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東西南北舎

東西南北舎は東西南北人の活動に伴い生成したテクスト群の集積地である。「東西南北人」は福岡の儒者亀井南溟が秘蔵した細川林谷篆刻の銅印。南溟の死後、息子の亀井昭陽から、原古処、原釆蘋、土屋蕭海、長三洲へと伝わり、三洲の長男、長壽吉の手を経て現在は福岡県朝倉市の秋月郷土館に伝承されたもの。私の東西南北人は勝手な僭称であるが、願わくば、東西南北に憚ることのない庵舎とならんことを祈念してその名を流用させて頂いた。

   

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アニメーション「蒼き鋼のアルペジオ」と「艦隊これくしょん -艦これ-」


 TVアニメーション「蒼き鋼のアルペジオ-ARS NOVA-」は2013年10月から12月にかけて放映されたもので、現在放映されている劇場版の前半はこのTVシリーズの総集編となっており、後半には、TVシリーズ以降のオリジナルストーリーが展開されている。
 原作はArk Performanceで、2009年11月から少年画報社の「ヤングキングアワーズ」に連載中のコミックだが、例によって私は読んでいない。
 2039年、人類は温暖化に伴う急激な海面上昇により、地上での版図を大きく失い、それに呼応するかのように、霧を纏う謎の軍艦群「霧の艦隊」が世界各地の海洋に出現、見てくれは旧大日本帝国海軍の軍艦の外形そのままの軍艦を集めた「霧の艦隊」だが、搭載した超兵器で人類を攻撃し始めた。これに対して人類は持ちうる戦力を投入し、最終決戦「大海戦」に臨むも、「霧」の圧倒的な武力の前に脆くも敗れ去った、と設定されている。
 TVシリーズの物語は「大海戦」から7年が経過し、すべての海域、運搬経路を「霧の艦隊」によって封鎖され、政治経済は崩壊、人類社会が疲弊の一途をたどっていた日本を舞台に始まる。日本の海洋技術総合学院の士官候補生・千早群像は「霧の艦隊」の潜水艦「イ401」とそのメンタルモデル「イオナ」(童女のような外形をしている)と出会う。政府の制止を振り切り2人?で出奔し、イオナ=イ401の艦長となった千早群像は、数人の海洋技術総合学院の同窓生をクルーとして従え、人類社会の中で唯一「霧の艦隊」に対抗し得る戦力となっていく。
 日本国家から独立した千早群像とイ401のコンビは遊撃軍或いは傭兵のような立場で「霧の艦隊」と対峙することになるが、イ401の能力と群像の操艦により、次々と「霧の艦隊」の軍艦(ヒュウガ、ハルナ、キリシマ、タカオ等)を打ち破り、イオナとの接触によって、それらの敵対していた軍艦のメンタルモデル(いずれも若い女の子の外形をしている)に深刻な自己の存在への疑問を生じさせることで、彼女たちを味方に引き入れていく。
 そのような中、日本政府は、「霧の艦隊」を打ち破ることのできる唯一の兵器である「振動魚雷」を開発、群像とイ401にそれを量産可能な国力を保持していると考えられるアメリカまで輸送するよう依頼してくる。振動魚雷の弾頭を開発したのはデザイン・チャイルドの蒔絵(まるっきりの童女である)だが、群像は彼女を日本政府内部の暗闘からイ401に保護し、アメリカに向かうことになる。
 その行く手を阻もうと「霧の艦隊」のコンゴウとマヤ、そしてイ401の同型艦イ400とイ402が立ちふさがる。イ400とイ402によって、一度は群像が死の淵に立たされるが、その死に愕然とするイオナが自らを構成する全てのナノマテリアルを群像の生命維持に活用することで、群像を救い、ユニオンコアまで還元されてしまうが、そこに駆けつけたタカオがイオナと融合することで、イ401は新たな形態を得て復活する。
 さらにコンゴウはマヤを率いて、イ401を討ち果たそうとするが、復活したイオナの直接的な接触に心を開かれ、イオナと和解することになる。ハワイを経由してアメリカのサン・ディエゴへ向かおうとするイ401の前には、さらに霧のアメリカ太平洋方面艦隊が立ちふさがるが、イオナと和解した異形のコンゴウが放つ超重力砲の一撃で、全て一掃されてしまう。
 TVシリーズが描いていたのは、これらとの対決までであり、アメリカ到着後のストーリーは劇場版で語られることになった。
 劇場版では、イ401とその仲間たちがアメリカに振動魚雷を届け、それは量産されるが、その試し打ちで「霧の艦隊」のフレッチャー級の駆逐艦1隻を葬ったところで、千早群像の指示で蒔絵が仕込んだブラックボックスが働き、生産された全ての振動弾頭が機能を停止してしまう。
 千早群像は、振動弾頭はあくまでも抑止力としてその威力さえ示しておけば良いと考え、「霧の艦隊」との和解の途を探ろうとするが、そこに、「生徒会風紀委員長」を名乗るヒエイが立ちふさがる。そして、霧の艦隊の隠されていた意図が露になり、話は10月公開予定の続編「Cadenza」に引き継がれることになった。 

 一方、TVアニメ「艦隊これくしょん -艦これ-」はまだ始まったばかりである。原作は、角川ゲームスが開発し、DMM.comが配信しているブラウザゲーム。ゲーム内容は、大日本帝国海軍の艦艇を萌えキャラクターに擬人化した「艦娘」をゲーム中で集め、強化しながら敵と戦闘し勝利を目指すというもののようだが、こちらも例によって私はプレイしていない。
 TVアニメは、現時点で4話までの放映といったところで、まだ、ストーリー展開を言挙げするほどの物語は提示されていない。第1話の冒頭、榊原良子の重厚な声色で海軍五省が読み上げられたのにはオッと思わされたが、その後の展開はちょっと引いてしまうような萌えアニメである。ひとまずは艦娘たちが集う鎮守府に着任した新米特型駆逐艦「吹雪」ちゃんの成長物語、といった構えである。
 彼女たちは名前こそ「赤城」「加賀」等(航空母艦)、「長門」「陸奥」「金剛」「比叡」「霧島」「榛名」等(戦艦)、「川内」「神通」等(軽巡洋艦)、「睦月」「夕立」「如月」等(駆逐艦)といった旧帝国海軍の艦艇の名称を負わされているものの、彼女らの戦闘形態は足首にホバークラフトのようなエンジン(煙突?)を巻きつけ、手や背中、或いは大腿に主砲や魚雷発射管を背負い、まるで水上スキーでもやっているような形で水上を疾駆し戦うというもの。また、航空戦力は航空母艦が弓で放つ矢が艦上攻撃機や艦上爆撃機に変異して敵艦に攻撃を仕掛けている。
 「蒼き鋼のアルペジオ」では曲がりなりにも、軍艦の形状を忠実に再現する意志が働いていたが、「艦これ」では砲塔や魚雷発射管、航空甲板のキレッパシ等の形状こそオリジナルの形状を留めているが、主体はあくまでも「艦娘」である。
 これは正直、結構見るのがしんどい。ストーリーの展開は、ある程度太平洋戦争における海戦史を意識しているようだが、果たしてどうなることやら。

 さて、この二作品に共通しているのは、旧帝国海軍の軍艦と萌えをモチーフとした点にあるが、「蒼き鋼のアルペジオ」がその形状に対するフェティシズムを押し通しながらSF的なファースト・コンタクトのテーマを隠喩したストーリーを展開しており、かなり無理矢理な感じは否めないものの、軍艦をモチーフとしてそのストーリーを構成する必然性を感じなくもない。
 これに対して、「艦隊これくしょん -艦これ-」には、今のところ、なぜ軍艦なのか、といった必然性を見出せない。
 これには戦車道というお稽古事の中で、リアルな擬似戦車戦(戦車版サバイバルゲーム)を繰り広げる女の子たちを描いてスマッシュ・ヒットとなった「ガールズ&パンツァー」の柳の下のどじょうを狙う意図があるのかもしれないが、艦娘たちが投じられている世界はお遊びではなく、戦没もありえる世界と設定されており、明らかに「ガールズ&パンツァー」とはストーリーの志向が異なっている。
 現時点で評価できるものではないが、これはかなり痛い作品となりそうな予感がするのは私だけだろうか....
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PSYCHO-PASS③ 第二期TVシリーズ及び劇場版


 システムを追求した第二期TVシリーズVS人間とアクションを追及した劇場版といったところだろうか。
 勿論、TVと映画というフォーマットの違いもあるが、両者における一番の違いは「脚本」だろう。正確にいうと前者には、冲方丁というどちらかといえばSFプロパーと目される「シリーズ構成者」の下に熊谷純という脚本家を配して、第一期TVシリーズとの異化を図ろうとした製作側の意図がうかがえるのに対して、劇場版は第一期TVシリーズから高羽彩を除いた虚淵玄と深見真のコンビに回帰し、第一期TVシリーズの正統的な続編としての物語を紡いでいる。
 劇中の時系列は第一期TVシリーズが2112年4月~2113年4月の1年間、第二期TVシリーズが2114年10月20日~2115年初頭の約3ヶ月、劇場版は2116年の半ば、との設定になっている。
 だが、これらを通してみた印象は、第二期のストーリーの座りの悪さだ。そこでは、大まかにいうと、シビュラ・システムという免罪体質者の集合意識に対して鹿矛囲桐斗(かむいきりと)という集合人格を配置し、その対決を通して、シビュラが集合的PSYCHO-PASSを認識し、それを裁定する権能を獲得する過程が描かれていた訳だが、その帰結は全11話という中途半端な話数の中で生煮えの宙吊り状態とされてしまったような気がする。集合的PSYCHO-PASSの認識はシビュラに何をもたらしたのか?そこでシビュラ・システムは一つ進化の階梯を上昇したのではなかったのか?これらのストーリーはもっと練られて良かったはずだし、それを可能とするスタッフは揃っていたのではなかったのか。しかし、TVシリーズ第二期はあのような形で無理やり収束され、劇場版に引き継がれる。
 劇場版は、第二期の物語は無かったかのように相も変らぬシビュラ・システムと常守朱の関係性を描き出すところから始まる。登場人物や狙撃型ドミネーターといったギミック類は第二期TVシリーズを引き継いではいるが、第二期TVシリーズの物語の根幹は、なんらその爪痕を劇場版に与えていない。これは製作がほぼ同時並行で行われたという点に起因することでもあろうが、異なる脚本陣が物語を分裂させてしまった結果だろう。各シリーズごとの構成統括者はいても、シリーズを超えた統制者はいない。つまり、総監督の本広克行と監督の塩谷直義を責めるべきなのだろうが、この点はむしろマーケティングに走りすぎ、TVシリーズ第二期と劇場版の製作の同時並行という無理を押し進め、脚本陣を分業化してしまった製作サイドを批判しておきたい。
 そして劇場版は、いうなれば常守朱と狡噛慎也の再会を描くメロドラマだ。事件が起こり、異国を訪れ、戦いの中での刹那の再会を果たす。そう、このストーリーは殆ど押井守監督の「イノセンス」と相同のものだ。常守は倒置されたバトーであり、狡噛は倒置された草薙素子という訳だ。勿論、映画というフォーマットに応じて、戦車に戦闘機、戦闘ヘリ、挙句は戦闘ドローン(ロボット)による派手なドンパチは打ち上げてくれるが、その物語に新味はない。
 先日、柄谷行人が講演で「物語はいつも同じだ」といっていたが、この劇場版PSYCHO-PASSは正にその轍を踏んだものとなってしまっている。これをエンターテインメントだから、という言い訳は聞きたくない。


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河津武俊著「肥後細川藩幕末秘聞」(2003年10月 弦書房)


 熊本県の北端に、北部、東部、西部の三方を大分県に取り囲まれた小国(おぐに)という地方がある。自治体としては小国町と南小国町に分かれるが、地勢としては阿蘇山の北東部の外輪山とその裾野を構成する地域であり、温泉好きな人には、黒川温泉があるところ、といえば通じるだろうか。
 江戸の幕末、この地方でキリシタン部落の虐殺事件があったという口伝があり、ふとした事でその話を耳にした日田市で開業医を営む著者が、その真偽を追求する調査に乗り出し、その探求の道行きを綴ったのが本書「肥後細川藩幕末秘聞」である。原著は1993年に講談社から出たものだが、その10年後に大幅な増補を施して再刊行されたものである。
 虐殺があったと伝えられているのは嘉永六年(1853年)、ペリーが浦賀に初めて来航した年である。その虐殺事件を最初に活字化して紹介したのは昭和35年に刊行された禿迷盧(かむろめいろ)「小国郷史」であり、次いで、石牟礼道子が「西南役伝説」で、それを取り上げている。両著が伝える内容はいずれも、長谷部保正という小国の古老が伝える口碑伝説が元となっているが、「西南役伝説」の語りがその雰囲気をよく伝えているので、孫引きになるが、抜粋して紹介しておこう。

++ そんとき、小国じゅうにお触れが出て、切支丹ば信仰すれば、こういう目に遭うぞちゅうわけでしたろう。うすねぎりの者どもを、処刑するけん見にゆくようにちゅうて、お触れが出たそうです。私の母がよう話よりました。
 その『うすねぎり』の生き残りの人は、泰次郎さんというお人で、そんとき四つじゃったそうです。
 (中略)
 うすねぎりの山ん上、松ノ木の下に竹矢来を結うてあって、検死の役人が向う鉢巻して、袴をあげち腰かけとって、切り方の役人が検死の役人の方にお辞儀してから刀を抜いて、三べん振って三べんめに、首落としましたそうです。そうすると、胴がふっと半分膝立てて立ちよったち、子供だったばってん覚えとるち云いよったです。
 立ち上がるとば後から穴の中に蹴り落としましたそうですもんな。小さい子供たちまで後手に縛って斬ったそうです。そうすると切口から血柱の空に向けち、さあーっとふきあがって。
 あすこあたりゆけば、今でも外道のひっつくちゅうて、そるから先、うすねぎりの付近にゃ、滅多にだあれも寄りつきまっせんです。
 (中略)
 何家族殺されましたやら、ひとつの塚にひと家族、斬られる前に、腰に縄つけられて曳かれて行って、自分たちの入る穴ば掘らせられたちゅうて、吉原あたりの年寄りたちがいいよりましたです。
 塚の数が十二ありますき、うすねぎりの集落ぜんぶ、十二家族だったとでしょうな、女、子供みんな殺されて、一家族が四、五人から五、六人として、五、六十人もおりましたろうか。かねてあんまり、近所の村とつきあいのなか村でしたき、はっきりしたことはわかりませんとです。塚の数だけが、大きいのや小さいのやとりまぜて、大きい塚は、大人数、小さい塚は少人数だったとでしょう。
 (中略)
 おいねさんという人がここの近くの江古尾(えこお)という集落の娘で、その嫁入り先に、どういう縁か泰次郎さんが養子に入っちょって、おいねさんが泰次郎さんを連れて里帰りしとったときに、その処刑があったわけでした。それで二人が処刑をまぬがれて、泰次郎さんはそんとき四つになっちょって、よう覚えちょるといいよったそうです。
 ほとぼりのさめて、二ヵ月ばかりしてからだったろうと云いおったそうですが。おっかさんに連れられて、そろっとうすねぎりに帰ったそうです。もちろん村には誰ぁれも居らんな、おっかさんが、あっち立ち、こっち立ちして塚に詣って、どこの家の塚かわからん塚のひとつずつにそこらの花摘んであげて詣って、わあわあ泣きなはるき、自分もわけわからんなり、悲しゅうして、いっしょになって泣いたのばよう覚えちょるち、泰次郎さんが酒呑めば泣いて、話よったそうです。
 (後略)(17~22頁、朝日選書版の「西南役伝説」では187~193頁)

 「うすねぎり」は臼根切とも書くようだが、正確には臼内切で、黒川温泉の西南2kmほどの場所であり、現在は人なき廃村で、その中心部にある千人塚と呼ばれる丘がこの悲劇の舞台と推定されている。
 著者は、この地を地元の郷土史家らとともに幾度か訪れ、この事件の実在をほぼ確信するに至るが、それを証明する文書は一切存在しない。この件の語り部である長谷部保正氏も、著者がこの事を知る以前に他界しており、手がかりは既に途絶えたかにみえた。
 ところが、臼内切の千人塚を案内してくれた小国の郷土史家の佐藤弘氏が、映画評論家の荻昌弘を知っているか、というところから、思いがけない話を始める。荻昌弘の曽祖父に荻昌国という肥後細川藩士がいて、彼は幕末に小国地方の郡代を勤めていたが、その時謎の自殺を遂げている、というのだ。
 この荻昌国、実は、肥後の実学党の領袖である横井小楠や元田永孚等の同志であり、水戸の会澤正志斎等とも文通する間柄であり、小楠とともに熊本実学党の双璧を成すといわれた人物である。
 そして、確かに幕末の文久二年(1862年)一月十八日に小国で自殺している。著者は、この事実の発見に我を忘れそうになる程の興奮を覚えるのだが、嘉永六年と文久二年とではその間に10年の歳月が流れている。このキリシタン虐殺と荻昌国の自殺に具体的にどのような関係があったのかは定かでない。以後著者は、この関連性の追及に心血を注ぎ、横井小楠や元田永孚の著書や多くの幕末史、キリシタン関連史の文献、果ては細川家が有する膨大な史料の山である永青文庫を紐解き、萩や水戸をも訪れ、文字通り東奔西走するのだが、確たる証拠は杳として見出せない。
 ただ、その探求の果てに著者は、昌国の自殺はのどを短刀で突いたものであり、その短刀は首の後ろを突き抜けていた事、自死の際に弟である荻源太宛の遺書を認めており、その弟は細川藩の追及を受け、遺書とともに水戸へと出奔し、水戸藩の保護を受けた事、そして、嘉永六年に荻昌国が江戸湾警備部隊の一員として一旦大坂まで出向き、ペリーが直ぐに去ったことから大坂で引き返し熊本に戻っている事実等を見出す。
 当事の熊本から大坂への道筋は、現在大分市鶴崎となっている肥後細川藩の飛び地を経由した瀬戸内の船旅であり、熊本から鶴崎への道筋は阿蘇、久住を抜けていくものであるから、この虐殺事件の現場の程近くを当時、荻昌国は往復しているのである。そして、肥後細川藩の先祖には、有名な切支丹である細川ガラシア夫人がいる。
 それらは、いずれも傍証たるに過ぎない歴史の断片だが、著者はこの断片から「悲愁の丘」という一片の物語を小説として紡ぎあげ、それを本書の巻末に添えている。それはあくまでも小説として、著者の想像力が築き上げた物語に過ぎず、幾分筆も走りがちのきらいを否めないが、この探求の道行きの果てに置かれると、さもありなんかとも思わせられるのである。

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福井晴敏「震災後」(小学館 2011年11月)

2011年3月11日の地震発生からそろそろ3年半の時間が経過したことになるが、その鳴動によって露わとなったこの国の動揺は、何だかますますひどいことになっているような気がするのは決して私だけではあるまい。
 震災後、雨後の筍の如く発表された震災関連本がブック・オフの低価格コーナーで次第に幅をきかせるようになった今日この頃、UCガンダムの福井晴敏がこんな本を書いていたのかと手にとったのが本書「震災後」である。サブタイトルとして「こんな時だけど、そろそろ未来の話をしようか」の言葉が小さな文字で添えられている。
 「震災後」は、首都東京でこの災厄に遭遇した一家のその後の半年を描いた小説であり、帯には「リアルタイム・フィクション」の文字が記されている。ストーリーはほぼ忠実に実際の災厄以後の事件の経過を追いつつ、その中で見失われてしまった未来の欠損が人々の心の闇となって広がっていく様を描くとともに、いかにそこから立ち上がっていくべきかというテーマを追ったものとなっている。

 主人公は福井と同世代のサラリーマン野田圭介。野田には、妻(美希)と一男(弘人)一女(千里)の子どもたちがあり、そして物静かだが得体のしれぬ父が同居している。その父はどうやら旧防衛庁の情報局に出向していた元警察庁のキャリア官僚で、危機に際して、意外な行動力と防衛庁時代に培った人的ネットワークを駆使して圭介たち一家を支えていく。
 だが、災厄により未来に希望を持てなくなってしまった主人公の息子、中学生の弘人は自室に閉じこもってネットの情報をかき集めては、ふさぎの色を濃くする悪循環へと陥っていく。それを見かねた祖父(主人公の父)は一家を被災地へのボランティアへと駆り出すが、弘人にとってそれは寧ろ逆効果となってしまい、弘人はやがて画像処理によって「一ツ目」にされた赤ん坊の画像をフクシマベビーとしてネットに流す悪事に加担してしまうことになる。
 かつての部下から孫の関与に関する情報を得た父は、その事を圭介に告げるが、その体は既に末期癌に蝕まれている。そして死の床で父は圭介に向ってこれまでの過ぎし日、来し方を訥々と語り始める。
 ある程度事の露見を覚悟していた弘人は自首するが、少年かつ従犯ということで公式にはお咎めなしの処分保留となるが、その学校では有識者を招いた講演会が開かれることになる。
 父からの遺言ともいうべき言葉を託された圭介は、その講演会で自分にも話をさせてもらうようにねじ込み、にわか仕込みの猛勉強を経て、未来への希望の種となる言葉を子どもたちに伝えようと話し始める。そして圭介が持ち出してくるのが、太陽光発電衛星。スペース・ソーラー・パワー・システム(SSPS)、宇宙空間で集めた太陽光を電力に変え、マイクロ波のビームに変換して、地球に送信するシステムだ。

JAXA SSPS

 だが、SSPSも、本格的な実用化はそれこそ50年先か100年先かといった技術であり、当座のやりくりはやはり原発に依存しなければどうにもならない代物である。圭介はSSPS実用化ための課題についても一つ一つ丁寧に説明していくが、そこで女性のPTA会長からの横やりが入る。それは自然を屈服させようとする男の傲慢だ、その先に道はない、行き止まりなのだ、ということを思い知らされたのが今回の災害ではないか、と。
 圭介は一瞬たじろぐが、その地点から繰り出される言葉は最早希望への祈りというしかない。
 祖父-父-息子と三代に亘る構図はそれこそUCガンダムそのままといってもいいが、彼らの叫びもまたそれと相同なものといって良い。
 ただ、ここで少し異なるのは、ここで紡ぎだそうとされている希望が、極めて男性的な観念性に起因するものであることに自覚的な視点を描出している点だろう。話を終えた後、父の死を確認し、漸く息子と二人で話す機会を得た圭介は、弘人に向かって「バカなもんだ、男なんて」と嘯いてみせる。そして、圭介は逃げ場を失くした父の立場を自覚していくことになる。

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UC

足かけ4年、原作の連載開始からだと7年以上の歳月を費やしてアニメーション「機動戦士ガンダムUC」が完結した。今日から上映&配信&Blu-ray劇場先行発売が開始されたepisode 7「虹の彼方に」によって、長きに及んだ物語に終止符が打たれた。まずは、ここまでの労をとられたすべてのスタッフに感謝の念を捧げたい。

 周知のように、小説「機動戦士ガンダムUC」は福井晴敏の作品だが、その舞台設定は富野由悠季が総監督及び原作者として手掛けてきた宇宙世紀シリーズを背景とするものであり、直接的には「逆襲のシャア」に続く物語となっている。
 もちろん、今回完結したアニメーションも、基本的にはその枠組みを離れるものではないが、小説版のストーリーとは随所に異なる部分をみせながら、根幹では富野から福井に受け継がれた「根っこ(マリーダがバナージとの戦闘時における全的交感を経てバナージに告げた言葉)」を貫きとおした作品となっている。それを象徴するのが過酷な現実に抗うバナージやミネバ等の若き登場人物たちが口にする、「それでも」という言葉だ。UCという作品はそこに製作者たちの巨大な感情の熱量を押し込んで成り立っている。「人間だけが神を持つ、その内なる可能性の獣。」それがユニコーン・ガンダムという人型に擬せられている。
 人が善意により、良かれと思って始めた行為が、人々の関係のなかで巨大な悪に変換されてしまう現実。人の当為が呼び寄せてしまう、理屈では越えられない何かがどうしようもなく現前してしまう逆説。祈りが呪いへと変質してしまう存在の不条理。「それでも」という言葉は、そこに差し向けられた祈りとして描かれているのだ。
 しかし、祈りでは変わらないのがこの世の現実であり、UCが描き出す宇宙世紀の歴史は、まさにそのような歴史の重みを引き受けざるを得ないものとして描かれている。それは私たちの現実の歴史を寓意したものだが、その結節点となっているのがフル・フロンタル大佐-赤い彗星の再来と目されているネオ・ジオン総帥として描かれている男だ。
 今日公開された「虹の彼方に」ではこのフル・フロンタルの描かれ方が小説版とは決定的に異なっている。小説の著者でアニメーションでもストーリー担当(脚本は、むとうやすゆき)となっている福井晴敏は、この結末で良かったのかと相当悩んだそうだが、幾度か見返してこれで良し、と得心するに至ったと述懐していた(バンダイチャンネルのメッセージ配信)。小説ではその呪いは終局に至るまで否定されるべき虚無として描かれていたが、アニメーションではそれは救済されるべきシャア・アズナブルの意志として描かれている。

 ついにシャアは昇天したのだ。

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