宮崎駿の作品を映画館で観たのは「もののけ姫」以来のことだ。
「もののけ姫」を観たのは1997年だったか、同じ日に「The end of Evangelion」とはしごして観たと記憶している。その監督である庵野英明が、本作では主人公の声を演じている訳だが、当時の印象は、後者の勢いが前者を上まわり、なんとなく世代交代を感じたものである。今回の庵野の起用と宮崎駿の引退表明は、宮崎から庵野への後継指名ととれなくもないが、この二人の関わりは映画「風の谷のナウシカ」以来のものだから、時代がひと廻りし、収まるべきところに収まるべきものが収まった観がある。
さて、映画「風立ちぬ」の主人公は、周知のように「零式艦上戦闘戦」の設計者として名高い堀越二郎と、作家の堀辰夫(本人及び彼の小説の作中人物)を合成して構成されている。描かれている時代は、舞台がヨーロッパなら第一次世界大戦から第二次世界大戦にかけての戦間期ということになるが、極東の日本では第一次世界大戦そのものの爪痕は薄く、大戦後に起こった関東大震災や大恐慌が時代を分ける画期として描かれている。原作はモデルグラフィックスに連載された宮崎自身の筆になる漫画だが、残念ながら私は未読である。
ストーリーは、飛行機設計者として生きた主人公の半生を、第二次世界大戦(大東亜戦争)の敗戦に至るまでの過程として追ったもので、そこに、あからさまな夢の共有という形で導入されたイタリアの飛行機設計者ジャンニ・カプローニとの対話と、よりフィクショナルな構成のもとに結合された堀辰夫ふうの避暑地とサナトリウムにおける里見菜穂子(堀辰夫の「菜穂子」から拝借された名前だが、原作での姓は三村→黒川、本作では黒川は堀越二郎の上司で菜穂子との婚儀で仲人を務める人物の名前として使用されている)との恋愛劇が外挿されている。
宮崎本人やプロデューサーの鈴木敏夫も述べているように、本作の登場人物が、これまでの宮崎アニメの主人公たちが得意技としてきた「飛翔」や「跳躍」を奪われ、地に足を付けて歩かざるを得ない人間として描かれている点は、今までの宮崎の作品にはほとんど見られなかったことだ。
タイトルの「風立ちぬ」は、堀辰夫の同名の小説の冒頭に掲げられたヴァレリーの詩「海辺の墓地」の一節“Le vent se lève, il faut tenter de vivre.”を堀辰夫が翻訳した「風立ちぬ、いざ生きめやも」に由来するものだが、この有名な詩句は映画の中でも幾度か登場人物の呟きとして反復されている。
そのポール・ヴァレリーはまさにヨーロッパの戦間期を代表する知識人だが、本作にはもう一人、戦間期を代表する作家の作品からの引用もみられる。それはトーマス・マンの「魔の山」だが、その主人公、ハンス・カストルプ(映画では下の名のみの役名)の名をもつドイツ人が、主人公に不吉な未来を予見してみせる狂言回しのような役柄で登場している。
なかなかに複雑な構成だが、筋立てそのものに曖昧なところはない。映画で描かれているのは、どこまでも自らの根底的な欲求(夢)の追求にリゴリスティックなまでに忠実な人の在り様であり、生きることは、その追求においてこそ意味があるとする宮崎流の人間肯定である。
主人公の夢は美しい飛行機を生み出すことであり、美しい飛行機の現出に向けた主人公の意志に一切の妥協と煩悶はみられない。結果として彼が生み出すのは七試艦上戦闘機、九試単座戦闘機、零式艦上戦闘機等といった戦闘機という兵器、つまりは人殺しの道具である。そして、それらの戦闘機を主戦兵器として戦われた日本の戦争は敗北に終わり、彼の生み出した戦闘機は、無数のパイロットの命とともに太平洋の戦場に散っていく。
映画はその末尾で、一瞬、零戦の飛翔シーンを映し出し、やがてそれらの飛行機が無残な残骸の山となってしまった光景を、主人公の心象風景として、カプローニとの最後の対話を通じて描き出して見せる。しかし、そこに自らが生み出した飛行機への愛惜は描かれていても、後悔はかけらも感じさせない。その目を覆うばかりの廃墟こそが、主人公が夢を生きた証であり、彼の生の在り方を示すものだ。
ただし、実際の堀越二郎は、ここに描かれた堀越二郎とは異なり、零戦の運動性の向上のために、本来戦闘機に備わっているべき防弾性等の防御性能を削ぎ落とした設計を行ったこと等に随分苦しんでいたようである。しかし、映画はそのような煩悶を描かない。そこには、夢の追求に向けて愚直なまでに純化された意志のみが描かれている。
したがって、本作は決して反戦映画などではなく、生の実相は、どうしたところで戦いであることを明示したものとなっている。宮崎駿の表面的な言説は、かのノーベル賞作家がそうであるように、今では死に態となっている戦後民主主義的かつ左翼的言辞をどうしようもなく繰り返しているが、本作は彼のアニメーション作品としては、はじめてその皮相で空虚な表層の言辞を食い破ってみせたものと感じられた。
そこに露出してきたものは、マンガ「風の谷のナウシカ」の終局において、ナウシカが、人類の英知を詰め込まれた墓所の主から叩き付けられた、「お前はみだらな虚無だ、危険な闇だ」という滅びの託宣に向けて吐き出した「ちがう、いのちは闇の中のまたたく光だ」という叫びにも似た何かだ。だが、ナウシカのそれが叫びであるが故にロマン主義的な物語の構図に回収されていったのとは異なり、敗残の堀越二郎が呟く、唖然とするような「生きねば」という述懐は、あからさまにメロドラマを擬態してきた作品総体を、一瞬にして覆してしまうような強烈な何かを放っている。
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