギカ」や「Fate Zero」の虚淵玄、そしてアニメーション制作はプロダクションIG。
 物語の舞台は、西暦2112年の東京、人間の心理状態や性格的傾向を計測し、数値化できるようになった世界。そこではあらゆる心理傾向が、シビュラシステムと呼ばれる包括的生涯福祉支援システムによって計測管理され、人々はそのシステムのサービスに全面的に依存する生存様式を採用している。
 シビュラシステムのメカニズムは、「サイマティックスキャンによって計測した生体力場から市民の精神状態を科学的に分析し、得られるデータをPSYCHO-PASSとして数値化、そこから導かれた深層心理や職業適性を提供する」と説明されており、人々は有害なストレスから解放された「理想的な人生」を送るため、その数値を指標として生きている。そして、そこでは犯罪に関する蓋然性についても「犯罪係数」というパラメーターとして数値化されており、たとえ罪を犯していない者でも、その値が規定値を超えれば「潜在犯」として裁かれることになる。
 本作は、そのような世界において犯罪捜査に携わる厚生省公安局所属の刑事達の物語であるが、その捜査体制は、監視官と執行官という二つの階級に分けられた人々によって構成されている。実質的な捜査を行う刑事が執行官だが、彼らは高い犯罪係数を持つ潜在犯であり、常に厳しい監視下に置かれている。それに対して監視官は、執行官の上司として捜査活動の全責任を負う刑事。彼らはその資質として犯罪係数の低さによって裏付けられた善良かつ健全な精神と模範的な社会性、更に優れた知性と判断力を兼ね備えている者とされているが、犯罪者や執行官の歪んだ精神にさらされる環境ゆえに犯罪係数を高める危険性がある。
 彼ら監視官と執行官は、ドミネーターと呼ばれる、シビュラシステムの眼というべき携帯型心理診断鎮圧執行システムを武器として犯罪捜査に当たるのだが、ドミネーターは、シビュラシステムに優先的リンクをしており、対象に照準を向けることで瞬時に犯罪係数を計測する機能を持つ。握っている者にだけ聞こえる指向性音声で状況や計測値を案内し、対象の犯罪係数が規定値に満たない場合は発砲できず、犯罪係数が規定値を越えていればセーフティが自動的に解除され、対象の状況にふさわしい段階に合わせて狙撃効果を選択・変更・変形するシステムが実装されている。

 物語は、新米監視官として厚生省公安局に赴任してきた常守朱(つねもりあかね)の視点を通して、先輩監視官の宜野座伸元(ぎのざのぶちか)、一癖も二癖もある執行官たち、狡噛慎也(こうがみしんや)、征陸智己(まさおかともみ)、縢秀星(かがりしゅうせい)、六合塚弥生(くにづかやよい)の面々を中心に描かれる群像劇であるが、制作サイドがP.K.ディック原作のブレードランナーを意識したという、ディストピアとしてのバックグラウンド世界の構築が中々に秀逸である。
 そして、敵対者として、シビュラシステムを超越した例外的犯罪者、槙島聖護(まきしましょうご)が登場する。彼は数々の凶悪犯罪者の影で悪を使嗾する者として暗躍するのだが、彼のPSYCHO-PASSの犯罪係数は常に規定値以下の反応しか示さず、ドミネーターの計測によっては犯罪者として裁くことができない。
 従って、彼はシビュラシステムにとっては完全にユニークな特異点、常に白き者なのだ。
 現在、12話まで放映され、漸く槙島聖護の特異性が明らかになったところだが、ここからどう展開していくのか、なかなか興味深い話になってきた。

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中二病となってしまったロマン主義

 京都アニメーション制作の「中二病でも恋がしたい!」が完結した。
 総監督は涼宮ハルヒシリーズや、Key原作のAir、カノン、クラナド等で実績のある石原立也。
 京アニでは初の試みとなる、原作を離れたアニメオリジナルのキャラクター等が登場する作品だそうだが、私は例によって原作は読んでいない。なお、本作の原作ライトノベルは、京都アニメーションがプロデュースしているKAエスマ文庫なるシリーズで刊行されているようだ。
 さて、舞台は、例によって高校だが、ハルヒシリーズがSF寄り、氷菓がミステリー寄りだったようには明確な傾向性は持たされていない。
 本作は、有り体にいうと、嘗て自らをダーク・フレイム・マスターと「設定」した中二病だったことを恥じている富樫勇太と、父の死という現実を受け止められず、自らを邪王真眼の持ち主と「設定」し、不可視境界線の彼方にあり得べき現実(失われた父親)を探し求めている小鳥遊六花とが織り成すドタバタラブコメディである。物語構成の点では、「中二病」という意匠を持ち込まずとも語りが成立するファミリー・ロマンスなのだが、そこにあえて中二病の挫折と再肯定というメタストーリーを重ね合わせたところがミソだろう。
 物語の終盤、勇太の説得により、六花は、一時は中二病を捨て「まとも」に生きようと試みるが、そうすることによってどうしようもない閉塞感に陥ってしまう。最終話、間違い?に気づいた勇太は、立花を迎えに行き、まるで「ロミオとジュリエット」とのバルコニーシーンのように構成された場面(彼らの友人達によって設えられた)で、六花に向かってこう叫ぶ。

>つまらないリアルへ戻るのか、それとも、俺と一緒にリアルを変えたいとは思わないのか

 うーん、こりゃ石川啄木か?と思ってしまうような台詞だが、ここにきて「中二病」という意匠も消費しつくされたな、という感が強い。
 勇太の腕のなかに飛び込んでいった六花は、勇太が幻視させた不可視境界線の彼方(実際は夜の水平線の先に揺らめく不知火、イカ釣り船の灯り?但し、立花はその現実を十分に承知している描写はなされている)の父に別れを告げて幕となるのだが、そこでとってつけたようなナレーションで、中二病は思春期の自意識過剰の産物ではあるが、人として避けては通れぬものであり、人は一生中二病だとのご託宣が告げられる。
 「中二病」という言葉は、伊集院光のラジオでの発言が嚆矢とされているようだが、こういう作品が作られてしまうと、この言葉の寿命もここまでかな、という気がする。
 そういえば先ほど、石川啄木の名を出したが、これらの精神的ルーツは高杉晋作あたりになるのかもしれませんな。

>おもしろきこともなき世をおもしろく

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東西南北人(中島久夫)
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自己紹介:
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